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伯爵令息ティモシー・ロンダと甘く冷たくピリリと辛い紅生姜アイス⑤

 昼。

 ナダイツジソバの店内は喧噪に包まれていた。

 店中の席という席を客が埋め尽くし、退店した人数だけ新たな客が入り、ずっと満員の状態が続いている。

 聞けば、この店は基本的に毎日こんな状態で、朝の開店から夜の閉店まで、一切客足が途切れないのだそうだ。

 旧王都で一番の食堂。それが真実かどうかは定かではないのだが、そう称されるだけのことはある、伊達ではない。

 王都の人気レストランや食堂でも、ここまで客が殺到することはないだろう。


 一体何故、こんなにも人々がこのナダイツジソバに殺到するのだろうか。

 丁寧かつ迅速なサービス。確かにそれも理由ではあろう。

 清潔で豪奢極まる店内や珍しい設備もその理由だろう。ガラス戸が人の訪れを感知して自動的に開いたり、歌手や楽団がいる訳でもないのに歌唱が流れてくる店など、王都にすらもない。


 だが、何よりも人々を惹き付けるものは、やはり提供される料理の美味さ、それに尽きる。


 今、ティモシーの目の前にある料理、カツドンとモリソバのセット。

 これは、このあまりにも美味い料理は一体何なのか。

 それぞれひと口ずつ食べ、そのあまりの美味さに幼いティモシーは食事中にも係わらず放心していた。


「………………」


 何なのだ、これは。何なのだ、このモリソバというものは。

 小麦粉でもライ麦でもないのだろう、灰色を湛えた謎の麺。恐らく冷水でキュッと締められたもの。これを黒々としたスープに浸すという変わった食べ方。見た目に華やかなところなど何もないシンプルな料理。

 なのに、なのにだ。

 滑らかで、かつコシの強い麺の噛み応えに、鼻に昇る甘やかで爽やかな香り。スープにしても、あまり海鮮など食べたことのないティモシーでも分かるほど濃厚な海の魚の滋味。恐らくは魚だけではない、別の地味も混ざっているのだろうが、こちらは何か分からないし、馴染みもない。だが、驚くほど美味い。


 モリソバだけではない、このカツドンなる料理にしてもそうだ。

 これは一体何なのだ。

 味の濃いタレのようなもので小麦粉の衣を纏った豚肉とペコロスを煮込み、それをトロトロの玉子で綴じたもの。玉子の下には、純白の粒がびっしりと盛られ、上の方が煮込みダレを吸って茶色く染まっている。

 これもやはり謎に満ちていた。

 この豚肉を覆う小麦粉の衣、これは一体何だ。薄焼きのパンにでも包んで焼いたのか、それとも水で溶いた小麦粉を豚肉に纏わせて焼いたのか。調理法の見当がさっぱり付かない。だが、それ以上に謎なのはこの純白の粒だ。恐らくは穀物なのだろうが、明らかに麦の類ではないし、豆とも思えない。全くの謎。

 こんなに謎に満ちた料理だというのに、その味わいは極上極まる。

 柔らかく滋味の濃い肉に、甘い脂身。タレの深い味わいに、玉子の甘さ。それら主張の強い味を、仄かな甘みの白い粒が繋げ、調和させている。

 あまりにも美味い。


 そもそもからして、まず最初にサービスとして出された水だ。

 こんな真夏に、丁寧に濾過された水に氷まで浮かべて提供されたそれがとんでもなく美味い。

 まさしく甘露。ティモシーは料理が来るまでに、おかわりまでして飲んだ。


 カツドンとモリソバ。どちらも、たったひと口食べただけ。

 しかし、そのたったひと口でも分かる。美食家でも何でもない、ただの子供でしかないティモシーでも分かる。

 こんなに美味い料理は他ではない。ここにしかない。

 専属の料理人がいる侯爵家の食卓でも、王都で一流と呼ばれるレストランでも、王城のパーティーでも、ここまで美味いものは出なかった。

 華というのなら、王城の料理やレストランに軍配が上がる。花弁やカラフルな野菜や果物、高価な食材を使い、華美に飾り立てる高級料理。それに比べれば、このナダイツジソバの料理は確かに華やかさに欠けている。明らかに高級料理ではない、日常で食す料理だ。平民も利用する食堂で出されるのも頷けるもの。

