外伝 20年後のチャップ⑤後編
ナダイツジソバは朝に開店すると夜の閉店時間までぶっ続けで営業していたものだが、大盾亭2号店の営業形態はそれとは少し違う。昼に開店して日が傾く頃、大体夕方の4時から4時半くらいまで営業すると、2時間ばかり休憩兼仕込みの時間を挟んで夜の営業を始める。アンナによると、この営業スタイルは大本である旧王都の本店に倣ったものらしい。
チャップも夕方まで大盾亭の厨房で作業を手伝ったのだが、店舗は店舗で、やはり屋台とは違う忙しさがある。
これはあくまでチャップの場合なのだが、屋台の営業では基本、1日1種類の料理しか提供しない。ウドンの日、ヤキソバの日、ラーメンの日、といった具合に、同じ食材を使い、同じ作業をし、同じ料理だけを提供することで1人でも仕事を回せるように効率化を図っているのだ。
だが、店舗の厨房だと、事情が違ってくる。
複数人で同時に別々の作業をし、扱う食材も作る料理も種々雑多。特に同じ料理を他の誰かと手分けして作るという作業は、相手との意思疎通がしっかりしていないと連携が取れず円滑に進まないことも多い。酷い店だと従業員同士でいがみ合いが発生し、円滑とは程遠い足の引っ張り合いまで発生する。
では、大盾亭2号店の従業員たちによる連携はというと、チャップから見ても実に見事。常に声を出し合って意思の疎通を図り、自分1人の判断で決めかねることは必ずアンナかアレクサンドルに確認を取る。ま、自分の判断でいいやと、横着をしないのだ。
この完成された連携の中にチャップも混ざり、今日は仕事をした。並の料理人であれば異物となり得たのだろうが、そこはベテランの腕の見せどころ。チャップは持ち前の器用さで大盾亭の息に合わせて作業をしたし、大盾亭側の従業員たちもそんなチャップに息を合わせてくれた。何より、この大盾亭2号店はチャップの古巣、ナダイツジソバの血を色濃く受け継いでいるのだから息も合おうというものだ。
チャップという国中に名の轟いた料理人と同じ厨房で作業が出来るということで気合が入ったのだろう、大盾亭側の従業員たちは終始キビキビと動きミスも少なく、アンナもアレクサンドルも感心した様子だった。
「いつもこんだけ動ければいいんだけどねえ」
「まあ、チャップさんがいなければ無理でしょうねえ」
と、夫妻は2人して苦笑いしていたので、普段はもう少し作業でミスしたりするのだろう。まあ、ともかくチャップが彼らの力になれたのなら何よりだ。
夕方までの作業をつつがなく終えたチャップは、当初言っていた通り、そのまま厨房に残り、アンナたちが夜営業の仕込み作業をするのに混じってまかないの準備を始めた。
自身のギフト『アイテムボックス』から、いくつかの麻袋を取り出すチャップ。
何もない空間から麻袋が出て来た瞬間、厨房の中に香辛料の刺激的で鮮烈な香りが漂い始める。
「ち、ちょっと、チャップ、あんた……」
「まさか、それをまかないに使うつもりですか……?」
チャップが顔を上げると、唖然とした様子でアンナとアレクサンドルがこちらを見つめていた。彼らだけではない、見れば、他の従業員たちまでもが、何か途方もないようなものを見るような目をチャップに向けている。
まあ、彼らが驚くのも無理からぬことだろう。何せ、このカテドラル王国においては、香辛料というものは同量の砂金と同じ価値があるとまで言われている貴重な食材。そんな貴重な香辛料が詰まった袋を、チャップはあろうことか作業台の上に4袋も5袋も出しているのだ。これは言わば、砂金の詰まった袋を作業台の上に並べているにも等しい行為。仮にそれだけの砂金を現金に換えたとしたら、軽く数千万コルはくだらないだろう。土地付きで新築の家が買える金額だ。それも商家レベルの豪邸を。
「勿論、使いますよ? わざわざ見せびらかす為に出すわけないじゃないですか」
チャップが笑いながらそう言葉を返すと、アンナとアレクサンドルは途端に困惑したような表情を浮かべた。
