密偵シンタス・ヴァーリ・ケストレルと恐るべきカレーライスセット②
ビーストはヒューマンよりも身体能力に優れている。それは膂力や腕力といった筋力だけに限らず、視覚や聴覚、嗅覚といった五感も含まれる。
だからナダイツジソバに入った瞬間、シンタスの鼻は敏感に店内に漂う香りを感じ取った。
内陸である旧王都では珍しい、海の魚のものと思しき香りに、海草に火を通した時の香り。そして、それらとは別に、食欲を掻き立てる数多の香辛料が混ざり合ったような香りがする。
黒胡椒を始めとする香辛料は主にビーストの故郷であるデンガード連合で生産されているものだが、その値段は恐ろしく高い。昔は同量の砂金と同じ値段で取引されていたほどだ。今は生産効率が上がったので昔ほど高価ではないが、それでも平民の口に入るほど安くなった訳ではない。香辛料は未だ王侯貴族や豪商たちの為の嗜好品だ。
「………………そうか」
ここでシンタスはハッと気付く。噂によると、この店にはハイゼン大公や騎士団長アダマントまでもが足を運ぶという。この多数の香辛料の匂いは、きっと彼らの為の特別な料理を作っているのだろう。
ということは、ほどなく大公か騎士団長がここに来ると見て間違いない。まさかシンタスの正体が見破られることはなかろうが、しかし万が一のことを考えればさっさと食って帰るべきだ。
そんなことを考えながら空いていた席に腰を落ち着けると、卓上に置いてあるメニューが目に入った。
「どれ……」
とりあえず、といった感じで何気なくメニューを手に取ったシンタスだったが、それをまじまじと見てから驚きに目を見開いた。
紙ではない、見当もつかない素材で作られたメニューに載っている料理の数々。料理名と共に料理そのものの絵も描かれているのだが、その絵が驚くほど詳細なのだ。まるで本物。宮廷画家とてここまで詳細な絵を描くことは出来ないだろう。そしてどの料理も驚くほど安い。どれもこれも500コル前後とは、食堂としていささか常軌を逸している。こんな値段で商売が成り立つ筈がない。無理に商売を続けても赤字を生み出すだけになる。ハイゼン大公は一体どういうつもりでこんな店を出したのか。
気になることは山とあるが、ともかく料理を頼んで食べてみなければ始まらない。だが、如何せんこの店のメニューはいずれもシンタスの知らぬもの。どれを頼めばいいのか判断がつかない。
そう思って、シンタスは隣の席で食事をしている、兵士らしき青年に声をかけた。
「すまないんだが、お兄さん」
「……む? 俺か?」
それまで真剣な表情でソバを啜っていた青年がどんぶりから顔を上げ、シンタスの方に向き直った。キリリと顔の引き締まった、真面目そうな若者である。
「ああ。実はこの店に来るのは初めてなんだが、ここではどの料理が一番オススメなんだい?」
シンタスがそう訊いてみると、青年は「うむ」と頷いてから話し始めた。
「そうさなあ、この店の料理はどれも美味いが、最近はカレーライスセットをカケソバで食べてる人が多いな」
「カレーライスセット? カケソバ?」
復唱しながら、シンタスは手元のメニューに目を落とす。カケソバは温かいソバというメニュー群の一番上に書かれており、カレーライスはソバのカテゴリーから外れたゴハンモノというところに書いてある。見たところカケソバはスープの中に麺を沈めた料理らしいが、しかしこのカレーライスというのは見たところで一切どんな料理なのかが分からなかった。あえて見た通りに言うのなら、白い粒の集合体の上に茶色いシチューをかけたもの。だが、シチューは普通、牛か山羊の乳を使うから白い筈だ。それにこの白い粒は何だろうか。穀物ではあるのだろうが、しかし麦とは微妙に違う気がする。それに麦の粒はここまで白くない。全く以て謎の食物だ。
まさかカテドラル王国にまだこんな隠し玉があったとは。流石、冒険王イェルマークが興した国だ。新たな発見が尽きず、まだまだ底が深い。
「そう、カレーライスとカケソバのセットだ。カレーライスをソバのスープで流し込むと絶品なんだ。それにセットで頼むと単品で頼むよりお得だしな。まあ、俺にとっての不動の一番はホウレンソウソバだがね」
言い終わると、青年はシンタスの驚きなど露知らず、再びどんぶりに顔を向けてソバを啜り始めた。
「そ、そうか、どうもありがとう……」
シンタスは青年に礼を言うと、再びメニュー、というかカレーライスに目を向ける。謎の料理、カレーライス。値段は単品で490コル。カケソバとセットにしても690コル。驚くほど安い。平民が日常的に使う食堂よりも安い。カレーライスもカケソバも全く味の想像がつかないものだが、しかしここで頼まないという選択肢はない。未知なるもの、新しきものを発見し、それを可能な限り詳細に報告するのが密偵の使命だからだ。
