侯爵令嬢ミラベル・シナティと合わないようで合うカレーパン丼⑥
この店は何なのだろうと、ミラベルは唖然とした様子のまま店内を見回していた。
そもそも店の作りからして異質も異質。専門のギフトを持つ名工ですらも制作が難しいであろう、気泡も歪みもない一枚ガラスの壁に、本物と見紛うほど精緻な蝋細工。極めつけは自動で開閉する引き戸だ。あれは恐らく、扉を開け閉めする為だけに魔導具を設置しているのだろう。それもただ開閉するだけでなく、人が来たことを感知する魔導具と連動させているようだ。
あのガラス張りの壁と蝋細工、魔導具だけでどれだけの金がかかるだろうか。商売人としてのミラべルの目利きが確かなら、恐らくはそれなりの屋敷が建つくらいの値段はする筈だ。
それに内装も無視することは出来ない。
店内に入った瞬間に客を出迎える、恐らくは録音した歌を再生する魔導具による歌に、見たこともない様式の何ともモダンなテーブルと椅子。
隙間から見える調理場は鉄とも銀とも違う光沢を帯びた金属で覆われており、調理用の魔導具の数々が同時に稼働している。
タンタラス商会でも魔導具は扱っているが、いずれも全く見覚えがない。ウェダ・ダガッド領で製造されているものとは明らかに異なる意匠だが、アードヘット帝国のものとも様式が違うように思える。まさかとは思うが、デンガード連合、それもドワーフの本拠地たるフォーモリア製のものだろうか。
国内で1、2を争う大商会ですらも扱っていないような魔導具を、この店のオーナーはどうやって入手したのだろう。きっと、ミラベルには想像も付かないような特別な伝手があるに違いない。
極めつけは、眼前に置かれたこの水だ。
通りに面したガラスの壁と同様、一切濁りも歪みも気泡もないガラスで造られた芸術品のようなコップに注がれた1杯の水。一切の無臭で、恐らくは雑味すらもない、ひたすら丁寧に濾過されたものだろうことは見れば分かる。人力でここまで綺麗な水を作ることは不可能、とすればかなり高性能な濾過用の魔導具を使っているのだろう。
しかもだ、この水には氷まで浮いているのだ。高位貴族や他国の王族の中には、わざわざ氷属性の魔法を使う者を召し抱えて貴重な氷を好きに使う者もいるという話は聞いたことがあるが、この店の氷は全て均一なキューブ状に整っている。ということは、これもまた魔導具で作られたものということ。
ここまで贅沢な水が驚くべきことに無料であり、おかわりも自由なのだという。
これが大衆食堂だなどと、何の冗談だろう。
店舗の大きさ自体は確かに大衆食堂のそれだが、ここまで贅を凝らした作りの食堂など他にあるだろうか。
いや、ない。食堂どころか、一流のレストラン、それこそこの街一番のラ・ルグレイユとて、ここまで豪奢なものではない。
あまりにも規格外。
これがナダイツジソバなのか。
店舗を目にしてから入店して今に到るまで、ミラベルは圧倒されっぱなしだった。
念願のセントと2人きり、対面で席に着いている今現在でさえもだ。
父やハイゼン大公、護衛たちは少し離れた席にいるのだが、やはり父たちも瞠目している様子。
事情を知らぬ者からすると、何故だか呆けているように見えたことだろう。
「あの……」
と、眼前のセントが、少々遠慮がちではあるが、心配そうに口を開く。
「どうかなさいましたか、御令嬢……?」
「……え?」
唐突にそう声をかけられ、ミラベルはハッと、我に返ったようにセントに顔を向けた。
2度、3度まばたきをして、ミラベルが黙って見つめていると、セントは何だか言い難そうな様子で、しかしそれでも意を決した様子で言葉を続ける。
「いえ、その……何か、心ここに在らず、といったご様子だったので、つい…………」
そう言われてミラベルは、これはいけないと焦った。
もしかするとセントは、ミラベルが彼といるのがつまらない、もしくは好意が失せて興味もなくなったと誤解しているかもしれない。
しかし、そうではない、そうではないのだ。ただ、この店、ナダイツジソバに圧倒されていただけなのだ。
「も、申しわけありません…ッ」
誤解されてはたまらないと、ミラベルは慌てて謝罪した。
彼から興味がなくなったなど、とんでもない。セントに対する好意は本物なのだから。
だが、ミラベルが二の句を告げる前に、セントが苦笑しながらこう言った。
「もしかして、お嫌でしたか?」
「え?」
「侯爵家の御令嬢が、大衆食堂など……」
言われて、ミラベルはまたもや慌てて首を横に振る。
「い、いえ! そんなことは! 全く!!」