「いや、ありがたいんだけどさあ……」
「流石に、これだけの香辛料をまかないでいただくわけには……」
明らかに引き攣った表情で苦笑いしながら、2人が同時に口を開く。
まあ、彼らの言いたいことも分かる。まさか、特別な日でも何でもない平民の食卓、しかもちゃっちゃと作ってパッパと食べてしまうようなまかない料理の為に、貴重な香辛料をこんなにどっさり出して使うなど、料理人であれば誰でも相手の正気を疑うだろう。きっと、公爵や侯爵のような上位貴族でも、この量の香辛料を見れば驚く筈だ。
だが、チャップとて見栄ややけくそになってこれを出したのではない。出しても問題ないから出したのだ。
「ああ、いや、お金のことなら気にしなくてもいいですよ?」
心配無用とばかりにチャップが言っても、しかし皆は困ったように苦笑いしたままであった。
「いや、でも……」
と、何かを言いかけたアレクサンドルに割り込む形で、チャップは言葉を続ける。
「これね、現地で買ったものだからそう高くもなかったんですよ」
「現地?」
不思議そうに首を傾げるアレクサンドルに対し、チャップはそうだと頷いて見せた。
「ええ。デンガード連合ですよ」
「「あぁ……」」
それで得心がいったというふうに、アンナとアレクサンドルが声を出して頷き、その後ろにいる他の従業員たちも「なるほど……」と呟く。
そう、各種香辛料が栽培されているのは、大陸の南方、デンガード連合の各国なのだ。
香辛料というものはデンガード連合でしか栽培されておらず、また、大陸内でも温暖な南方しか栽培に適していない。故に大陸北方の各国はデンガード連合から香辛料を輸入するのだが、これがまた高いのだ。もともと麦やジャガイモのように大量に栽培されているものではない上に、国を跨ぐごとに関税が嵩み、カテドラル王国やアードヘット帝国に到着する頃には砂金の如きものとなる。香辛料貿易で儲けている商人たちはウハウハだろうが、まあ、それもしょうがないこと。湿気に弱く運搬に気を遣う香辛料を遠い異国にまで運んでくれているのだから、ただ安全に運ぶだけでも金はかかろう。
だが、香辛料を栽培している現地の人間は、この限りではない。
確かに普通の食材に比べれば高いものだが、誕生日のような特別な日のご馳走として平民が奮発して購入出来るくらいのものなのだ。香辛料の卸を通さず、農家と直に取引をすれば、もっと安く買えるだろう。
チャップの場合は香辛料を乾燥させて粉に加工したものを現地の市場で買ったのだが、それでも大陸の北側で買うよりは圧倒的に安く手に入った。しかも、チャップには虎の子のギフト『アイテムボックス』があるので、どれだけ大量に買おうと楽々持ち運べるし、ギフトによって生じた亜空間内にある限りは劣化もしない。
「少し思うところがあって、シャオリンちゃんの故郷、三爪王国に行きましてね。そのついでに色々な国に寄ったんです。いやあ、やっぱり現地で直接買い付けると安いですね。これ、クミンて言うんですけどね、この袋ひとつで5000コルですよ? ちょっとお高いな、くらいの感覚で買えるんですもん」
言いながら、黄色い粉末の詰まった袋を持ち上げるチャップ。
何とも爽やかな芳香を漂わせるクミンの匂いに、思わず皆の鼻がひくひくと動く。
「他にもカルダモンとかコリアンダーとか色々買ってきましたけど、これを使って、今日はカレーを作りたいと思います」
「「なッ!?」」
チャップが宣言した途端、アンナとアレクサンドルが驚愕に目を見開いた。
若き日のチャップ、そしてアンナとアレクサンドルが終ぞ再現することが叶わなかったナダイツジソバの料理、カレーライス。
そもそもこの大陸ではコメが手に入らないので完全再現は不可能なのだが、それでもカレールーだけでも再現しようと悪戦苦闘した修行時代。師である店長、フミヤ・ナツカワの蔵書を彼の妻、ルテリアに翻訳してもらったものを3人とも読み、コメを使わないカレーの作り方も知識として学びはしたのだが、肝心の食材、主に香辛料を揃えることが叶わず、結局は作ることを諦めたのだ。
