エルダーリッチのデルガルドと望郷の味、トーストそば⑥
デルガルドたちが注文をしてから5分も経たぬうちに、先ほどの給仕の少女が盆に料理を載せて戻って来た。
「お待たせいたしました。こちら、カレーライスセットと……トーストソバになります」
言いながら、デルガルドたちの前に料理を置いていく少女。
別に急いで作って適当になっていたり、グチャグチャになっているような様子もない。メニューの絵と寸分違わぬ料理が2人の目の前にあった。
普通の食堂であれば、料理1品出て来るのにも数十分はかかるものだ。が、このナダイツジソバはどうだろう。たったの5分弱。どうにも手の込んだ料理のように見えるのだが、異世界の料理というのはそんなにも簡単に作れるものなのだろうか。
「あ、いや、全然待っていない……。むしろとても早くて驚いている…………」
あまりの早さにフレンベルグも唖然とした様子である。
だが、少女は微塵も表情を変えず、唖然とするデルガルドたちを前に驚く様子すらもない。
「当店はお料理を提供する早さも売りですから。では、ごゆっくりどうぞ」
ペコリと頭を下げると、少女は別の席へ接客に行ってしまった。
その場に残されたのはデルガルドとフレンベルグの2人、そしてしきりに湯気を立てる美味そうな料理たちだ。
デルガルドはアンデッドなので鼻も欠損しており、嗅覚も普通の人間よりずっと鈍いのだが、それでも至近距離で湯気が吸い込まれると微かに香りを感じる。これは魚と海藻の香りだろうか。発酵調味料のような印象も受ける。
何となくではあるが、ガルムにも似ている匂いだ。
今はもう世の中から失われた、ストレンジャーが伝えてくれた発酵調味料、ガルム。
ガルムは大量の小魚を塩漬けにして陽光に晒しながら作るもので、分類としては魚醤と言うらしいのだが、これには原料の魚の香気が微かに残る。別に生臭い訳ではなく、味わい自体はすっきりとしているので何にでも合うのだが、やはりその中でもガルムのスープは別格である。
そんな懐かしきガルムのスープにも似た、トーストソバのスープ。匂いだけではない、見た目もガルムのスープに酷似している。流石にガルムそのものと寸分違わぬ、という訳にはいかないが、もしかすると味わいもガルムに似通っているのではなかろうか。だとすれば、おのずと期待も高まろうというもの。
それに何より、ソバの上に載るパンだ。この真っ白でいかにも柔らかそうなパン。
こんな御馳走を前に、いつまでも呆けている場合ではない。
「…………フレンベルグ殿」
デルガルドが隣のフレンベルグに声をかけると、彼はハッとした様子で我に返ったように瞬きをした。
「ん? お、おお…………」
「このまま呆けていても料理が冷めてしまう。折角の御馳走だ、温かいうちに食べてしまおう」
そうデルガルドが言うと、フレンベルグもぎこちなく「うむ」と頷く。
「それもそうだな。食べようか……」
それで2人とも料理に向き合うのだが、ここではたと気が付く。この料理はどうやって食べるのが正解なのだろうか、と。
器の横にはフォークが添えられているのだが、しかし、周りを見てみると、皆、何だか見たこともない、2本の細長い棒のようなカトラリーを使って麺を啜っている。スープを啜る場合はスプーンなど使わず、器を持ち上げ、そこへ口を付けて直接飲んでいるようだ。
デルガルドが伝え聞いていたローマ帝国のカトラリーや食事方法は当時のアーレスとさして変わらぬものだったが、このナダイツジソバを営むストレンジャーの世界では随分と変わった食事方法を取るらしい。
まあ、国ごとに文化の違いがあるくらいだ、世界が違えば文化も大きく異なる方が普通なのだろう。
練習してからならまだしも、いきなりあの棒を器用に使って食事をするのは難しかろう。隣に座るフレンベルグは素直にフォークでソバを食べることにしたようだが、デルガルドもフォークを使って食べることにした。
が、とりあえずフォークはそのまま。まずはパンだ。今日は白いパンが食べたくてここへ来たのだから、最初に口にするものは当然パンでなければならない。
ソバのスープが染み込んでしまう前に、上に載っているパンをひとつ手に取る。このトーストなるパンは1枚切りになったパンを、更に縦2枚に切っているのだが、もうひとつはそのままにしておく。せっかく2枚になっているのだから、もうひとつの方はスープが染み込んだ状態で食べてみようと思ったのだ。
表面を炙っているらしく、白い部分にほんのり焼き目が付いているホワイトローフ。見た目は実に美味そうだが、はたして、その味わいは如何なるものか。
1500年前、最後にホワイトローフを食べた時のことを思い出しながら、デルガルドは白いパンにがぶりと齧り付いた。
その瞬間である。
ザクリ!!