ミラベルは確かに高位貴族の令嬢だが、平民向けの店を下賤だと蔑んだことはないし、そんなことを思ったこともない。
無論、貴族の中には平民やその客層に向けた店を蔑んだり馬鹿にする者たちもいるが、ミラベルはそのような行為が身分に胡坐をかいた驕り、唾棄すべきものだと断じている。全額とは言わないが、貴族は国が徴収した税を収入として得ているのだから、それを納税する平民を蔑むような行為は愚行でしかない。貴族あっての平民ではない、平民あっての貴族なのだから、そこのところを勘違いしてはいけないのだ。
「そ、そうですか……」
ミラベルの気持ちがどうにか伝わったようで、セントは何故だか安心したように、ふう、と息を吐いた。
恐らく彼は、ミラベルが平民を差別するような貴族ではなかったことに安堵したのだろう。何せ、彼は平民の出身。彼自身は貴族になったとしても、彼の父母をはじめとした家族たちは平民のまま。その平民を馬鹿にしたり蔑むような者が自分の妻になるかもしれないと思ったら、心中穏やかでいられようか。そして悲しいことに、そういう高慢な態度の貴族は往々にしているものなのだ。特に、ミラベルが暮らす王都には。
「あの……」
改めて、というふうに表情を引き締めたセントが、もう一度口を開く。
「あ、は、はい?」
「そろそろ料理を頼もうかと思うのですが、御令嬢はどうされますか?」
そう問われて、ミラベルはようやく思い出した。そういえばここには、昼食を摂りに来たのだった、と。
あまりにも異質なこの店に意識を持っていかれるあまり、ここで食事をするのだということをすっかり失念していた。
「あ、と……」
ミラベルはおもむろに卓上のメニューを手に取り、それに目を通す。
大衆食堂だというのに、レストランのようにちゃんとメニューが用意されているのもまた異質。
妙に光沢があり、妙に硬くてツルツルとした材質のメニューには、実物と見紛うばかりの料理の絵が描かれている。
ともすれば黒々としているようにも見える茶色いスープに沈む、灰色の麺。これが噂のソバというものか。
ソバとは麺をスープの具にしたものだと聞き及んでいたので、ミラベルはてっきり変わり種のパスタ料理なのかと考えていたのだが、どうやら思い違いをしていたらしい。
パスタは小麦粉から作られるもの。しかしながら、製粉した時に灰色になる小麦というものは存在しない。少なくとも、ミラベルの知る限りは。
ということは、このソバなる麺は小麦ではない未知なる穀物で作られたものか、もしくはミラベルも知らない新種の小麦で作られたものということになる。
「………………」
もう、言葉にならない。何を言えばいいのかさっぱり分からない。
まさか、大衆向けの食堂で出されている料理に、ここまで驚かされることになるとは。
ミラベルも知らない新種の穀物。そんなものが実在するのであれば、穀物を扱う商会全てに激震が走る筈だ。なのに、そんなものが流通しているという噂はミラベルでも聞いたことがない。つまり、カテドラル王国では流通していないということだ。
一体、この店のオーナーはどういう伝手を使って、こんな代物を仕入れているというのか。
それに、ゴハンモノ、というメニューの中にある、カレーライスという料理。これに盛られている純白の粒々は一体何なのだろうか。小麦の粒よりも小さく、白い。これもまたミラベルの知らぬ新種の麦か、全く未知の穀物ということか。
このメニューを見ていると目まいがする。
ミラベルは右手で目と目の間を揉みながら顔を上げた。
途方もない。あまりにも途方もない。
ここは商人にとって未知の宝庫だ。この未知の中のひとつでも手中に収めることが出来た者は、巨大な商機を得られることだろう。
だが、現状それがなされていないということは、ここは誰かに固く護られているということに他ならない。
恐らくは、というか十中八九、この店を庇護しているのは、というか運営しているのは、ハイゼン大公だろう。むしろ彼くらいの大物でなければ、この巨大な秘密を護り通せる筈がない。だからこそ、大公自慢のこの店で昼食にしようと、彼自らが提案したのだろう。
ハイゼン大公。彼自身は商売っ気のない人と思っていたが、このような店を極秘裏に経営しているとは、なかなかどうしてやるものだ。
考えるべきことは沢山あるが、まあ、とにかく今は料理を選ぶことが先決。
メニューを見ながら自分の食べるべきものを探るのだが、しかしミラベルには一切何も分からない。ソバなる麺の味も、この茶色いスープの味も、温かいものと冷たいものの違いも、ゴハンモノなるものの味も。
適当に選んで外れを引くのは御免である。