コメを使わないカレーの中で、店長が最もポピュラーなものだと言っていた、ロティという薄焼きのパンと共に食べるバターチキンカレー。だが、そのポピュラーだというバターチキンカレーを作るのにも、蔵書によると最低6種類の香辛料を使うのだと記されていた。
クミン、コリアンダー、カルダモン、オールスパイス、ターメリック、トウガラシ。
この内、トウガラシだけはナダイツジソバに常備されているシチミトウガラシに含まれていたので知っていたが、いずれもカテドラル王国では流通していないか、あったとしてもあまりに高額で手が出せないものばかり。仮に、当時のチャップたちが全財産を叩いて購入したとしても、大匙1杯くらいの量しか手に入らなかったことだろう。
いくら安く買えたといっても、それを袋ごと、しかも6つも出して使うというのは贅沢の極み。きっと、王城におわす国王ですらこんな贅沢なものは口にしていない筈だ。
アンナとアレクサンドル以外、大盾亭の面々はカレーのことを知らない筈だが、しかしチャップが何かとてつもない、自分たちの全く知らない絢爛豪華な料理を作ろうとしていることは分かるのだろう、驚愕の表情を浮かべている。
「チャップ! あんた、やったのかい!?」
「コメを使わないカレーを作ることに成功したんですね!?」
明らかに興奮した様子で、ずい、とチャップに詰め寄るアンナとアレクサンドル。
夫婦2人して眼前に迫って来る圧力に若干引きながら、チャップはぎこちなく頷いた。
「は……はい。安く香辛料が手に入るデンガード連合にいるうちに、現地で試行錯誤しながら…………」
カレーという料理をものにするにしても、カテドラル王国、というかデンガード連合の外でそれをやるのは現実的ではない。大陸北部にいては、貴重で目の玉が飛び出るほど高価な香辛料をドバドバ使うというのは無理があるからだ。やはり、それをやるのなら安価で安定的に食材が手に入るデンガード連合にいなければ。
現にチャップは三爪王国に1ヶ月も留まり、カレーを作り続けて納得のいくものを完成させた。
「おい!」
真剣な表情のまま、アンナが更に1歩、ずずい、と顔を寄せてくる。
「な……何でしょう…………?」
「作ってるとこ、あたしらも見ていいんだよね!?」
「いいですけど、夜の営業まで休んでいなくて……」
と、チャップの言葉の途中で、アンナが答えるよりも先んじて、今度はアレクサンドルが口を開いた。
「いいんですよ、そんなの! カレーですよ、カレー! それもコメを使わない! ここでしっかり目に焼き付けておかなければ、料理人としての大きな損失になります!!」
アンナ同様、真剣な様子で大真面目にそう断言するアレクサンドル。
確かにカレーという至高の料理を作る作業、それを目の前で実演するというのだから、これを間近で見学しないという手はない。が、それはあくまでカレーの作り方を知らない料理人の話であって、アンナとアレクサンドルはそれには当てはまらないだろうと、チャップはそう思っている。何故なら、彼らもまた、チャップ同様に師である店長の蔵書をルテリアの翻訳のもと読み、店長がプリンターなる魔導具で複写してくれたカレーのレシピを持っているのだから。
ちなみにだが、レシピを複写する時、店長は何故かルテリアに頼んで、外から紙を買って来た。すでに真っ白で丁寧に切り揃えられた紙を持っていた筈なのに、高いばかりで品質の劣る紙を買いに行かせたのは何故だったのか。あれは今でも謎である。
「あんたたちも、これからチャップが作るもん、目ぇかっ開いて脳裏に刻みな!」
「「「はい!!」」」
アンナの言い付けに対し、従業員たちも真剣な表情で頷きを返す。
