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侯爵令嬢ミラベル・シナティと合わないようで合うカレーパン丼⑦

「お待たせいたしました。こちら、ほうれん草そばと、カレーパン丼になります」


 注文してから僅か10分15分しか経っていないというのに、先ほどの給仕の女性が盆に料理を満載して戻って来た。

 見れば、ミラベルたちの分だけでなく、父やハイゼン大公たちの分までも他の給仕たちが持って来たようだ。

 麺料理というものは比較的調理が簡単ではあるが、しかしこの人数分の料理が出て来るスピードとしては、驚くほど速い。


 驚いているミラベルの前に、給仕の女性がテキパキと料理を配膳していく。


「では、ごゆっくりどうぞ」


 ミラベルとセントの分の配膳を終えると、彼女は小さく頭を下げてすぐさま別の席へ接客に行ってしまった。


「………………」


 驚きに声を発することも忘れ、ミラベルは眼前に置かれた料理を見る。


 茶色いのに、しかし器の底まで見えるほど透き通ったスープに沈む、灰色の麺。その上に載る具は、薬味らしき輪切り野菜に、恐らくは海藻と思われるペラペラとしたものひと掴みと、同じくペラペラとした茶色いなにかひと掴み。湯気と共に香る匂いから察するに、魚の加工品であろう。そして器の上半分を埋め尽くす大量の茹でサヴォイ。

 これがホウレンソウソバというものか。

 このスープの匂いに海藻、それに魚の加工品。まさか内陸に位置するこのアルベイルで、これだけ豊富に海の幸が使われているとは、何と贅沢なことだろう。

 海藻というものは一般的に海の雑草として認識されているものだが、アルベイルでは唯一、タラント辺境伯領の漁師町でのみ食されていた筈。そんな超マイナー食材に目を付けるとは何という慧眼だろうか。

 更には、この魚の加工品だ。恐らくは干し魚の類なのだろうが、一体何の魚を使っているのか、そして、どう加工すればこのように薄くスライス出来るのだろうか。まるで木工職人、それも名工が鉋で削り出したかのように薄い。

 いくら干し魚といえど、多少は身に水分が残るもの。木材と同じレベルでカチカチになる訳ではない。つまり、身に弾力が残るのだ。そのようなものを、背後が透けるほど薄く切ることなど出来るものだろうか。普通であれば、鉋で削ろうとしても逆にボロボロになってしまうように思える。

 それに、このたっぷり盛られたサヴォイだ。

 セントのことを調べたから知ってはいるが、このサヴォイという野菜はカテドラル王国内で広く普及しているものではない。彼の故郷、ホルベルグ村で主に生産され、その周辺地域でしか食されていないものだった筈。

 海藻と同様、地域独特のマイナー食材に目を付けるこの慧眼には脱帽する他ない。

 一体、何処の商会を使い、どんなルートでこれら珍しい食材を仕入れているのか。本当に、不思議で仕方がない。もしかすると、専属の食材調達係でもいるのではなかろうか。


 たった一杯の料理に、これだけの驚きが詰まっているとは。

 しかも、しかもだ、今回の料理はこれだけではない。

 次はホウレンソウソバと共に来た、カレーパンドンなる料理に目を向ける。


 これについては本当に、謎の塊としか言いようがない。

 まずは器の上を覆い尽くすほどの玉子。これは分かる。しかしながらこの玉子の下に何があるのか。食べてみるまでは分からないということだろう。

 だが、玉子のことは別にいいのだ。問題は玉子の中央にデンと置かれた、この茶色い謎の物体である。

 名前から察するに、きっとこれがカレーパンなるものなのだろう。パンと言うからには、やはりあのパンなのだろうが、しかし見たこともない様式のパン。カレーというのは、先ほどメニューでチラリと見たカレーライスのことで間違いなかろうが、そのカレーライス味のパンということなのか。もしくは、中にカレーライスでも仕込んでいるのか。

