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転生者ルテリア・セレノと懐かしの冷したぬきそば②

 時間にしてたっぷりと10分も泣いていただろうか、ルテリアはようやく泣き止むと、困惑した表情を浮かべたままおろおろしている店員に対し、自嘲気味な笑みを浮かべて見せた。


「………………ごめんなさい、店の入り口で泣いてしまって。迷惑でしたよね?」


 店員にしてみれば訳が分からないだろう。ルテリアにも事情があるとは言え、店に来た客がいきなり大泣きに泣き出したのだから。


「あ、い、いえ……。昼も過ぎて店は閑古鳥が鳴いてましたからね、それはいいんですけど…………」


 困惑した様子のままそう言う店員。どうやら彼はまだルテリアのことをいぶかしんでいるようだ。

 そういう店員に対し、ルテリアは苦笑を浮かべる。

 目元の涙を拭い、ルテリアは表情を正して店員に向き直り、静かに口を開いた。


「このお店は……名代辻そば、ですよね?」


 ここが辻そばだというのは見れば分かる。しかし、それでも確認せずにはいられなかった。眼前の店員にルテリアの内心が伝わる訳などない。そんなことは頭では分かっている。だが、それでもこの店が幻なんかじゃなく、この異世界に実在しているという確信が欲しかった。


「え、ええ、そうです。当店は名代辻そばになります」


 ぎこちないながらも、店員は確かに肯定した。やはりここは名代辻そばで間違いないのだ。どういう理屈でこんなことが起きているのかは知らないが、ともかくルテリアが大学時代に愛した日本の辻そばがこの異世界に、しかもルテリアが拠点としている旧王都に誕生したのだ。ならば何を置いてもまずやるべきことはひとつ。


「…………冷したぬき、ありますか?」


「え?」


「冷したぬきそばです。ありますか?」


 ルテリアが辻そばのメニューで最も好きな冷したぬきそば。辻そばに来たならばこれを食べねば始まらない。


「ええ、ございます。お召し上がりになりますか?」


 本当にあるか少し不安だったが、店員があると頷いてくれたので、ルテリアは内心でガッツポーズを決めた。この世界に転生した以上、地球に帰ることは出来ない。だが、祖国フランスの次に愛した国、日本のそばは食べられる。日々募る望郷の念に押し潰されそうになっていたルテリアにとって、こんなに嬉しいことはない。


「お願いします」


 そう言ってルテリアが頭を下げると、店員はニッコリとスマイルを浮かべて頷いた。


「かしこまりました。お好きなお席にどうぞ」


「ありがとうございます」


 店員に促され、ルテリアはU字テーブルの一席に腰を下ろした。そうして改めて、冷したぬきそばが来るまで店内を見回してみる。

 天井のスピーカーからは耳馴染みのある演歌が流れ、テーブル上にはメニューの他、七味や割り箸などの備品もしっかり置いてある。券売機はないようだがトイレはちゃんとあるし、奥の厨房にもガスコンロなどアーレスにはないものが置かれているようだ。

 一体どうやって地球の道具をこの異世界に持ち込んだのか。恐らくはギフトの力なのだろうが、どちらにしろルテリアにはありがたい話だ。


 と、ここで店員が水を持って厨房から戻って来る。


「どうぞ、お水です」


「どうもありがとうございます」


 水の入ったコップを受け取り、それをまじまじと見つめてみる。この世界ではまだ実現出来ていない、一切濁りのないガラス製のコップに、恐らくは水道水だろう濁りのない水。浮いている氷も製氷皿で作られたと思しきキューブ状のもの。徹頭徹尾、寸分違わず辻そばである。


 ぐびり、と水を一口飲む。キンキンに冷えた雑味のない水が乾いた喉に染みる。たかが水だが、されど水。異世界の水は基本的に一切浄水されていない生水だ。どうしても雑味が残るし、場所によっては変な臭いがすることもある。ルテリアもアーレスに来たばかりの頃は水が原因で腹を下したものだ。だが、ここの水はそんな心配をせずともグビグビ飲める。地球では当たり前だったことだが、それが地味に嬉しい。


「ふう……」


 コップの水を半分ほど飲んでから、おもむろにメニューを手に取り目を通してみる。

 辻そばには本来沢山のメニューがあり、店舗ごとのオリジナルメニューもある筈なのだが、この店ではどうやら6種類しか提供していないらしい。かけそば、わかめそば、ほうれん草そば、もりそば、特もりそば、冷したぬきそば。この6種だ。日本語で書かれたメニューの上に、アーレスで最も普及している共通語の文字も書かれている。


 辻そばのメニューで一番好きな冷したぬきそばがあるのは素直にありがたいのだが、どうしてメニューが少ないのか。

 ルテリアがそんなことを考えていると、いつの間にか店員がどんぶりを持って側に立っていた。


「お待たせしました、冷したぬきそばです」


 コトリ、と音を立てて眼前に置かれた、内側が朱塗りになった黒いどんぶり。その上に鎮座するのは間違いなく辻そばの冷したぬきそばだ。

 冷水で締められた冷たいそばに、これまた冷たいそばつゆがかかり、その上にたっぷりと揚げ玉が乗っている。そして脇役ではあるが良い仕事をしてくれるわかめとねぎも乗っている。

