ダンジョン探索者キキと懐かしき香り、煮干しラーメン④
地元の青年たちに教えてもらった、ナダイツジソバなる食堂。
そこでは、美味なる魚のスープを使用した麺料理の数々が供されているらしい。
不思議なことなのだが、魚の身は一切入っていないそうで、あくまでもスープにその滋味を移すのみなのだそうだ。
キキなどは何たる贅沢な料理なのだろうと思うのだが、料理の値段はどれも良心的、それでいていずれも美味極まるものばかりで、まさに庶民の味方とも言える、地元の皆に愛される店だとのこと。
また、そこを訪れる客層も独特で、人種問わず老若男女、平民だけではなく、その美味なる料理を求めて富豪や貴族が来ることも珍しくないらしい。しかも、混んでいれば貴族でも平気で待機列に並ばせるし、平民と相席もさせるのだとか。
そんな話を聞いても、キキは俄かには信じられなかった。
人によって程度の大小はあるものの、貴族という人種はプライドの塊だ。列に並ばせたり平民と相席などさせようとすれば、激怒して店員を斬り捨てることすらあり得るだろう。少なくとも、キキの知る貴族というのはそういう連中だ。
幸運にしてキキ自身は貴族に直接対応したことはないが、横暴を働く貴族の姿を傍から見たことなら何度もある。特に、王都では毎日のように。店で何か気に入らないことでもあったのか、平民の店員に対して大声で怒鳴り、挙句の果てには打擲までしていた貴族もいたほどだ。
そういう貴族という人種でさえ大人しく言うことを聞く食堂。一体どういう店なのか想像もつかない。というか、本当にそんな店が実在しているのだろうか。
あの青年たちの話を聞いたのはたまたま。彼らにキキを騙す意図はない筈。なのだが、どうにも信じられない。正直、半信半疑である。嘘だと疑う心が払拭出来ない。
もし本当にそんな店があるのだとすれば、それは奇跡だ。
ああでもない、こうでもないと考えながら、教えてもらった道を歩くキキ。
大通りを真っ直ぐ進んで旧王城の正門前まで行き、そこから城壁に沿って真っすぐ。そうすればやがて入店待ちの行列が見えてくる筈だからすぐ分かる。
青年たちはそう言っていた。
街の中央に聳え立つ、重厚な歴史を感じさせる旧王城。
王都の城も立派だったが、あちらにはここまでの重厚さ、歴史の積み重ねを感じさせるものはない。これから成長してゆく新しい都市の、これまた新しいシンボルマークといった感じだろうか。力漲る若者のようなフレッシュさを感じる。
どちらが良い、悪い、ということもないのだが、キキはこの旧王城の風格も好きだ。まるで亡き祖父母のような、年経た者のみが持つ存在の厚み、そして柔らかみを感じる。
そんな祖父母の如き旧王城の門前まで辿り着いたキキは、そこではたと立ち止まった。
「ん……?」
何だろうか。今、ほんの一瞬だけ、街の匂いに混じって、何か懐かしい匂いを嗅いだような気がした。まるで、海の魚のような。
一瞬。本当に、一瞬だけ。風に運ばれて。
「今の……」
気のせい、ということもあるまい。
キキはスンスンと鼻を鳴らして再び匂いを嗅ぎ分けようとするのだが、もうあの懐かしい匂いはしなかった。
一体、海でもない、そして食事をするところが近くにある訳でもない場所で、どうしてあんな匂いがしたのだろうか。
すぐ側にある旧王城を見上げてみるものの、恐らく匂いの元はそこではなかろう。城の中にも厨房はあろうが、この街を治める大公閣下は無駄な贅沢を嫌うと聞く。まさか大枚を叩いてまで海の魚を食べたりはすまい。
今の匂いに対する疑問は尽きないが、こうしてここに突っ立っていても何が解決する訳でもなし。
気にはなるが、キキはまた、ナダイツジソバに向かって歩き出す。