 だが間違いなく、これまでのティモシーの人生において最も美味いものを食べている。


 平民が日常的に利用する食堂で、平民がこれまた日常的に食する、高級でも何でもない普通の料理がこんなにも美味い。このアルベイルという街の平民は、王都や他の地域に住む貴族よりも遥かに美味いものを常食している。

 その事実が貴族として生まれ育ったティモシーにとっては言葉を失うほどに衝撃だったのだ。

 自分の培ってきた常識がぶっ壊される。

 幼いティモシーにとって、それは初めての体験であった。


「………………」


 呆然自失。

 まさしくそんな様子のティモシーを見かねたのだろう、ここで隣に座るアダマントの祖父が心配そうに顔を覗き込みながら口を開いた。


「ティモシーよ、どうした?」


 その言葉で、ティモシーはハッと我に返る。


「………………え?」


 見れば、2人の祖父、そして祖母がハシを止め、やはり心配そうにこちらを注視していた。


「何やら心ここに在らず、といった様子だが、どうしたのだ? ハシもすすんでおらんではないか」


「あ……」


 祖父の心配に対し、何とも気の抜けた、言葉にもなっていない声を返してしまったティモシー。

 こちらを心配してくれている彼らに、料理があまりにも美味くて放心していたなどと、とても言えるものではない。


「えーと、その……」


 どう言えばいいものか、ティモシーが答えに窮していると、アダマントの祖父が眉間にしわを寄せた。


「まさかとは思うが、口に合わなかったか?」


 問われて、ティモシーは慌てて首を横に振る。


「い、いえ! そんなことは……ッ」


 それだけは断じてない。

 こんなに美味いものが口に合わないなどと、ある訳がない。


 慌てて否定するティモシーをみて、アダマントの祖父は「ふむ?」と鼻を鳴らした。


「そうか? ならばよいのだが……。何か嫌いなものがあれば遠慮なく言うのだぞ? ナダイツジソバの料理は基本的にどれも美味だとは思うが、しかし食べられないものを無理して食べる必要はない。代わりのものを頼んであげよう」


「嫌いだなんて、本当にそんなことはないのです。ただ、あまりにも美味しくて呆然としてしまって……」


 ティモシーはピーマンやブロッコリーといった緑色の野菜が苦手なのだが、幸いにして今日の料理にそういうものは入っていない。


 アダマントの祖父は、嬉しそうに「はっはっは!」と笑い声を上げた。


「そうだったか! ならば遠慮せず食べるといい。足らなければおかわりも頼んであげよう」


「はい!」


 祖父たちを心配させぬよう、ティモシーは打って変わってがつがつと料理を食べ始めた。

 やはり美味い。飽きがこない。

 カツドンで重くなった口を、モリソバでさっぱりとさせる。胃袋に空きがある限り、そのループでいくらでも食べられるのだ。

 カツドンとモリソバ。メニューにはそれぞれ単品でも記載されているのだが、これは実に考えられたセットである。


 カツドンとモリソバを全てたいらげ、締めとばかりに冷たい水を飲んでから、ふう、と息を吐くティモシー。

 美味かった。実に美味かった。祖母には申し訳ないのだが、彼女の料理よりも美味かった。

 この世にこんなに未知なる、そしてこんなに美味いものがあるのかと驚いた。

 齢9つにして、思いがけない形で世界の広さを知ったような、そんな気がした。


「美味かったか、ティモシー?」


 ティモシーが食べ終わるタイミングを見計らっていたのだろう、先に食べ終わっていたアダマントの祖父が、そう訊いてくる。


「はい! こんなに美味しいもの、生まれて初めていただきました!」


 嬉しそうに笑いながら、ティモシーは大きく頷く。

 別に祖父母を喜ばせようと、おべっかを使ってそう言ったのではない。これは本心、本当に心底美味かったので何の誇張もなく口にした言葉だ。しかも、美味さのあまり興奮気味に。