 ともかく、カレーパンを玉子で綴じているらしい。

 味のことはさておき、主食であるパンを更に食材として使うとは、何という斬新な発想か。

 ホウレンソウソバはまだ麺料理だと分かるが、これは一体どういった種類の料理なのだろう。食べてみるまでは全く分からない。


 当初は少し変わった麺料理を出す店、程度にしか考えていなかったこのナダイツジソバ。

 しかし、蓋を開けてみれば、店舗の作りだけではなく、料理までもが全く見たこともない摩訶不思議なものばかり。

 今更ながらに、ミラベルは己の勘の鈍さに舌打ちしていた。噂を聞いたその時に、ものは試しとこのナダイツジソバに来てみればよかったのだ。そうすれば、もっと早くこの斬新極まるものたちにも巡り合えたし、何かしら新たな商機を掴めただろうに、と。

 きっと、最初期にこの店に来た商人たちは、すでに莫大な商機を掴んだことだろう。


 美味そうな料理を前にそんなことばかり考えているミラベルに対し、ふと、セントが声をかけてきた。


「御令嬢、食べないのですか?」


「……え?」


「せっかくの料理が冷めてしまいますよ?」


「あ……」


 言われて、ミラベルはその通りだなと、内心で反省する。

 商売のことばかり考えて、目の前のことをすっかり疎かにしていた。それも、温かさが命の料理を。

 ミラベルは商売のこととなると、他のことそっちのけでついついそのことばかりを考えてしまう。自覚はあるのだが、これはいまだ直らぬ昔からの悪癖だ。両親や兄姉たちに幾度となく指摘されていること、結婚して人の妻になろうというのだから、そろそろこの癖については自省せねばならない。


 温かな料理を前に、手も付けず考えごとばかりしている場合ではないと、ミラベルは料理と一緒に給仕の女性が置いていったフォークを手に取ろうとした。

 が、しかし、そこでふと、ミラベルの手が止まる。


「失礼」


 そう言いながら、セントが卓上の筒に手を伸ばしたのだ。

 最初に見た時から、何に使うものなのかさっぱり分からなかった、スリットの入った木材がギッチリ詰まった筒。その筒からスッと木材を1本手に取ると、彼はそれをパキッと半分に割ったのだ。


「御令嬢は、ハシを御存知ですか?」


 問われて、ミラベルは首を捻る。


「ハシ、ですか……?」


 何だか、聞いたことがあるような、ないような。数年前にデンガード連合の構成国のひとつ、ウーレン王国から香辛料を輸入する際、雑談の中でそんな名称が出て来たような、ないような曖昧な記憶。


 ミラベルが返答に困っていると、セントが先ほど2つに割った木材を器用にカチカチしながら口を開いた。


「この棒のことです。これはナダイツジソバのみで使われているカトラリーなのですが、このように2本の棒の先端で料理を掴んで食べます」


 言いながら、棒で器用に麺を掴み、ずぞぞぞぞ、と豪快に音を立てながらソバを啜り込むセント。

 彼は美味そうにソバを咀嚼して飲み込むと、ついでとばかりにこう言葉を付け加えた。


「通常、貴族のマナーとして食事の際に音を立てるのは行儀が悪いとされていますが、このソバという料理は音を立てて食べるのがむしろ粋なのだそうです」


「粋、ですか……」


 言葉の意味は分かるものの、貴族が常用する言葉ではない。イメージとして、町場で働く男たちが口しているような気がする。


「幻滅されたかもしれませんが、私はむしろ、このような食べ方を好ましく思っています。元はマナーなどという概念すらない、田舎の農民の出ですから。堅苦しいのは好まんのです」


 そう言いつつ、今度は豪快にカレーパンドンを掻き込むセント。


「うむ、美味い!」


 あの厳めしい顔に微笑を浮かべながらそう声を上げると、セントはミラベルに向き直る。


「まあ、高位貴族の御令嬢に……」


 と、セントの言葉の途中で、ミラベルは卓上の筒からハシを手に取って割り、セントの見様見真似でそれをソバの器に突っ込み、不器用な手付きながらもしっかりと麺を持ち上げて勢いよく口の中へと啜り込んだ。