そうやって歩き出してから数分。
すると、またもやほんの一瞬、魚の匂いがふわっと鼻孔をくすぐった。
「……!」
やはり気のせいなどではない。明確に魚の匂い、それも煮干しの匂いが混じっている。
きっと、この匂いを辿った先に目的のものがある筈。ナダイツジソバという食堂、そして煮干しラーメンなる料理が。
そう思うと、キキの心は熱に浮かされたように逸り、自然、歩く速度も速くなる。
そうやって歩く間にも、ふわり、ふわりとキキの鼻を煮干しの匂いがくすぐり、より一層心を逸らせた。
歩を進めるにつれて濃くなっていく煮干しの匂い。
やがて、10分も歩くと、眼前に人の列が見えてきた。
「あれは……?」
きっとあれがナダイツジソバとやらに並ぶ客の列なのだとキキは思ったが、しかし、彼らは何故だか城壁の前に並んでいる。
だが、匂いの発生源は間違いなくあの行列の先だ。それは間違いない。
もう辛抱堪らず、小走りで行列に駆け寄るキキ。
そして、その先に広がる光景に、キキは思わず言葉を失ってしまった。
「………………ッ!?」
彼らは何もない壁に並んでいたのではない。行列の先には確かに店があったのだ。それも、壁の中に。
恐らくは、旧王城を護る城壁を貫通する形で店を建てたのだろう。
これがナダイツジソバ。旧王都で一番と謳われる大衆食堂。何と規格外の店なのか。
見れば、店の出入口が透明な板状になっており、それが近付く人に反応して自動で開閉している。キキも初めて見るものだが、魔導具の扉なのだ。
そして、その扉が開く度に、そこから煮干しの香りが漂って来る。
何と芳しい香りなのだろうか。店からほんのり香るものだけで、こんなにも食欲を掻き立てるとは。
ゴクリ。
思わず喉が鳴る。煮干しどころか、海の魚の香り自体、もう随分と嗅いでいない。
そこへ来て、こんな極上の香りをいきなり嗅がされるのだから、口の中はもうずっと唾液の海だ。
正直、もう列など無視して力尽くで店に入ってやりたいくらいなのだが、流石に人として最低限のルールすら無視出来るほど理性を欠いている訳でもない。
ここはひたすら我慢あるのみ。
暴走しそうになる自分の心を抑え込むよう、ギュッと両の拳を握り込み、列の最後尾に並ぶキキ。
そうして20分も待っていると、ようやくキキが店に入れる番が回って来た。
「1名様ですね? どうぞ。奥の席が空いております」
紳士然とした男性の給仕に誘われ、店内に足を踏み入れる。
その瞬間、鼻孔だけと言わずキキの全身が濃厚な魚の香りに包まれた。煮干しの香り、煮干しではないが美味そうな魚の香り。魚以外にも、海を思い起こさせる磯の匂いも。香辛料の刺激的な匂いもあれば、野菜や穀物の甘やかな匂いもある。
意識した訳ではないのだが、キキの顔に恍惚とした笑みが浮かび、全身の毛がゾワリと逆立つ。
ここはきっと、キキがまだ知らぬ、そしてキキのこれまでの人生の中で恐らくは最高の、美味の宝庫なのだ。
キキは確信した。
このナダイツジソバなる食堂は、きっと何を食べようが絶対に美味い。
然らば、キキが最も望む煮干しの料理も、きっと最高のものが出て来るのだろう。
そう考えると、思わず胸が高鳴る。
歓喜のあまりにやける表情を抑えられぬまま、キキは先ほど給仕に案内された席に着いた。
名代辻そば異世界店のコミカライズは、毎月4日と19日に更新となっております。
なのですが、申し訳ありません、今回は諸事情により更新はお休みでございます。
コミカライズの最新話を楽しみにしてくださっていた読者の皆様におかれましては大変申し訳ございませんが、なろう版で辻そば成分を摂取していただければと思います。