王都育ちの彼らは、旧王都のナダイツジソバにしかないカレーライスを知らない。ただ、アンナたちから話くらいは聞いているだろうから、カレーというものがどれだけ価値ある素晴らしい料理かと言うことは理解している筈。
しかも、それをチャップという世間に名の轟いた料理人が作ろうというのだから、休憩している暇などないと、そのように思っているのではなかろうか。
「知識としてはアンナさんもアレクサンドルさんも知ってるでしょうに。そんな、大袈裟な……」
「大袈裟なもんかい! カレーの作り方を実践しているところを見れば、きっと、こいつらにとってもそれは一生の宝になる!」
確かに、カレーという料理についての知識や技術自体は料理人としての財産になるだろうが、それはアンナやアレクサンドルでも教えられるように思える。まあ、食材が揃わないので実践で教えることが出来ないので、この機会にそれを教えよう、ということなのだろうが。
「だから、我々にも見せてください、チャップさんがカレーを作るところを」
アンナの言葉に付け加えるようにして、アレクサンドルがそう言った。
彼らほどの料理人たちがそこまで言うのなら、これに応えないのは無粋でしかない。
それに、カレーの作り方は別に秘匿する類のものでもないし、何なら広まってほしいとすら思っている。まあ、カテドラル王国でカレーの調理法が広まるとは思えないが、それでも話だけでも広まれば、古巣であり大恩あるナダイツジソバの来客に貢献出来るのではないだろうか。あそこには、本家本元のカレーライスがあるのだから。
「…………分かりました。俺みたいな者の仕事で良ければ、どうぞ見てやってください」
チャップがそう言うと、皆、笑顔で頷いた。
こんなにまじまじと調理の様子を見られることなど、屋台の営業ですらそうそうないのだが、まあ、今日は特別だ。若い料理人たちの勉強の意味もある。
慣れない視線に晒される中、ともかくチャップは早速調理を始めた。
まずは具材の下拵え。
皮を取り除いた鶏肉をひと口大に切り、クミン、コリアンダー、そしてこれも大陸南部で手に入れた珍しい食材、ヨーグルトを加え、揉み込んでいく。
このヨーグルトというもの、デンガード連合で広く作られている乳酪の一種なのだが、味はチーズやバターなどと比べると随分と淡泊で酸味が強い。南部の貴族は貴重な砂糖を混ぜて食べることもあるそうだ。そしてこのヨーグルト、どういう訳か肉や魚に揉み込むと、余計な生臭さを軽減してくれる効果がある。
今回チャップが使っているヨーグルト、デンガード連合に属するウーレン王国で手に入れたものが元となっているのだが、現地で作り方を聞いて自作したもの。これは後でアンナたちにも分けて、作り方も一緒に教えるつもりだ。意外なほど簡単に作れるので、アンナたちならば苦もなく再現することだろう。
大盾亭の厨房ではウェダ・ダガッド領から仕入れた魔導具、冷蔵庫が使われているので、この鶏肉も冷蔵庫で寝かせておく。
次に取り出したのは、あらかじめ作って保存しておいたトマトの水煮だ。これは果肉も潰して煮汁と完全に混ぜてしまう。
その次にやることは、ロティ作り。
これも作り方は難しくない。
まずは小麦粉、これは皮まで全て挽いた全粒粉を使う。この全粒粉に水、そして塩を混ぜ、耳たぶくらいの柔らかさになるまでひたすら捏ね続ける。
そして生地が耳たぶくらいの柔らかさになったら粉を打ち、4等分に切り、麺棒で平たく円形に伸ばしていく。これを1人頭2枚から3枚は食べられるよう、人数分作る。
あらかじめ火を入れて温めておいたオーブンにロティを載せた鉄板を入れ、5分から10分ほど焼いていき、完成。
焼き立てのロティはぷっくり膨れているのだが、これはオーブンから出して冷ましておくとすぐに萎み、元の平な形状に戻っていく。
さて、ロティ作りが終わったら、次はようやくカレー作りだ。