 ずぞぞ、ずぞぞぞぞ。


 およそ、貴族の娘が食事で立てるのに似つかわしくないほどの豪快な音。


「えッ!?」


 セントが唖然として言葉を失っているその前で、ミラベルは豪快に啜り込んだソバを上品に咀嚼して飲み込んだ。


「…………あら、とっても美味しい」


 均一な幅に切られた麺の滑らかな口当たり、プリプリとした弾けるような歯応え、鼻に抜ける独特の香気、ほのかな甘味、麺に絡んだスープの塩味。

 美味い。一切下卑たところのない上品な味だ。

 まさか、大衆食堂でこのような美味に巡り合えるとは。


 ミラベルは堪らず器を持ち上げると、そこに直接口を付け、これまた豪快にゴクゴクとスープを飲み込んだ。


「……やっぱり美味しい。もの凄く美味しいわ」


 器の中のソバを凝視しながら、ミラベルは呟いた。

 魚と海藻が混ざり合った、濃厚かつ柔らかな風味に、発酵調味料による程よい塩味。

 しかも、驚くべきことに、海産物を使っているというのに生臭さや雑味を全く感じない。むしろ澄み渡ってさえいる味だ。

 ミラベルが普段飲んでいる単調な塩味のスープとは全く違う、複雑な旨味を感じる。

 麺同様、このスープも何と上品な味わいなのだろう。嫌味なところが一切ない。初めて口にした味だというのに、不思議と舌に馴染むような安心感さえある。


 これがナダイツジソバの基本、ソバの美味さ。

 それは人々の口に上る訳だ。普通の食堂よりもずっとお手頃な値段で、ここまで美味なるものが食べられるのだから。

 噂話というものには必ず尾ひれが付くものだから、ミラベルはナダイツジソバの評判についても半信半疑だったのだが、たまには噂話を信じてみるべきだとの戒めを得た。少なくとも噂の真偽くらいは確かめてみるべきだ、と。


 麺とスープに続き、セントの故郷の名産、サヴォイも口に運ぶ。

 初めて食べるものだが、これもまた美味。

 シャクシャクとした瑞々しい茎の歯応えに、柔らかで強い滋味を感じる葉には、スープがよく絡んでいる。

 葉野菜独特の、子供が敬遠するような濃い緑臭さは全くない。


 そして、サヴォイの余韻を残したまま、またスープを飲む。


 小さく「けぶっ……」とゲップを吐き、少し赤面しながら、ミラベルは思わずといった感じで口元を隠すよう、そっと右手を当てた。


「ご……御令嬢?」


 男性顔負けの、ともすればセントよりも豪快な食べっぷり。

 ミラベルのような線の細い、如何にも貴族らしい貴族の令嬢が予想外にそんな姿を見せたものだから、セントは驚きを隠せないのだろう。

 彼は口をあんぐりと開けたまま、こちらを凝視して固まっていた。


「あ、これは失礼……」


 ミラベルは苦笑しながら彼に対して頭を下げる。


「このお店独特の粋、大変良いものですね。私もここでなら素を出せそうです」


「え、素、ですか……?」


「嫁入り前の貴族の娘ですから、家ではとかく家族がマナーにうるさくて。でも、せっかく美味しいものを食べるのでしたら、もっと勢いよく食べたいのですよ、私」


 そう、ミラベルには口うるさく注意するくせに、父や兄たちはマナーなど無視、飢えた山賊が如き食べっぷりで料理を掻き込むのだ。しかも家族以外の者たちが食事に同席した場合でも、相手が同じ騎士であれば食べ方を改めない。

 ミラベルとて、誰の目もなければ堅苦しいマナーなど気にせず好きなようにガツガツ食べたいのだ。それこそ父や兄たちのように。


 だが、このナダイツジソバでは、そのような豪快な食べ方こそが逆に推奨されているというのだから、こんなにありがたいことはない。そう思うと、もっと早くこの店に来ていればよかったという後悔の気持ちが更に強くなってくる。


 その後悔の気持ちを料理にぶつけるよう、最初よりは若干慣れた手付きで、ミラベルは大量のソバを啜り込んだ。


「さ、左様で……」


 高位貴族の令嬢らしからぬ大口で、しかし麺を口の中に入れた後は優雅に咀嚼するミラベルに対して、セントは若干顔を引きつらせながらそう頷く。

 そんなセントに対して、ミラベルは如何にも少女らしく、ニコリと微笑んで見せる。


「お互いに、気取った食事は好まない。その点では、私たち、気が合うと思いませんか?」


「は、はあ……」


 何とも曖昧な返事をするセントだが、まあ、否定されないだけマシだ。

 儚げな貴族の令嬢と、いかめしい騎士。一見すると合わない組み合わせだが、ミラベル自身は2人の相性は良い筈だと、そう確信している。少なくとも、貴族らしい堅苦しい食事は嫌いだという共通点があるのだから。

