正直もう限界だった茨森のテッサリアと渇望を満たす紅生姜天そば①
「あうううぅー………………」
唐突ではあるが、茨森のテッサリアは限界を迎えていた。
昨年の年末、交代人員の来訪と共に突如として王都に呼び戻されたテッサリア。
この世界に訪れた貴重な異世界からの稀人、ストレンジャーのギフトを観察、研究するという名目で旧王都アルベイルに滞在していたテッサリアだったのだが、本人はすっかりと忘れていたのだ。これが期間を定められたもので、いずれは王都に帰らねばならなかったのだ、ということを。
まあ、考えてみればそれはそうなのだ。
まさかずっと、それこそ退職するまで何十年も出張先にいられる筈もない。当たり前のことだ。
だが、そんな当たり前のことも忘れて、テッサリアはずっと旧王都にいられるものだと思っていた。そして、ずっとナダイツジソバの美味に浸っていられると思っていたのだ。
テッサリアは第三研究所に所属する職員、しかも室長という組織の上役。それが半年間も職場を空けて出張していたこと自体が奇跡的なことなのだ。これ以上は流石に研究所の運営に差し支える。
テッサリアがゴネにゴネて、大泣きしながら王都に帰る時、交代要員として来た研究員が言っていたのだ、
「テッサリア室長、仕事、アホみたいに溜まってますよ。山ほど、どころか、連峰規模で。多分、1ヶ月や2ヶ月じゃ片付かないと思いますよ?」
と。
そして今、テッサリアは自分に与えられた研究室で、彼の言うように半年分のツケを払っていた。
毎日毎日、朝から晩まで山と溜まった書類を処理する地獄の日々。研究員としての本分であるギフト研究すらろくろく出来ず、しかも部下たちからの研究報告などは毎日ひっきりなしに上がってくるので、書類が全然減っていかない。結果、毎日残業続きで、まともな食事も摂れない有様。
テッサリアは別に兵士でも何でもないのに、仕事が忙し過ぎて作り立ての温かな食事にもありつけず、ダンジョン探索者が食べる保存食のようなもので飢えを凌いでいた。
毎日ナダイツジソバに赴き、思う様美味なる食事で腹を満たしていたのが、まるで遠い昔のことのように思える、味気ない食事を貪る日々。
ナダイツジソバの美味を知ってしまった今となっては、保存用の堅焼きパンなど、栄養のある土くれ程度にしか思えなかった。
「あうう、あううぅー………………」
目元に濃いクマが浮かび、げっそりとやつれた顔で立派な事務机に突っ伏し、それでも手は止めず書類を書き、機械的に判を押していくテッサリア。
その口から洩れる声は最早言葉にすらなっておらず、地獄の亡者を思わせる呻きと化している。
実際、今のテッサリアはさながら亡者のようですらあった。いつ終わるともしれない、永遠にも思えるような苦行を課せられた、悲しき仕事の奴隷。
今すぐナダイツジソバに行きたい。今すぐ腹一杯にソバを啜り、カレーライスをがっつきたい。そしてそれらを極上のビールで流し込みたい。
毎日毎日、渇望だけが膨らんでいき、心を圧迫してくる。
ツジソバに行きたい、ツジソバに行きたい、ツジソバに行きたい。
今は辛うじて踏みとどまっているが、毎日ナダイツジソバに行きた過ぎておかしくなりそうだ。
そんな限界状態のテッサリアの元に、今日もせっせと室長補佐の若者が仕事を運んで来る。
「室長、アイオンデ集落のエルフたちのギフトに関する報告書、上がってきました」
「あうううぅー……」
「それと、スミス・ライト研究員の出向許可書に押印お願いします」
「あうううぅー……」
「あ、あとこれ、所長から追加で書類回ってきました。室長がアルベイルに行っていた間、溜まりに溜まった帳簿だそうです。領収書、忘れないでくださいよ? 期限、3日後までだそうですから、なるはやでお願いしますね」
「うあうッ!?」
それまでずっと机に突っ伏していたテッサリアだったが、ここで堪らず起き上がった。
「もうやだーッ! 限界いいいぃーッ! やりたくないですうううううぅーッ!!」
まるで子供のようにわんわんと泣きながら、机上に溜まった書類をバンバンと叩くテッサリア。
宮仕えの人間は出世するほど事務仕事が増えるものだが、アルベイルへの出向前まで、テッサリアはここまで大量に事務仕事を抱えることはなかった。明らかに所長の私情、カンタス侯爵の怒りが加味されているように思える。
テッサリアが癇癪を起したことで、室内にバッと書類が飛び散った。まるで紙吹雪のようだ。
補佐の若者はこともなげに書類を拾い集めながら、やれやれとため息をついて口を開いた。
「そんなこと言ったって、しょうがないじゃないですか? 当初2ヶ月だった出張予定を、伸ばしに伸ばして半年もアルベイルに滞在していたんですから。平の職員じゃなくて、室長が半年ですよ? そりゃ所長だって怒るってお話ですよ」
拾い集めた書類を再び机の上に置いてから、補佐の若者が呆れたようにそう言う。
彼の言っていることは道理だ。そこに異論を挟む余地はない。
が、これについて、テッサリアには理屈を超えた理由があるのだ。