 これだ。シンプルながらも和風の滋味が詰まった逸品。この冷したぬきそばをどれだけ夢想したことか。硬いパンと味の薄いスープで義務的に餓えを凌ぐ食生活がどれだけ辛かったか。だが、これからはそんな想いをしないで済む。何故なら、こうして目の前に冷したぬきそばがあるのだから。


「いただきます……」


 日本で覚えた、食事に対する感謝の文言を唱えながら割り箸を手に取り、パキリと小気味良い音を立てて割る。

 ゴクリ、と思わず喉が鳴る。その音には美味そうだというだけでなく、僅かに緊張の色が含まれている。何せ実に2年ぶりの地球の料理、辻そばの冷したぬきそばなのだから。

 少し震える手でそばを掴み、持ち上げる。存分につゆが絡んだ茹で立てのそばが、キラキラと光を反射している。実に美しい。


 ずる、ずるる、ずるるるる……。


 サクサクサク……。


 日本の麺は音を立てながら食べるのが粋なんだよ、と、そう教えてくれたのは叔母の夫、純日本人の義理の叔父だ。彼の教えに従い、2年ぶりのそばも粋に音を立てて啜るルテリア。

 噛み締めれば冷たく締まったコシのあるそばが舌の上で踊り、豊かなつゆの風味とそばの素朴な香りが鼻に抜け、一緒に含んだ揚げ玉がサクサクと香ばしく弾ける。


「ああ、美味しい………………」


 その一口を飲み込むのと同時に、ルテリアの頬を一筋の涙が伝った。

 正しく万感の想いがこもった、ルテリアの「美味しい」という言葉。その言葉に嘘偽りは欠片もない。本当に、ただただ純粋に美味しい。生まれて初めて、食事の美味しさに感動して涙が出た。それくらい美味しい。


 次はわかめを口に運ぶ。祖国フランスでは食べることのなかったものだが、このクニクニとした食感が不思議とそばに合うのだ。

 次は辛味の効いたねぎと一緒にそばを。

 次はまた揚げ玉と一緒にそばを。

 次はわかめと一緒にそばを。

 次の一口。

 次の一口……。


 ずるる、ずるるるるる……。


 サク、サクサク……。


 ゴクゴクゴク……。


 気付けばつゆまで全て飲み干し、どんぶりが綺麗に空になっていた。

 食べる前、ルテリアはあれだけ色々なことを考えていたのに、食べ始めてから今に到るまでの間は無心であった。ただただ、美味しいそばに向き合う、それだけの静謐な時間であった。

 そして残ったのは、空になったどんぶりと、満たされた心のみ。


「美味しかった……。本当に、美味しかった………………」


 そう言うルテリアの顔には、実に満足そうな笑みが浮いている。あれだけ泣きながらこの店に入って来た者が、食べ終われば笑顔になる。それは紛れもなく辻そばの持つ力だ。


「綺麗に召し上がってくださり、ありがとうございました。どうですか? お口に合いましたか?」


 空になったどんぶりを回収しに来たのだろう、いつの間にか店員がルテリアの側に立っていた。ルテリアが食べる様子を奥で見ていたのだろう、彼もまた満足そうに微笑んでいる。

 そういう店員にルテリアも笑顔を返す。


「ええ。本当に美味しかったです。ご馳走様でした」


「ご満足いただけたようで、良かったです」


 店員は嬉しそうな顔のまま頭を下げると、どんぶりを回収してルテリアに背を向けた。そうして厨房に向かおうとした彼の背に、ルテリアは「待って!」と声をかける。


「はい? どうされました、お客様?」


 店員が足を止め、ルテリアに向き直る。

 彼にはどうしても訊いておかねばならぬことがある。十中八九そうだと分かってはいても、やはり本人の口から聞いておかねば確信が持てないからだ。


「店員さん……」


 意を決したように顔を上げ、ルテリアは正面から店員の顔を見据えた。


「はい?」


「店員さんは転生者……ストレンジャーですよね?」


 ルテリアがそう問いかけると、店員は明らかに動揺した様子で目を見開いた。


「え!?」


 彼が驚くのも分かる。その特別な力の故、転生者はこの世界では貴人として扱われる。だが、同時にその力を求める悪人たちにも狙われることになる。だからルテリアも周囲に自身の身の上を明かしたことはない。きっと、彼も自身が転生者だということは秘密にしているのだろう。それを初対面のルテリアが言い当てたのだから驚いているに違いない。


「それも地球の、日本から来た方。そうですよね?」


「えええ!!?」


 うろたえた様子で大きな声を上げる店員。

 その様子を見て、ルテリアは思わず苦笑してしまった。


※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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