と、ここでミラベルはふと、妙案を思い付いた。
「あの……では、私もリーコン卿と同じものを……」
ミラベルが言うと、セントは一瞬「え?」と困惑した声を発した。
「それでいいのですか?」
「はい、メニューを見ても、私ではどうにも勝手が分かりませんので……」
当初の考えとしては、セントの食の好みを知れば、自ずと彼という人物の一端も知れようと、そう思っていたのだ。ならば、彼が頼むものと同じものを自分も食べれば、より深く彼の食の好みを知れようというもの。
結婚するということは、同じ食卓を囲み、同じ料理を食べるということ。食の好みの合う、合わないというのはかなり重要なことだと言えよう。
しかしながら、そう言われたセントは、どうにも困ったというように人差し指で頬をポリポリと掻いている。
「私は男ですから、それなりの量を食べることになるかと思うのですが……」
遠慮がちにそう言うセント。
なるほど、確かに彼はまだ20代、働き盛りの成人男性、しかも肉体を酷使する騎士だ。普通の男性に比べてもかなりの量を食べるのだろう。線の細いミラベルがそんな量を食べられる筈がないと心配しているのだ。
だが、心配は無用である。
「ええ、構いません。私、こう見えてシナティ家で一番の健啖家を自負しておりますから」
ミラベルが自信満々にそう言うと、セントはまたも「え?」と困惑した声を発した。
「お恥ずかしい話ですが、父や兄よりも食べることもありますの、私……」
頬を朱に染め、少し照れながらそう告白するミラベル。
そう、単純な話、ミラベルは大食いなのだ。
シナティ侯爵家自体が代々騎士の家系だからか、ともかく出される食事の量が多い。そして父や兄たちはそれをガツガツと食べ、パンの欠片ですら残さずたいらげる。流石に家族以外の他者の前では貴族としてのマナーを優先するし、量も常識の範囲内でしか食べないが、家族の前ではマナーなど知ったことかと豪快に食べるのだ。
無論、母や姉たちまでもがそのように食事をしている訳ではない。自分たちが食べられる量を、貴族のマナーに則って上品に食べる。それが淑女の嗜みだから、人前に出ることも多い商売人は特にマナーには気を付けなければならないのだ、と。
そんな母や姉たちによって、ミラベルも徹底的に食事のマナーは仕込まれたので、上品な食べ方はお手のものだ。が、同時に父や兄たちの影響により、ミラベルは食べ方自体は上品でありながらも、量だけは父たちと同じだけ食べる。母や姉たちと同じ量ではすぐ胃が空になってしまう。腹が減って仕方がないのだ。
ミラベルの容姿は明らかに母に似たのだが、胃袋の方は父に似たということだろう。そしてありがたいことに、代謝の良さも父に似たらしく、どれだけ食べても太ったことはない。これについては母や姉たちに「貴女だけズルい!」と何度理不尽に責められたことか。
まあ、ともかくミラベルは貴族の令嬢とは思えぬほどの大食漢なので、セントの心配は杞憂である。
自分より家格が上の令嬢がそう言うので、半信半疑といった様子ながらも頷くセント。
「あ、ああ……。あいや、それは良いことです。食が細いよりはずっと健康的なことです。何でもよく食べ、よく働く。それこそが健全な生き方に他なりません。実家の姉妹たちも男顔負けの食欲でがっついていたものでした」
普通の貴族男性であれば、令嬢に大食漢だなどと言われれば顔をしかめるものである。表面上はどれだけ取り繕おうとも、唇の端がピクピクとひくついたりするものなのだ。貴族なのにはしたない、卑しいと、そう感じるのだろうと思う。単純に言うと、引いてしまうのだ。
だが、セントの反応は違った。彼は驚いてこそいるものの、ミラベルの健啖を良いこととして捉えてくれている。決して顔を引きつらせているような様子はない。ごく普通の表情だ。
きっと、彼自身が言うように、女兄弟がよく食べる人たちだったから、それもおかしなこととは思わないのだろう。
「ふふふ……」
やはり、この人は好もしい人だ。
それが嬉しくて、思わず笑みが洩れてしまう。
「え? あの、何かおかしなことでも……?」
ミラベルが唐突に微笑したもので、セントがまたも困惑してしまったらしい。
口元に手を当てて笑いを抑えると、ミラベルは「失礼いたしました」と小さく頭を下げた。
「父もね」
「はい?」
「父も、私が子供の頃に、同じことを申しておりましたの。よく食べてよく働く、子供は働く代わりによく学びよく遊ぶことこそが健全な在り方なのだぞ、と」
そう、父は人としての健全な在り方、というものに拘る人なのだ。
