正直もう限界だった茨森のテッサリアと渇望を満たす紅生姜天そば②
「あうううぅー…………」
唐突ではあるが、テッサリアは朝っぱらから泣いていた。
泣いている場所は旧王都アルベイルの大通り、そのド真ん中である。
隣に立つ自身の婚約者、テオの胸に顔を埋め、現在進行形で滂沱のように涙を流している。
そんなことをしていると当然注目を集め、往来を行く人々が一体何事かとテッサリアに目をやるのだが、本人はそんなことを気にする様子もなく、わんわんと泣き続けていた。
胸元がビショビショになっているテオも困り顔だが、それでもテッサリアの好きなようにさせている。
まあ、彼女が泣くのも分からないでもないと、そう思っているからだ。
たっぷりと10分も泣き続けただろうか、テッサリアはどうにか泣き止むと、ずびび、と鼻を啜り、目元に残る涙を拭ってテオの胸元から顔を放した。
「…………もういいのか?」
上から覗き込むように見つめながら、テオがそう訊いてくる。
テッサリアは「はい」と頷いてから、満面に笑みを浮かべた。
「遂に……遂に戻って来ました! 半年ぶりの旧王都です!!」
そう、テッサリアは遂に来たのだ。あの地獄のような事務処理の日々から抜け出し、懐かしき旧王都アルベイルに。テッサリアが愛してやまない食堂、ナダイツジソバが居を構えるこの街に。具体的には『飛行魔法』のギフトを使うテオに抱えてもらって、王都から空を飛んで来たのだ。ちなみに途中で酔って吐きそうになったことは乙女の秘密である。
「しかし泣くほど嬉しいか? 何十年も戻って来られなかったのならともかく、たった半年だろう?」
テッサリアにとって、旧王都は別に故郷や親族が住む場所ではない。言わば、何の縁もない場所。しかも離れていた期間はたったの半年。1000年近く生きるエルフにとっては何のこともない短い時間だ。それなのに、そんな場所に戻って来られたからと感動して泣いているので、テオとしては不思議なのだろう。
だが、テッサリアはとんでもないとでも言うように、猛然と抗議した。
「何言ってるんですか!? 半年もナダイツジソバの料理が食べられなかったんですよ!? そんな状態からようやく戻って来られたんだから、泣くに決まってるでしょう!!」
ナダイツジソバという至極の美味を知ってしまった今となっては、王都で食べるような味気のない食事では、テッサリアの心身はもう満たされなくなってしまった。
己のギフト『完全記憶』でナダイツジソバでの食事風景を思い出しながら、滋養はあるが美味しくもない、石のように硬いハードタックを齧るばかりの日々。これがナダイツジソバの料理であればとどれだけ夢想したことか。そして残酷な現実にどれだけ涙を流したことか。
だが、そんな日々とも今日でおさらばだ。何故なら、テッサリアは今、ナダイツジソバが居を構える旧王都にいるのだから。
テッサリアの剣幕に苦笑しながら、テオは「分かった、分かった」と頷いた。
「しかし、嬉し泣きであんなに号泣するものか? 爺様の葬式の時よりも泣いていたんじゃないか?」
爺様とは、テッサリアとテオ、共通の祖父のことだろう。祖父はテッサリアが子供の頃、もう100年以上も前に亡くなっているのだが、よく遊んでもらっていたテッサリアはその葬式で随分と泣いた記憶がある。ずびずびと鼻水まで垂らして泣いて、あの時もさっきのようにテオの胸を借りたものだ。
当時とは違い、今のテッサリアはちゃんとした大人である。泣くにしても、流石に鼻水まで垂らすようなことはない。
「そんなことないですぅー! お爺ちゃんの時はもっといっぱい泣きましたぁー!!」
「うむ。まあ、そうかもしれんな。あの時は鼻水も垂らしていたし、涎も垂らしていたしな」
「乙女に鼻水とか言わないでください! それに涎なんて垂らしてません! デリカシーのない男は女性にモテませんよ?」
テッサリアが眉間にシワを寄せながらそう言うと、テオはさして気にする様子もなく「別に構わん」と言ってのけた。
「今さらモテたいとは思わん。婚約者がいるしな」
「むうぅ……!」
テッサリアは途端に顔を赤らめ、思わず唸ってしまう。
つまり、テッサリアにのみ好かれていれば、それでいいということ。何とストレートな、飾らない一途な言葉だろうか。この男はシラフでこんなことを言うので油断がならない。
そんなテッサリアの様子に再度苦笑を浮かべ、テオが大通りの先、旧王城の方を指差す。
「それより、行くのだろう、あの不思議な食堂? ナダイツジソバ」
「勿論です! 今日はその為に来たんですから!!」
「まあ、あのコロッケソバだったか、あれは確かに美味いものだったからな。また食いたくなるのも分からんでもない。月に1度くらい食えれば嬉しいかもな」