 ここはもっと押すべきだ。


 この場でもっとセントとの仲を深めるには、やはり彼と同じものを好きだという連帯感を示すことが肝要だろう。

 ホウレンソウソバが気に入ったというのは十分伝わった筈。

 ならば、次はやはり、彼が近頃嵌っているというカレーパンドンに手を付けるしかあるまい。


 しかしこのカレーパンドンなる料理、見れば見るほど不思議なものだ。

 半熟の玉子で覆われた器と、その中央に鎮座し、ホコホコと湯気を上げる拳大の茶色いもの。

 これがカレーパンと見て間違いなかろうが、パンの玉子とじなど味の想像もつかない。


「………………」


 まずは様子見。ミラベルはそっとハシの先で玉子の端を掬い取り、それを口へ運んだ。


 ちゅるり、と音を立てて口内へ滑り込んでくる玉子。

 そんな玉子を口に含んだ瞬間、ミラベルの口内に何とも華やかな魚介の香りが溢れた。


「……ッ!」


 美味い。

 これは、ただ単に溶き卵を半熟に仕立てたものではない。先ほど食べたソバのスープ、あのスープを使って玉子をとじているのだ。

 ソバの時にも感じたことだが、何と上品な味わいなのか。しかも、濃厚な玉子の味わいと滑らかな食感が加わったことでそこに華やかさが生まれている。


 いきなり喰らったと、ミラベルは内心で衝撃を受けていた。

 スープと玉子、たったそれだけのシンプルなものが、まさかここまで美味いとは。

 まずは様子見、などと無難にいこうとした自分に対する、これはナダイツジソバからの強烈なカウンターパンチだ。うちの料理は隅々まで手抜かりはない、何処からどう食べても美味いのだ、と。


 これは軽い気持ちで臨んでいいものではない。どっしりと腰を据えていかねば。


 と、ここでミラベルはあることに気が付いた。先ほど掬い取った玉子の下から、真っ白な粒々が覗いているのを。

 これは、あのメニューで見た、カレーライスなるものと同じ粒々。そしてこのカレーパンドンもカレーライスも、ゴハンモノというカテゴリーに属していた筈。つまりは、ゴハンモノとは、この粒々が使われた料理ということなのだろう。


 とても麦には見えない、謎の粒々。

 ミラベルは慎重に粒々だけをハシで掴み取ると、それを口に入れて咀嚼した。


 多少スープを吸った粒々は最初に塩気を感じさせるのだが、噛めばひとつひとつの粒感が際立ち、ほのかな甘味が口内に広がる。

 確かに、これのみで劇的に美味い、というものではない。だが、これは恐らくパンや麺と同じく主食となるもの。これに味付けをしたり、あるいは濃い味の何かと一緒に食べることでポテンシャルを発揮するものなのだろう。

 なるほど、だから上に玉子とじが載っているのだ。


 さて、玉子、白い粒々と確かめてみたことだ、最後は本丸、この茶色い拳大のものに取り掛からねばなるまい。

 カレーパンドンという名前の通り、これこそがきっとカレーパン。まあ、つまりはパンだ。

 しかし、見れば見るほど珍しい形状のパンである。

 一般的にアーレスで作られるパンはもっと大きなものだし、もっと厚みのない平たいものが多い。パンの厚みが過ぎると中まで十分に火が通らず、生焼けになってしまうのだ。保存性を重視して作られるパンというものにおいて、生焼けなど大敵である。中が生だとすぐ腐ってしまうからだ。

 逆に、厚いパンに十分火を通そうとすると、焼成時間が長引いて表面が黒焦げになってしまう。これも食べられたものではない。

 保存をさして気にせず、すぐ食べてしまうのであれば、このように拳大の小さなパンでも十分なのだろう。

 しかしこのパン、どうしてこんなにも表面が茶色いのだろうか。いささか火を通し過ぎているのではなかろうか。

 でもまあ、実際に食べてみるまではっきりとしたことは言えない。眼前に置かれたセントの器を見れば、彼のカレーパンもまた同じ色をしているので、きっと、焼成に失敗したのではなく、元来がこういうパンなのだろう。