と、ここで作業に集中していたチャップが顔を上げると、アンナとアレクサンドルも含め、大盾亭の面子が皆、真剣な様子でチャップの手元を見つめていた。従業員の何人かは、私物であろう紙とペンを手に、一瞬も見逃すまいとメモを取っている。
何とも熱心な、彼らの学ぶ姿勢。こういう若者の真剣な姿を見ると、ナダイツジソバで修行に打ち込んだ、在りし日の自分の姿が彼らと重なる。師である店長のどんな作業も、発言の一言一言ですらも忘れぬよう、必死にメモを取っていたものだ。
思いがけずノスタルジックなものを見たなと内心で苦笑してから、チャップは次の作業に取り掛かった。
次こそはいよいよカレーの調理だ。
まずは深めのフライパンを弱火で熱し、そこにバターを入れ、溶かしていく。
バターが全て溶けてからフライパンを火から外し、ニンニクをおろしたもの、生姜をおろしたもの、そして先ほど『アイテムボックス』から取り出した6種のスパイス、クミン、コリアンダー、カルダモン、オールスパイス、ターメリック、トウガラシの粉末を投入し、ヘラを使って丁寧に馴染ませる。
これら6種の香辛料を混ぜた途端、それまでバラバラだった刺激的な6種の香気が調和し、ひとつの方向性を持ってその場の皆の鼻腔に吸い込まれていった。何ともまろやかで華やかで、刺激的ではあるものの、しかし棘を感じるものではない。そして猛烈に食欲を刺激する魅惑の香り。
誰のものかは分からないが、思わず、といった感じで、厨房に、ゴクリ、という喉の鳴る音が響いた。
これだけ食欲を誘う匂いなのだ、喉が鳴ったり腹が鳴ったり、口内に唾液が溢れるのも、さもあらんといったところか。
匂いだけでこれだけの反応を示してくれるのなら、食べた時はどんな顔をするのだろうか、その時のことを想像して、クスリと微笑みながらも、チャップは手を止めず作業を続ける。
混ぜ合わせて馴染んだ香辛料を弱火にかけ、今度は先ほど潰したトマトの水煮を煮汁ごと投入し、かき混ぜながら段々と火を強くしてとろみを出していく。
とろみが出始めたところで先ほど仕込んでおいた鶏肉を入れて煮込み、十分火が通ったところで塩、バター、生クリームで味を調え、もうひと煮立ちさせて完成だ。
「よっし、完成!」
香辛料という繊細な食材を扱うカレーという料理。調理の際は気を抜く暇もなく、完成してからようやく顔を上げると、その様子をつぶさに観察していた皆が、一斉に口を開いた。
「おぉ、ようやく完成か!」
「いや、何とお腹の減る匂いでしょうか!」
ナダイツジソバ時代にアンナもアレクサンドルも散々食べた筈のカレーなのだが、2人はキラキラと期待に目を輝かせている。
まあ、彼らの気持ちも分かる、カレーという料理はいくら食べようと、少し時が経てばまた食べたくなる中毒性の高いもの。ナダイツジソバのお客の中には、店の代名詞であるソバは食べず、毎日カレーライスだけを食べに来る人もいたくらいなので、その中毒性がどれだけ凄いかは証明されている。
それに何より、チャップのカレーはバターチキンカレー。本家本元、ナダイツジソバのカレーライスとは同じカレーでありながら似て非なるもの。味わいが大きく異なるのだ。アンナたちのようにナダイツジソバのカレーライスを食べ慣れてた者たちであっても、新鮮な気持ちで食べられるものとなっている。
「正直、あんたが調理中、ずっと腹が鳴ってたんだよ。もう、食いたくて食いたくて辛抱堪んなかったさ」
アンナが苦笑しながらそう言うと、他の従業員たちも同意するように頷いた。
カレーの強烈な香りを嗅ぎながら湧き上がる食欲に堪え、ひたすらに完成を待つ時間。これは幸せな時間でもあり、同時に苦しい時間でもある。きっと、彼ら全員、自分が食べ盛りの子供に戻ったかのような錯覚に陥ったことだろう。その気持ちはチャップにも分かる。
「じゃあ、冷めないうちに早速食べましょうか。俺、カレーを皿に盛るんで、誰か、ロティをテーブルまで運んでいただけますか?」