何せ、貴族である。それも騙し合い、化かし合い、足の引っ張り合い、何よりが常態化している王都の貴族。
だが、父はこれらを貴族の腐敗であると断じて嫌っている。貴族同士の権力争いなど不健全かつ不毛、国や民にとって何の益にもならないものだ、と。
「侯爵閣下も……」
なるほど、と頷くセント。
ミラベルが見るに、セントも父と同じく、貴族同士の権力争いなど愚行だと思っているタイプだ。人の生き方は健全に、そしてシンプルであるべきだと、そう思っているに違いない。それは一切濁りのない彼の目を見れば分かる。
このセント・リーコンという人は、本質的に父の在り方とよく似ているのだ。
だからこそミラベルにはセントという人のことがよく分かるし、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
今日は、見合いが終わる前にどうにかそのことを彼に伝えたい。
と、ここでミラベルたちの席の傍を給仕の女性が通りかかった。何だか特徴的な眉毛が目に付くヒューマンの女性だ。
丁度いい、と思ったのだろう、ここでセントが片手を上げて彼女を呼び止める。
「すまない、注文いいだろうか?」
「はい、只今!」
彼女は前掛けのポケットからメモ帳らしきものとペンらしきものを取り出すと、こちらに駆けよって来た。
メモ帳もさることながら、あのペンは何だろうか。上部にあるボタンらしきものをカチリと押すと、先端から金属製のペン先が飛び出してきたではないか。
あんなシステマチックなペンなど、これまで見たこともない。しかも、墨壺を用意している様子がないではないか。まさかとは思うが、あのペンの中にインクが仕込んであるとでもいうのだろうか。
あのペン、是非とも手に取ってじっくりと調べてみたい。そして可能であれば同じものを手に入れてみたい。一体、何処の工房で製造されたものなのか。あれを仕入れて売り出すことが出来れば、大いなる商機に繋がるだろう。
商売人としての魂が疼く。
だが、今は見合いの時。商売を優先すべき時ではない。
こんな時に、熱に浮かされるが如く商談など始めてしまえば、セントはきっとミラベルに呆れてしまうことだろう。自ら望んだ見合いだというのに、商売の方を優先させるのか、と。
今は我慢の時である。分別というものを見せねば。
ミラベルはセントに見られぬよう机の下、膝の上で己を抑え込むようギュッと両の拳を握った。
「ホウレンソウソバと、カレーパンドンを頼む。彼女にも同じものを」
言ってから、セントが本当にいいのですね、と確認するようにミラベルに視線だけでそう問うてきたので、こちらも黙って頷きを返す。
だが、給仕の女性は何故だか困惑した様子でセントの顔とミラベルの顔を交互に見た。
「あの……余計なお世話かもしれませんが、女性が召し上がるのにはかなりの量になりますよ?」
言われて、またその心配かと苦笑するミラベル。気遣いはありがたいが、しかし心配はいらない。先にも触れたが、ミラベルは大食いなのだから。
「あ、構いません。私、健啖家なので」
ミラベルがそう言うと、彼女はほんの一瞬だけ目を見開いて驚き、しかしすぐさま表情を正して頷いた。
「そうですか……。では、ほうれん草そばを2杯、カレーパン丼を2杯で承りますね」
「頼む」
「はい! 店長、注文入りました! ほうれん草2、パン丼2です!!」
メモ帳に注文を書き込むと、給仕の女性は厨房に向かって声をあげる。
ざわざわと人いきれに溢れる店内をよく通る声が、そのまま厨房まで通り抜けた。
「あいよ!!」
打てば響くといった具合に、厨房から男性の声が返ってくる。
ミラベルの想い人であるセントが最近夢中になっているというホウレンソウソバとカレーパンドン、その注文が通ったのだ。
彼が好きだという、そして巷で噂になっているナダイツジソバの料理、その味は如何ほどのものなのか。
逸る気持ちを落ち着けるよう、ミラベルはコップを手に取ってキンキンに冷えた水を喉の奥へ流し込んだ。
本日6月19日は、コミカライズ版名代辻そば異世界店の更新日となっております。
今回からは皆様お待ちかねの、茨森のテッサリアのエピソードが始まります。
林ふみの先生熱筆のエルフ回、皆様是非ともお楽しみください。
そして来週、6月25日(火曜日)には、書籍版名代辻そば異世界店の2巻が発売されます。
今回もまたなろう版の内容の加筆に加え、書籍版のみのオリジナルエピソードが収録されております。
読者の皆様におかれましては、なろう版に加えて、是非ともこの書籍版もお手に取ってお読みくださいますよう、何卒よろしくお願い致します。