と、パンらしからぬサクサクとした歯応えと、そして香ばしい小麦の香りが口一杯に広がった。
だが、このパンはただサクサクしているだけではない。炙られた表面は確かにサクサクしているのだが、その中身はしっとりモチモチと柔らかく、黒いパンにはない白い小麦の強い甘味を感じる。
「ああ……」
思わず声が洩れてしまう。
美味い。間違いなくデルガルドの知るホワイトローフだ。
保存性を重視した硬くてカチカチ、そのままでは満足に噛むことも出来ないようなパンとは違う、上質な白い小麦の柔らかな味わい。この身がまだ生者であった頃の、思い出の味。
デルガルドが住んでいた村では、パン作りは女衆の仕事だったのだが、母の作るパンは黒い麦のパンであろうと美味かった。だが、彼女が年に1度だけ作ってくれる白いパン、ホワイトローフは絶品だったことが、遠い記憶の中から思い起こされる。
白く、甘く、柔らかく、そして香り高いホワイトローフ。
当時と寸分違わぬあの味が、1500年の時を経てデルガルドの舌の上に蘇る。
「美味いなあ…………」
本当に、心からしみじみとそう呟くデルガルド。
ダンジョンに囚われていたデルガルドの知らぬ間に滅び、消えてしまった故郷。いや、故郷だけではない、長い、とても長い年月により、デルガルドの知る、かつての良き時代ですらも時の彼方に消えてしまった。
故郷が消え、時代が消え、食文化すらも消え。残ったのは魔物と化した醜きこの身のみ。
だが、それでも、この味だけは、デルガルドが最も好きだったホワイトローフだけは、ストレンジャーを介して戻って来てくれた。
エルダーリッチになってしまった当初は己の不幸を呪ったものだが、今はこの奇跡に対し、感謝の気持ちで一杯だ。デルガルドの愛したものがほぼ残っていないこの時代の中で、ホワイトローフと再会出来たこの奇跡に。
この乾いた身体の何処にそんな水分があったものか、思いがけず目の端に涙が滲む。
今のこの感動が薄れぬうちに、もうひと口、パンを齧り、存分に噛み締める。
やはり美味い。
更にもうひと口。
美味い。何度食べてもその美味さが、そして感動が少しも薄れない。あまりの美味さに、たった3口でパンひと切れを食べ切ってしまった。
日常的に提供する料理としてこのトーストソバを出しているということは、異世界ではこの美味なるパンがありふれており、いつでも当たり前に食えるということなのだろう。如何なる世界から来たかは分からないが、このナダイツジソバを営むストレンジャーの世界とは、何と豊かな場所なのだろうか。
デルガルドが1500年ぶりのホワイトローフに感動していると、唐突に横から、
「おお! 美味いな、このスープ! 麺も美味い!!」
と、フレンベルグの声が上がった。
見れば、彼は器に直接口を付け、カケソバのスープを飲みながらずるずると麺を啜っている最中である。
パンにばかり意識がいっていてすっかりと失念していたが、このトーストソバという料理は、本来麺料理なのだ。それも麺がスープの具になっているという、かなり変わり種の。
確かにパンを食べることが今回最大の目的だったが、スープのことも気になっていたのだ。
香り、そして色合いまでもがガルムに酷似したこのスープ。これに期待するなと言う方が無理だろう。
作法としては少々はしたない感じもするが、両手で器を持ち上げ、ぐい、とスープを口内に流し込む。
「んん!?」
飲みながら、思わず唸ってしまったデルガルド。
美味い。当然ながらこのスープも美味い。
だが、それ以上に似ているのだ。他ならぬガルムのスープに。
生臭さやえぐみなど一切なく、澄み切った魚の滋味を湛えたこのスープ。
無論、ガルムと完全に同じ味という訳ではない。ガルム特有の、魚の旨味が発酵することで生じる強い匂いがないし、何か魚以外の滋味も溶け込んでいる。恐らくは植物性のもの、それも海藻に由来するものではなかろうか。
海藻の滋味が加わったことで、スープの塩味に対し角が取れて味わいが丸くなっているのだ。
このスープ、もしかするとガルムのスープより美味いかもしれない。ガルムは確かに美味いものだが、大量の小魚を大量の塩で漬けるという作り方の故、どうしても塩気が尖りがちなのだ。しかし、このスープは海藻の滋味を加えることで塩気の尖った部分を削ることに成功している。
これは1500年前に存在したガルムのスープを進化させたものと、そう言っても過言ではなかろう。