 そんなティモシーの様子を見て、祖父母たちは揃って満足そうに頷いた。


「うむ、そうか、そうか。腹は一杯になったかな?」


「………………はい」


 訊かれて、しばし間を置いてから頷くティモシー。

 本当はまだ、モリソバくらいであればもう1皿は食べられると思うのだが、食べもののことであまり欲張るのは、貴族としてはしたない。両親にもそう教えられている。

 本音を言えば、満腹になるまでこのナダイツジソバの料理を堪能したいところなのだが、今の腹八分目くらいの状態で留めるのがいいだろう。


 だが、ティモシーはまだ幼い。恐らくはそんな本音が表情に表れていて、それを読み取られてしまったのだろう、アダマントの祖父は思わずといった感じで苦笑した。


「ふふふ、まだ若干の余裕があるようだな? ならば好都合」


「え? 好都合、ですか……?」


 ティモシーが少しだけ腹具合が物足りないと、そう思っていることの何が好都合なのか。

 頭上に疑問符を浮かべて見つめていると、アダマントの祖父は続きの言葉を口にした。


「このナダイツジソバはな、デザートも美味なるものがあるのだよ」


「デザート、ですか? それはどういう……」


 デザートを出す店というのは、レストランでも一流どころに限られる。何故なら、デザートというのはそれ自体が独立した料理のジャンルであり、パティシエと呼ばれる専門の料理人が作るものだからだ。

 平民向けの食堂にパティシエがいるという話は聞いたことがない。恐らく、王都にもそんな店はないだろう。

 確かにこのナダイツジソバの料理は美味だが、普通の料理人に加え、パティシエまでも雇っているものだろうか。


 ティモシーがそんなふうに困惑していると、アダマントの祖父が手を挙げて給仕を呼んだ。


「申しわけない、注文をお願いしたい!」


 騎士団長だけあって、店内の騒めきの中にあってもよく通る声である。


「はい、只今!」


 そう返事をし、給仕の少女が駆け寄って来た。北部では滅多に見ることがないと言われている魔族の少女だ。書物などでその存在自体は知っていたものの、正直、ティモシーは今、この場で生まれて初めて本物の魔族を見た。


 アダマントの祖父と、そしてロンダの祖父が、理由は分からないが何故か給仕の少女に対して頭を下げる。


「これはこれは……」


「おお、これはすみません。まさか貴女様が来てくださるとは……」


 と、アダマントの祖父の言葉の途中で、少女が苦笑しながら首を横に振った。


「今はただの従業員ですから、私のことはお気になさらず……」


 彼女の苦笑に応じる形で、アダマントの祖父も苦笑を浮かべる。


 伯爵家の当主たる者が、まるで自分が下とでも言わんばかりのかしこまった態度。

 ティモシーには何が何やら分からないが、どうにも訳ありといった感じだ。もしかするとこの少女は何か特別な、それこそ祖父たち以上に高貴な人なのかもしれない。それが平民向けの食堂で働いているというのだから、何か込み入った事情があるのだろうか。


「や、そうでしたな。野暮なことを申しました、では、追加の注文をよろしいですかな?」


「はい」


 頷きながら、少女は前掛けからメモとペンを取り出した。


「ベニショウガアイスを人数分くだされ」


 ベニショウガアイス。確か、屋敷で祖父たちが話していたものだ。衝撃的なほどの美味い料理を食べてすっかりと失念していたが、祖父たちはそのベニショウガアイスなるものを楽しみにしていろと、そう言っていた筈だ。

 名前からしてショウガを使った甘味なのだろうが、しかし本来辛いショウガをどうやって甘味にするのだろうか。ショウガの飴は食べたことがあるから想像が付くが、それ以外の形となると、どうなってしまうのだろう。

 祖父たちが美味いと絶賛するベニショウガアイス。

 ティモシーとしても期待はしているものの、一抹の不安は拭えない。


「かしこまりました。すぐお持ちしますので、少々お待ちください」


 心配そうにティモシーが見つめる中、少女は手早くメモを取ると、一礼してから小走りで厨房の方に向かう。


「ベニショウガアイス……」


 少女の背中、ヒューマンにはない、揺れる尻尾を見つめながら、ティモシーは呆然とそう呟いていた。

 ベニショウガアイス、はたして如何なるものなのか。

 ティモシーにとっての美味なる衝撃はまだまだ続く。


本日4月4日はコミカライズ版名代辻そば異世界店の更新日となっております。


今回からは新エピソード、大剣豪デューク・ササキ編が始まります。

伝説のストレンジャー、コジロー・ササキの子孫、デューク。

修羅とまで呼ばれるほどの剣豪となったデュークは、強敵を求めて旧王都を訪れたものの……?


読者の皆様におかれましては、今回もお読みくださいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。


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