「あ、じゃあ私が」
どうにも待ちきれないのだろう、厨房のトップ、他の料理人たちを纏める料理長であるにもかかわらず、アレクサンドルが率先してロティが盛られた大皿をテーブルに運んでいく。
その姿に苦笑しながらチャップが皿にカレーを盛り付けていくと、1皿持った側から他の従業員たちが皿をテーブルに運んでいった。
彼らに混じり、アンナも水の入ったピッチャーやコップ、スプーンといったものを運ぶ。
大盾亭従業員一同の手伝いもあり、準備はすぐに整った。
皆で席に座り、いよいよ実食の時間である。
と、ここで、母屋にいた筈のアンナとアレクサンドル夫妻の子供たち3人が、店に繋がる扉から顔を覗かせていた。
「父ちゃん、母ちゃん……」
「すごくいいにおい……」
「おいしいやつ、ぼくたちもたべたい……」
1番上の子は12歳で、1番下の子は5歳。いずれも食べ盛りである。きっと、店の厨房から漂うカレーの匂いに引き寄せられて、ついつい出て来てしまったのだろう。普段であれば彼らの食事は1番上の子が用意するのだが、流石にカレーの匂い、その強大な誘惑には耐えられなかったようだ。
「おやおや、あんたたち……」
今にも泣き出しそうな、物欲しそうな顔で両親たちを見つめる子供たち。
そんな彼らに、アンナもアレクサンドルも苦笑を向けている。
「チャップさん……」
そう声をかけてきたアレクサンドルに対し、チャップも苦笑して頷く。
「ええ、大丈夫ですよ。誰かおかわりするかと思って、まだフライパンに残してありますから」
「よかったね、あんたたち。まだあるってよ、カレー」
「「「やったあ!!」」」
自分たちもカレーにありつけると分かった途端、子供たちは弾けるような笑顔を浮かべ、急いで席に着いた。何とも現金なものだが、子供らしい素直さが何とも微笑ましい。
チャップはすぐさま厨房に戻り、残ったカレーを皿に盛っていき、それをアンナがテーブルまで運んで行く。
アレクサンドルは座ったままだったが、残った従業員たちにこう言い聞かせていた。
「で、聞いた通りですが、残念ながら君たちのおかわりはなくなりました。この1杯のカレー、味わって食べてください」
その言葉を聞いて、無言ではあるが明確に残念そうな表情を浮かべる従業員たち。だが、彼らの分のおかわりは子供たちの口に入るのだ、流石にそれに抗議するような大人げない者は1人もいなかった。
「よければ明日も何か別のカレーを作りますよ」
見かねたチャップがそう言うと、沈んだ様子の従業員たちが顔を上げ、まるで希望の光を見たとでも言うように表情を輝かせる。彼らもまた、現金である。きっと、大人であろうと子供であろうと、根源的な食欲には抗えないのだろう。
「悪いね」
「いいえ」
お互いに苦笑しながら言葉を交わすチャップとアンナ。
子供たちの分の配膳も終わり、次こそいよいよ実食だ。
「「「「「「「「「いただきます!!」」」」」」」」」
従業員どころか、家族も全員揃っての大合唱。ナダイツジソバで学び、この大盾亭にも伝えられた食前の言葉、いただきます、の大音声を皮切りに、皆が待ってましたとばかりに、勢い良く料理に手を付ける。
好きに食べればいいと、チャップは特に説明しなかったのだが、皆、何とはなしに、どう食べればいいか分かったのだろう、まずはロティを一口大にちぎってから、カレーを付けて口の中に放り込む。
そして、僅か数回咀嚼しただけで、口を揃えてこう言うのだ。
たった一言、
「美味い!!」
と。
ちゃんと味見をしながら作ったので、チャップは上手く出来たことは分かっているのだが、それでも改めて、自分以外の食べてくれた人たちが美味いと言ってくれるのは料理人としてしみじみ嬉しい。
「何て芳醇な香りなんだ!!」
「刺激的で、でもまろやかで、甘やかで……」
「凄いコクだ、これはバターだけの力じゃないぞ!」