このスープが1500年という歴史の中で正統進化したのならまだ納得出来るのだが、しかし、これはガルムが歴史の彼方に消えた後、突如として異世界からもたらされたもの。
その事実から考えるに、このナダイツジソバを営むストレンジャーは、あのローマ帝国から来たストレンジャーと同じ世界から来た可能性がかなり高い。
ただ、ローマ帝国の人間というのは、この世界のヒューマンとそう変わらぬ容姿をしているらしく、見た目だけでそれと判別することは出来ないだろう。だからと言って、まさか従業員1人1人に「貴方はストレンジャーか?」と訊いて回る訳にもいかない。そんなことすれば店に迷惑がかかるし、フレンベルグにも迷惑がかかる。
本当は是非ともストレンジャーと話してみたいのだが、ここは我慢するしかないだろう。
そんなことを考えながら、何の気なしにソバの麺を啜ったデルガルド。
だが、この麺にもデルガルドは驚くことになる。
「おッ!? う、美味い……」
さして期待もせず口にした麺だったが、これが思いがけず美味かったのだ。
通常、麺と言えばパスタであり、そしてパスタと言えばソースを絡めるか、炒めて味を付けるもの。スープの中に浸すようなことをすれば水気を吸って伸びてしまい、賞味を損なってしまうというのが常識だ。
だが、この麺はスープの中にあってなおシコシコとした歯応えを失っておらず、しかも噛む度に独特の甘やかな風味が口内を満たしていく。多少は小麦も混ざっているようだが、7割以上、8割近くは小麦ではない穀物を使っているものと見える。察するに、それは異世界から持ち込まれた穀物だろう。風味に全く覚えがない。
この独特な麺を咀嚼し、飲み込むと、何とも心地良い喉越しを感じる。
華美ではないが、しかし妙に落ち着くというか、口に馴染む安心感のある優しい味だ。何と言おうか、飽きのこない味、とでも言うべきか。初めて食べる、本来であれば馴染みがない筈の味なのに不思議なことである。
地味だが確かな穀物の滋味が詰まっているこの麺、パンのように常食するのに適した味だと言えよう。
もう1度ズルズルと麺を啜り、今度はスープで飲み下してみるのだが、やはり美味い。
ソバとは、こんなに美味いものだったのか。
パンのついで、くらいに思っていた自分が恥ずかしいと、デルガルドは思った。これはパンにも引けを取らない、十分に主役を張れる逸品だ。
ソバの麺とスープ、このマリアージュが殊の外素晴らしくて、思わず食が進むデルガルド。
麺とスープを5往復ほどしたところで、はたと思い出す。そういえば、まだパンが半分残っていたのだった、と。
固くなったパンをスープに浸して柔らかくしてから食べるのは今も昔も共通のことだが、昔は貴重なホワイトローフをスープに浸すような食べ方をすることはなかった。しかしながらこのトーストソバは最初からスープにパンが浸かった状態で出て来ることから分かる通り、パンにスープを吸わせて食べることを推奨している。
だからその法に従い、このパンも半分はスープを吸わせた状態で食べようと思っていたのだが、予想外にソバの麺が美味くて、すっかりとそのことを失念していた。ソバを食べ進め、器の底に沈んだパンが麺の間から顔を覗かせたことで、そのことを思い出したのだ。
どれ、そろそろスープを吸ったパンを食べてみるかと、デルガルドはフォークをパンに刺し込んでみる。
すると、あれだけカリカリと固かった筈のパンに、さして抵抗もなくフォークの櫛が入り形が崩れた。固くなった黒いパンをスープに浸しても、ここまで柔らかくなることはない。流石はホワイトローフ。それだけ地の柔らかさが違うということだろう。
これ以上形が崩れぬよう、フォークで刺すのではなく、櫛の部分で掬うように持ち上げ、パンを口に運んだ。
その瞬間である。
まだ噛んでもいない、ただ舌の上に載せただけだというのに、パンからジュワリとスープが溢れ出した。
まるで果実だ。瑞々しい果実を口に入れた時のように、美味しい汁が溢れ出すのだ。
噛み締めるとスープと共にパンの風味が口一杯に広がる。そしてたったひと噛みでパンは形を失い、ホロホロと崩れながら喉の奥へと落ちてゆくのだ。不思議なことだが、後味に微かな乳酪の風味を残して。
そう、そうなのだ。パンというものは、汁気を吸うと何故だか微かに乳酪、それもチーズのような風味を醸し出すのだ。
この現象がどうして起こるのか、2000年の時を生きるデルガルドですらもその理由は知らないのだが、その法則は異世界のパンにすらも当て嵌まるものらしい。
「ううん……」
思わず唸り声が洩れてしまう。