聞いた瞬間、テッサリアは信じられないとでも言うように、大仰に目を見開いて見せた。
「月に1度!? 私は毎日毎食でも食べたいんですから!!」
テオとてナダイツジソバの料理がどれだけ美味かは知っている筈。あれを知って尚、月に1度だけでいいとは、何たる自制心だろうか。テッサリアは初めての来店でカケソバを食べたその時から、もうずっとこの店に通う、むしろ通わねば我慢出来ないだろうと自覚したくらいなのに。
テッサリアの言葉があまりにも真に迫るものだったからか、テオは若干引き気味に口を開いた。
「…………何と言おうか、まるで中毒だな。あの店の料理には、何か御禁制のものでも入っていたのか?」
確かにナダイツジソバの料理はあまりにも美味過ぎて多くの人々を虜にしているが、怪しい薬など使ってはいない。あれは、あくまでもナダイツジソバの、そして店主であるフミヤ・ナツカワの実力だ。
テオらしからぬ、何と失礼なことを言うのか。
「そんなわけないでしょう! ナダイツジソバを何だと思ってるんですか!?」
咎めるようにテッサリアが詰め寄ると、テオは仏頂面のまま、ややあってからようやくこう答えた。
「………………冗談だ」
見苦しい言い訳をしないのは潔いが、はたして、本当に冗談で言ったことなのか。仮に冗談だったとして、あの奇妙な沈黙の時間は何だったのか。
「………………」
テッサリアが黙って訝しむような視線を向けていると、テオは何だか居心地悪そうに、コホンと咳払いをしてから、仕切り直しとばかりにテッサリアの背中を押し始めた。
「それより、早く行こう。お前だけでなく、俺とてナダイツジソバに行くのは久々なのだからな。また、あのコロッケソバを味わってみたいものだ。今度はお前が執心していた、ビールなる酒も付けてな。1杯くらいならまあ飛ぶのに支障もあるまい」
言われて、そういえば今日は食事が目的で来たのだということを思い出し、テッサリアも頷く。
一刻も早くナダイツジソバに赴き、思う様好きなものを飲み食いするのだ。いつまでも余計な話をしているような時間はない。
テオに促される形で、テッサリアはようやく大通りを歩き始めた。
「そうでしょう、そうでしょう。私だって食べたいものがたーっくさんあるんですから! 今日も明日も、ナダイツジソバで食べまくりですよ!!」
テッサリアがそう宣言すると、テオが何故だか驚いたような表情を浮かべる。
「え! 泊りがけだったのか!?」
せっかく連休をもらったのだから、当然、1泊して翌日もナダイツジソバで食事をしてから帰る。
テッサリアは最初からそのつもりだったし、それが当然と思っていたから、てっきりテオもそう考えているものと思っていた。
が、彼の方は、まさか泊りがけとは想定していなかった様子。恐らくは彼の父親、テッサリアにとっては叔父にもすぐ帰ると言ってしまったのではないだろうか。
まあ、それでも今日くらいはテッサリアの我儘に付き合ってもらう。何故なら、美味いものは誰かと一緒に食べるともっと美味く感じられるのだから。そして、その相手が自分の好きな人、婚約者であれば一際美味く感じるもの。
だからこそ、テオに付き合ってもらうのは決定事項なのだ。
「当たり前じゃないですか! せっかく連休をもらったんですから、日帰りなわけないじゃないですか。次はいつ来られるか分からないんだから、この2日間で食べれるだけ食べてナダイツジソバ力を食べ貯めするんです!!」
両の拳を突き上げながらテッサリアが意気込みを宣言すると、しかし、テオは不思議そうに首を傾げた。
「……何だ、そのナダイツジソバチカラ、というのは?」
「ナダイツジソバの美味しい料理から与えてもらえる活力です!」
ちなみに、ナダイツジソバ力というのは、テッサリアが勝手に考え出した概念であり、他のナダイツジソバ常連たちには一切浸透していない。というか知りもしないだろう。テッサリア自身も、これは自分1人が分かっていればそれでいいと思っている。他人にまで理解を求めるつもりはない。
「………………」
何とも形容し難い、微妙な顔で沈黙するテオ。
そんなテオの背中を、今度はテッサリアが押しながら、2人はナダイツジソバ目指して大通りを行く。
「さあ、テオ! 一緒にナダイツジソバ力を補給しに行きますよ!」
「う、うむ……」
魔力溜まりを好むエルフが街にいることは珍しい。人々の耳目を集めながらも、さしてそれを気にする素振りも見せず仲睦まじく歩を進める2人。
これがまさか、王都からわざわざ食事をする為だけにやって来たとは、誰も思わないだろう。
次回の更新は日曜日ではなく、その前日の土曜日、11月4日に行います。
コミカライズの連載開始を祝して、配信開始日に最新話を更新しますので、読者の皆様におかれましては、お間違えのなきよう、何卒宜しくお願い致します。