「すまない、注文いいだろうか?」
「はい、只今!」
手を上げてシンタスが声を上げると、給仕の女性がすぐさま駆けつけてくれた。
「ご注文ですね? 何にいたしますか?」
「カレーライスセットをカケソバで頼む」
「かしこまりました。店長、カレーセットかけで1!」
厨房に向かい、シンタスの注文を大きな声で告げる給仕の女性。彼女はそのまま厨房の方へ行ってしまう。
「あいよ!」
打てば響くといった具合に、給仕の女性に対して厨房の奥から男の声が返ってくる。
どうやらこの店では店長が専門に調理をしているらしい。
と、厨房の方へ行った筈の給仕の女性が、何故かすぐさま戻って来た。
「どうぞ、お水です」
そう言って、シンタスの前にガラスコップを置く給仕の女性。彼女はコップを置くなりすぐさま厨房の方へ行ってしまった。
コップの中には濁りなく透き通った水と、驚くべきことに氷が入っている。
何の歪みもなく、そして濁りも気泡すらも入っていない透明なガラスコップに、同じく全く濁りのない水。そして冬でもないこの季節に氷が入っているのはどういうことだろうか。この季節に氷を手に入れるには氷魔法のギフトを使うか、氷室か、それとも魔導具を使うか。だが、店主も給仕も魔法を使った様子はないし、カテドラル王国で氷室が使えるのは王族のみ、となれば考えられるのは魔導具か。
魔導具を使った氷の入った上質な水。しかもコップは一流のガラス職人が作ったものだろう。芸術品だと言われてもおかしくないほどの逸品だ。恐らくは表のガラス戸を製作した工房と同じところで作られたもの。
この水だけでもどれだけの値段がするものか。帝国の常識で考えれば数千コルはするだろう。
「え? いや、水など……」
注文していないと、そう言おうとしたところで、隣に座っていた兵士らしきあの青年が、
「待った」
と、シンタスの言葉を制した。
「え?」
「ここは水を無料で客に提供してくれるんだ。だから断らなくていい」
青年は親切にもそう説明してくれたのだが、シンタスはその言葉が俄かには信じられなかった。
普通、大衆食堂だろうが一流レストランだろうが水は有料だ。それも冬でもない季節なのに氷が入っているのだ。こんな王侯貴族に出すようなものがタダで飲めるなどと、そんな荒唐無稽な話をどう信じればよいのだろうか。
「そ、そんなことがあるのか? こんな、氷まで入った水を……」
コップの水を見つめたまま、唖然として呟くシンタス。そんなシンタスに対し、青年は大真面目に頷いて見せる。
「事実だ。初めて来た客は誰もが最初に驚くが、ここではこれが普通なんだ。覚えておくといい」
言いながら、彼もグイッと自分の水を飲んだ。水を干したコップの中で、残った氷だけがカラカラと澄んだ音を立てている。
彼は何の躊躇もなく王侯貴族に出されるような水を飲んだ。ということは、つまり彼の言っていることは本当で、この店において水を好きなだけ飲むことは別に普通のことなのだ。それはとても驚くべきことだが、この店にはこの店の決まりがある。ただの客1人が下手にああだこうだと騒ぐことではないのだろう。
「あ、ああ、分かったよ……」
ぎこちなく頷くシンタス。
本当に金を取られないのだろうな、と内心で恐々としながら飲んだ水は、しかしキンキンに冷えていて驚くほど美味かった。
「ふう……」
先ほどまではどうもこの店の非常識さにあてられペースを乱されていたが、冷えた水を飲んだことで若干落ち着きを取り戻した。
あたふたするのは自分らしくない。もっと落ち着いて事に当たるべきだ。それがただの食事であろうと。
シンタスがそんなふうに意気込んでいると、給仕の女性が早くも料理を持ってやって来た。
「お待たせしました、こちらカレーライスセットです」
微笑みながら、女性はカケソバとカレーライスをシンタスの前に置いた。
「おお、早いな!?」
とんでもない速さで料理が提供されたが、しかし作り置きではなく、カケソバもカレーライスも作りたてだと主張するようにホカホカと温かい湯気を立てている。これだけの料理をあの短い、僅か数分の間に調理し終えたとでも言うのだろうか。
つくづく常識外れな店である。
「それもうちの売りですからね。ごゆっくりどうぞ」
シンタスの驚く様子が面白かったのだろう、給仕の女性はクスリと小さく笑ってから別の客の注文を取りに行った。
※西村西からのお願い※
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