スープの中に麺が沈み、その上にホワイトローフが載った料理。そんな奇抜な、いや、奇妙奇天烈なものが抜群に美味い。
郷愁を感じるほど懐かしい味なのに、これまで触れたことのない真新しさに満ちている。
カオスに満ちたトーストソバ。これこそが異世界の美味ということなのだろう。
この器の中に広がるカオスの中から、丹念に過去の思い出を掬い取っていくデルガルド。
まだデルガルドの身がハイエルフであったあの時代。
デルガルドが旅先で発見、窮地を救い保護した、ローマ帝国なる異世界の国家から訪れたストレンジャーの男性。
彼が柔らかいパンと万能調味料ガルムの製法を伝えてくれたことで、デルガルドたちの食卓は飛躍的に豊かなものとなった。
元からパン作りを得意としていたデルガルドの母であったが、柔らかいパンの製法を吸収したことで、彼女は村一番のパン職人となったのだ。
そんな彼女が年に一度、デルガルドの誕生日にだけ作ってくれたホワイトローフ。村の誰が焼いたもの、それこそ製法を伝えてくれたストレンジャーよりも母の方が美味いパンを焼いたものだ。
あのパンは、もう2度と食べられないと思っていた。もう現世に母はおらず、製法自体がスルトによって焼き尽くされてしまったのだから。
ダンジョンから解放されただけでも感謝せねばならない、それ以上を望むのは欲張りが過ぎる。そんなふうに思い、食事に過度の期待はすまいと覚悟していた。
しかしながら、デルガルドのその諦念は、1500年にも及ぶ郷愁は、今日のこの日、まさにたった今、この1杯の料理によって救われたのだ。他ならぬストレンジャーによって。
デルガルドの故郷は、生まれ育った村は、もうこの世にはない。かつて村があった土地に行ったとしても、その様相は見る影もないだろう。
また、デルガルドの知る者たちもすでに現世を離れており、天涯孤独。
今のアーレスには何も残されていないと思っていた。
だが、そうではなかったのだ。少なくとも、デルガルドが最も愛した食べ物、ホワイトローフだけはここに、このアルベイルの地に帰還していたのだ。
もう、父母に会うことは出来ない。兄弟のように育った友にも、大恩あるストレンジャーにも。
だが、ホワイトローフにだけはありつけるのだ、ここに、ナダイツジソバに来さえすれば。
余人には分からないだろうが、そのことが何と心強いことか。時代に置き去りにされたデルガルドにとって、心のよすがになるものがまだある、ということが。
今にも零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、残ったソバを啜るデルガルド。
この後、デルガルドとフレンベルグはイシュタカ山脈に赴き、件の慰霊碑を参拝したのだが、横に設置されていた石碑に、幸運にも父と母、友、そしてあのローマ帝国から来たストレンジャーの名前を見つけることが出来たのだ。
流石に祖父母やそれ以前の先祖の名まで見つけることは出来なかったのだが、それでも両親たちの墓参りが出来るというのは大きい。
ナダイツジソバのトーストソバ以外にも、デルガルドにとっての心のよすがは残っていたのだ。
パナケイアの入手に失敗し、むざむざ死なせてしまったであろうストレンジャー。そして、ダンジョンに囚われてしまったことにより、期せずして永遠に別離してしまった両親や友、村の仲間たち。
慰霊碑を墓前とし、涙ながらに彼らに謝罪をしたデルガルド。
念願だった墓参りを終えたデルガルドは、フレンベルグの忠実な従者として世界を巡る旅に出た。
フレンベルグが老齢でダンジョン探索者を引退するまで300年も続いたその旅の中で、デルガルドは奇跡的にパナケイアを手に入れ、それを飲んだことによりハイエルフとしての肉体を取り戻すことに成功するのだが、それは遥か先の話である。
どうにか忙しくなる前にデルガルド編の最終話を更新することが出来ました。
これ以降、しばらく名代辻そば異世界店は不定期更新となります。
諸々の作業に加えて、それが終わった後は新作を準備しようと思っているのです。
新作はある程度書き溜めてから発表させていただこうと思っております。
また、名代辻そば異世界店もまだまだ完結させようとは思っておらず、頻度は下がりますがこれからも更新していく予定です。
読者の皆様にはご迷惑をおかけすることとなりますが、ご了承していただければ幸いです。
これからも名代辻そば異世界店を、そして私、西村西の書く作品たちを何卒よろしくお願い致します。