子供たちは「美味しい!」という言葉のみだが、従業員たちはそれぞれ味の分析をしながら感想を口にしている。やはり彼らも料理人、ただ目の前の料理を楽しむばかりではなく、そこから学びを見出そうという姿勢は流石だ。
彼らの姿を見て、チャップもこういう姿勢は持ち続けたいと、改めてそう思った。
「……くそう、悔しいけどやっぱり美味い。やるなあ、チャップ」
「本当に美味しいです。私たちも作ってみたいですねえ、こんなカレーを……」
アンナとアレクサンドルも、食べながら唸っている。
彼らの腕があれば、きっと、チャップよりも美味いカレーを作れることだろう。だが、悲しいかなカテドラル王国では十全に食材を揃えることが出来ない。主に香辛料が。しかも彼らはこの王都に店舗を構えている影響で腰が重くならざるを得ないのだ。1人で屋台を引いて大陸中を旅し、現地の食材を卸値で仕入れることの出来るチャップとはフットワークの軽さが違う。ここが彼らとは違うチャップの強みだろう。
無論、店舗には店舗で、屋台とは違う強みがある。例えば、店を贔屓にしてくれる常連客の存在とか、決まった食材を卸してくれる商人の存在とか。
今回はチャップが自身の強みを活かしてカレーを作ったが、彼らとて必要な香辛料さえ手に入れば、チャップが何も言わずとも美味しいカレーを作るだろう。
そして、チャップは今回、ただ単に彼らにカレーを振る舞いたいが為に王都へ足を運んだのではない。1人では使い切れないほど仕入れた香辛料を彼らにもおすそ分けする、そういう目的もあって来たのだ。
前回の滞在では随分と世話になったから、そのお礼の意味も込めて。
チャップから香辛料をプレゼントされた時、彼らはどんな顔をするだろうか。あまりにも突然のことに驚くのだろうか、それとも喜びに笑うのだろうか、まさかとは思うが、施しは受けないと突っぱねられたりはしないだろうか。まあ、突っぱねられたとしても、王都を去る時にこっそりと置いて行くのだが。
その時を迎えた時、彼らがどんな反応をするのか。
そんなことを考えながら、チャップもロティを手に取り、それをひと口大にちぎってから、カレーをたっぷりと付けて口に運ぶ。
「うん……」
自分で作ったものではあるのだが、やはり驚くほど美味い。
複数の香辛料からなる鮮烈な辛さと、トマトの酸味、バターや生クリームのまったりとしたまろやかさが口の中で見事に調和している。
鼻に抜ける香気は熱を帯び、何とも刺激的で、早く次のひと口を、と急かすように食欲を掻き立てる。
自分のような凡夫でもこれだけ美味いカレーが作れるのだから、アンナやアレクサンドルであればもっともっと美味いカレーを作るに違いない。
この時のチャップはまだ知る由もないことだが、後年、チャップのカレーを食べ、その味に感銘を受けた大盾亭従業員の1人が、自身もカレーを作りたいと、王都どころかカテドラル王国を飛び出してデンガード連合にカレー修行に行くこととなる。
そして現地でカレー作りを修めた彼は、カテドラル王国へ戻ると、師であるアンナ、アレクサンドルから聞いた話を元に、かつて彼らが修行していたという伝説の食堂、ナダイツジソバで振る舞われていた料理、カレーパンの再現に成功する。
カレーパンの伝道師として大成した彼は、故郷であるホルベルグ村に戻り、カレーパン専門の店を開くのだが、その店、ひいてはホルベルグ村自体がカレーパンの聖地として活気が満ち満ちていくことになるのだ。
セント・リーコン子爵が治める領地、ホルベルグ村。かつてはサヴォイくらいしか特産品がなかった村が、カレーパンの聖地へと変貌し、村から町へ、やがては領都へと成長していくのだが、それはまだまだ先の話。
※西村西からのお願い※
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
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