 ミラベルはパンの真ん中にハシの先端を差し込んでみる。


「あ……ッ」


 柔らかい。

 驚きに、思わず小さく声が洩れてしまった。

 普通のパンはかなり硬く焼成されているので、フォークで刺すにしてもそれなりに力がいるものなのだが、このパンはさして抵抗を感じることもなく、スッとハシが入る。まさか、こんなに柔らかくパンを焼く方法が存在したとは。この技術が世に広まれば、食の世界に激震が走ることだろう。

 出来ることならば、店主に根掘り葉掘り質問して、このパンを作る技術を聞いてみたいものだが、今はそんなことをしている場合ではない。食事に集中せねば。


 そのままカレーパンをふたつに割り開いてみると、ミラベルは再び驚いてしまった。


「し、白い……ッ!」


 中にたっぷりと茶色いペーストが詰まったパン。

 だが、何よりも注目すべきことは、パンの断面が驚くほどの純白を湛えていることだ。ごく上質な、それこそ王族に献上されるような最上級の小麦粉を惜しげもなく使っている証拠である。

 まさか、こんなに贅沢なものを平民でも躊躇なく注文出来る値段で提供しているとは。

 一体、ここはどういう店なのだ。知れば知るほど謎が深まってゆく。


 ミラベルは震える手でカレーパンをひと口大に切り分けると、それを口に運んだ。

 口に運ばれたカレーパンのペーストが舌の上に乗ったその瞬間、ミラベルの口内は爆発するような香辛料の香りで満たされた。


「………………ッ!!」


 1種類ではない、ミラベルの舌では探り切れないほど数多の香辛料を混ぜ合わせた、複雑玄妙な旨味の爆弾。

 しかしながら、これだけ数多の香辛料が使われているというのに、辛味よりもむしろ甘味が勝っている。この甘味は、恐らくは一緒に混ぜられた野菜と、このペーストを包んでいた柔らかいパンのものだろう。パンの表面に沁み込んだソバのスープも甘味を足しているに違いない。

 野菜だけではない、肉の旨味さえも感じる。塊ではなく細かく挽かれた肉が、味に深いコクをもたらしている。

 たったのひと口に、これだけ数多の美味さが詰め込まれた料理など、ミラベルはこれまでの人生で食べたことがなかった。


「お……美味しい………………ッ」


 呆然と、そう呟くミラベル。

 口に出すつもりなどなかったが、頭の中で考えていたことが、意図せず言葉として洩れていた。

 それだけ、このカレーパンの美味さが衝撃的だったのだ。


「美味しいですか? それはようございました」


 唐突にそう声をかけられ、ミラベルがハッとして顔を上げると、同じようにカレーパンドンをがっつきながら、セントがこちらを見ていた。


「パンとコメという、主食同士の奇妙な取り合わせなのに、カレーと玉子がその両者を繋ぐのですから凄いですよね。主食同士の食い合わせなど、絶対に合わないと思うのに、実際はこんなにも合うのですから」


「コメ……?」


 それは一体何か、というふうにミラベルが聞き返すと、セントは自分の器から白い粒々をハシで取って見せる。


「この白い粒のことです。私も店の者に聞いて知ったのですが、この穀物はコメという名だそうです」


「コメ……」


 そんな名称の穀物、これまで見たことも聞いたこともなかった。

 謎の穀物に、驚くほど柔らかいパン、海の幸のスープ、そして数多の香辛料。

 こんなに贅沢かつ不思議な料理を出す店は、他にはないだろう。少なくとも、カテドラル王国内には。


 最早、ミラベルの矮小な尺度でこの店を推し量ることなど出来ない。

 ならば、矮小なミラベルはただただ、目の前の料理を余すことなくたいらげるのみ。


 こうなったら、遠慮など不要。

 ミラベルは豪快なハシ使いでカレーパン、玉子、コメと器の中の要素を全て掬い取ると、貴族令嬢らしからぬ大口を開けてそれを口内に放り込み、これまた豪快に咀嚼した。


「うぅ~んん、おいひい!」


 食べている最中なのに、その美味さに思わず笑みが浮かんでしまう。

 パン、コメ、玉子が口内で混ざり合い、複雑な美味が形成されてゆく。甘く、辛く、しょっぱく、粒立ち、柔らかく、滑らかで、コクがあり、香り高く。

 見た目は珍妙極まるこの料理が、その実何と美味いのだろう。こんなに美味いものは王都の一流レストランにすらもない。


 堪らない。

 ミラベルは更に勢いを増してカレーパンドンを口一杯に掻き込み、十分に咀嚼してから、今度はそれをホウレンソウソバのスープで流し込んでみる。


「うんん!!」


 唸り声が出るほど美味い。

 咀嚼して口内で混ざり合っていたカレーパンドンが、ソバのスープによってサラサラに解けて喉の奥へと流れてゆく。これがまた何とも爽快なのだ。


 次はサヴォイ、輪切り野菜、海藻、ペラペラした魚の身、ソバの麺を一度に口の中に啜り込む。

 これもやはり美味い。

 様々な食感と味が混ざり合い、口内で三重四重のハーモニーを奏でている。

 これもスープで一気に流し込み、次はまたカレーパンドンへ。

 今度はパンの中のペーストだけ取り出して、白いコメと一緒に食べる。

 美味い。合う。何と言おうか、本来はこう食べるのだというような気さえするのだ。まあ、カレーライスというメニューがあるのだから、カレーパンの中身とコメが合うのは必然と言えよう。

 今度はパンと玉子を一緒に食べ、舌をリセットするべくコップの水をグビリと呷る。冷たい水がスッキリと口内のものを喉の奥へと流し込んでくれた。


「ふう」


 ここでひと息つき、次もまたカレーパンドンをがっつく。

 ぐわし、ぐわし、と、まるで食べ盛りの男子が如く、がっつく、がっつく。

 ものの数分も経たぬうちにカレーパンドンをたいらげると、ミラベルは挙手して給仕を呼んだ。


「カレーパンドン、おかわりくださるかしら!」


 ミラベルが迷いなく高らかにそう言うと、眼前のセントが「嘘だろ!?」とでも言うように驚愕した表情を浮かべた。

 確かにミラベルの食欲は男性顔負けだと聞いたが、まさかここまでかと、そう思ったのだろう。

 だが、ミラベルはナダイツジソバの洗礼を受け、完全に食欲に火が着いてしまったのだ。この程度では収まりがつかない。


「はい、只今! 店長、パン丼1、追加です!!」


「あいよ!!」


 給仕の女性がすぐに駆け付け、おかわりの注文を通してくれた。


「おかわりの方、すぐにお持ちしますので少々お待ちください」


「ええ、ありがとう」


 給仕の女性に礼を言うと、ミラベルは目の前で唖然としているセントに、苦笑気味に微笑みかける。


「驚きになられました?」


「え、ええ、正直……」


 うろたえつつ、どうにかこうにか、という感じでセントが頷く。

 まあ、あれだけ怒涛の食べっぷりを見せたのだ、事前に宣言していたとはいえ、それは驚くなと言う方が無理だろう。


 ミラベルは構わず言葉を続ける。


「私も驚きました」


「貴女様も?」


「パンとコメ……。主食同士なんて本当に合うのかしらと思っていたのですけれど、食べてみればこんなに合うものなのですね」


「あ、ああ、そっちの……」


 自分のカレーパンドンに一瞬目を落としてから、そう頷くセント。


「合わないように見えたって合うものはあるのだと、このカレーパンドンが教えてくれました」


「料理から学びを得られましたか」


「人間関係にも同じことが言えると思いませんか?」


 ミラベルがそう問いかけると、セントは質問の意図が分かりかねるとでも言うように首を傾げた。


「と言われますと?」


「生まれながらに上位貴族の娘として育った者と、平民から騎士になった者。普通に考えると境遇や身分差に開きがあり過ぎて、夫婦になるには合わないと思われるかもしれません。でも、私には必ずしもそうだとは思えないのです。勿論、簡単な道だとは言いません。でも、同じ人間同士、歩み寄ることは出来ると、私は思うのです。少なくとも、そうあろうと努めることは出来る筈だと」


 そう、ミラベルはそのことをこそ言いたかったのだ。

 合わないように見えてもちゃんと合うもの。そういうものは確かに存在する。

 カレーパンとコメ然り。

 無骨な騎士と貴族の令嬢然り。

 侯爵家の人間と騎士爵家の人間然り。

 二人の間に距離があるのなら、お互いに歩み寄る努力をすればいい。言葉も通じぬ野生動物同士ではなく、お互いに同じ人種、そして同じ国に生き、同じ王に仕える人間なのだから。

 ミラベルはミラベルなりに誠実に生きているつもりだし、セントが誠実な人だということはすでに分かっている。

 お互いに誠実なのであれば、あとは両人の覚悟と努力次第であろう。

 ちなみにミラベルの方はすでに覚悟を決めている。侯爵家に比べれば圧倒的に貧乏な騎士爵に嫁ぎ、一代貴族の妻として後に確かな系譜を残せない、という覚悟を。

 少々蓮っ葉な言い方になるが、惚れた男と一緒になる為なら、そんなものは屁でもない。

 あと必要なのは、セントの方の覚悟のみだ。


 あまりの身分差から、セントがこの見合いに気乗りしていないことは最初から分かっている。

 だが、今の言葉で覚悟は伝わったものと見えて、彼も真摯な表情でミラベルに視線を返してきた。


「御令嬢……」


「ミラベルと」


「え?」


「ミラベルと、そうお呼びください。そして、私にも貴方様のことをセント様と、そうお呼びする許可をいただきたいのです」


 先にも触れた歩み寄り。その第一歩として、ミラベルはお互いに名前で呼び合うことを求める。


「よろしいのでしょうか、私のような軽輩が……?」


 戸惑いながら、思わずといった感じで父の方に目を向けるセント。

 しかしながら、父はナダイツジソバの美味なる料理に夢中で、セントの視線には全く気付いていない。

 父ならば「まだ許さん!」と言いそうなものだが、しかしこれは当人同士の問題。父に断りを入れることではない。


「勿論ですわ」


 ミラベルがそう言ってニコリと微笑んで見せると、彼はその無骨な顔を少しだけ赤らめ、ぎこちなく頷く。


「は、はあ……」


「大丈夫、父が何か言ってきても、私が貴方様を護ってさしあげますから」


 ミラベルが胸を張ってそう宣言すると、それが可笑しかったのだろう、セントはここで初めて破顔してくれた。


「それは心強い」


 ようやく少し、心を開いてくれたようだと、ミラベルも思わず笑顔になる。


 その後、この日の見合いはつつがなく終了し、また次回、ミラベルはセントと会う約束を取り付けた。無論、父の同伴ありではあるが。

 そして、初回の見合いのことを報告すると、母はセントに興味を示し、次は自分も同席すると言い始めた。

 2回目の見合いでは、母が実直なセントのことをいたく気に入りミラベルに加勢、まだ頑なな態度を崩さぬ父を一緒に説き伏せてくれた。

 3回目の見合いで父はようやく折れ、ミラベルは見事セントとの婚約を成立させるのだが、それはあと少し、1年後の話となる。

 それから更に1年後、ミラベルは無事セントと結婚。

 後、セントはウェンハイム皇国との戦争において、見事敵方の大将首を挙げ、将来的に子爵にまで昇爵、ミラベルも子爵夫人となり、自身の商会を経営することとなる。そして、その商会が実家のタンタラス商会に比肩するほど急成長していくことになるのだが、それはまだまだ先の話。


本日6月25日、書籍版『名代辻そば異世界店』2巻が発売されました。

2巻もなろう版の内容をブラッシュアップしたものとなっており、更に書籍版オリジナルエピソードも書き下ろして収録しております。

また、本作のイラストを担当してくださったTAPI岡様の美麗なイラストの数々もお楽しみください。新エピソードに合わせて新キャラクターも描かれております。作者といたしましては、特にビーストの拳法家ザガンがお気に入りです。

巻末のQRコードを読み取っていただき、アンケートに答えてくださいますと、書き下ろしのおまけエピソードも読めますので、読者の皆様におかれましては、是非ともお手に取ってお読みくださいますよう、何卒よろしくお願い致します。


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