「だって……だって! ナダイツジソバが! あのソバの数々が! あのビールがあんまりにも美味しいから!!」
そう、それである。
ナダイツジソバで供される至極の料理の数々。そして天上の雫とも言うべき美酒、ビール。
あれらを知ってしまったが最後、そこから離れるなど、考えられる筈もない。ずっとここにいて、ずっとこの美味を口にしながら生きていきたいと、誰だってそう思う筈なのだ。ナダイツジソバの料理には、そういう、人を惹き付けてやまない魔力があるのだ。
この魔力に、一体どれだけの人間が抗えるというのか。少なくとも、テッサリアはもうナダイツジソバの虜になってしまった。今だとてナダイツジソバのソバが食べたくて食べたくて仕方がないというのに。
まあ、ナダイツジソバに行ったことのない彼に言っても詮無いことではあるのだろうが。
と、テッサリアがそんなことを思っていると、それを見透かしていたかのように、若者は苦笑を浮かべた。
「知ってますよ、みんな。室長が毎度送ってくる情感たっぷりのレポートを読んで、アルベイルに行きたがっていた連中は血の涙を流してたんですから」
言われて、テッサリアは思わず「ぐぬぅ……」と唸る。
そう、ストレンジャー、フミヤ・ナツカワのギフトを調べる為に人員を派遣することになった時、希望者が大勢いたにも関わらず、テッサリアは自身の権力で彼らを蹴散らし、1人で意気揚々とアルベイルへと向かったのだ。恨まれても仕方がない。テッサリアはそれだけのことをやったのだ。部下たちの意見も聞かず、強引なことをしたという自覚もあるし、後ろめたさもある。罪悪感とて人並みにはあるのだ。ただ、フミヤ・ナツカワには、そしてナダイツジソバにはそれを凌駕するほどの魅力があった。
「でも……それでも! こんなのあんまりです! ちょっとくらい休まないと死んじゃいますううううぅー……」
滂沱のように涙を流しながら、またも机に突っ伏すテッサリア。
今現在、我を通した罰を受けているのはテッサリアにも分かる。だが、アルベイルより帰還して約半年。その間、テッサリアはほぼ休みなく働き続けているのだ。休めても月に1度くらいだろうか。先月などは1ヶ月丸々無休で働いた。
あまりにも過酷。せめて週に1度、いや、10日に1度でいいから休みが欲しい。でなければ過労死してしまう。
それに、だ。アルベイルでの再会以降、自身の婚約者であるイシュタカのテオが月に1度はテッサリアに会いに来てくれているというのに、彼とゆっくり話す時間すらも取れないでいるのだ。せっかく会っても、5分か10分だけ言葉を交わし、慌ただしく仕事に戻らねばならないような有様である。
休暇の申請をしても、所長が握り潰してしまうのだ。
「長い休暇を満喫したのなら、その分だけ働いてもらう。次に休むのはその後だ」
とは所長であるカンタス侯爵の弁である。
旧王都アルベイルでの日々とて仕事の一環だったというのに、何たる言い草だろうか。
だが、テッサリアが憤ったところで、それが通る筈もない。何故なら、研究所で最も偉いのは所長だから。そして、所長は室長であるテッサリアの意見を蹴飛ばせるだけの権力を有する唯一の存在だから。
仕事自体は好きだが、しかしギフトの研究が好きなのであって、書類の処理が好きなのではない。その好きでもない雑務に追われて、身体も心も休まる暇がない。テッサリアはこのままでは過労死してしまう。仮に身体が死ななかったとしても、このままでは心が死んでしまう。
今のテッサリアには休みが、そしてナダイツジソバが必要なのだ。
この世に救いの神はいないのか。いるのならば我に救いを与えたまへ。
テッサリアがそんなことを考えていると、その考えを見抜いたかのように、若者は「仕方ないですね」と口を開いた。
「もうそろそろ室長も限界だと思いまして、明日と明後日、2日間の連休をもぎ取っておきました」
その言葉を聞いた瞬間、テッサリアは机の上から勢い良くガバッと上体を起こし、彼に顔を向ける。
「えッ!?」
今、彼は何と言った。連休と、そう聞こえたような気がする。いや、まさか、そんな。そんな馬鹿な。頭がおかしくなり過ぎて幻聴を聞いたのではなかろうか。
テッサリアが瞬かぬ目を向けると、補佐の若者は嘘ではないとでも言うように頷いて見せた。
「所長を説得するのは結構骨が折れましたけどね、ここ最近の室長がずっと死ぬー、死ぬーって言ってるからって、どうにか連休通したんですよ」
どうやら幻聴ではなく、彼は本当に、テッサリアの為にカンタス侯爵から連休をもぎ取ってくれたらしい。
あの、いつも同じ表情で言葉数も少なく、何を考えているのか分からない、理路整然と持論を通し、絶対に曲げることのない、鋼鉄のようなカンタス侯爵から。
何と出来る男なのか。来年には定年により第三室長の席が空く。その時は、次の室長に彼を推そうと、テッサリアはそう思った。
「ほ……本当に!? 本当なんですね!?」
テッサリアが確認するように訊くと、彼は勿論だと頷く。
「こんな残酷な冗談を言うわけないでしょ? 婚約者さん、多分、明日か明後日には来られますよね? 2人でゆっくり休んだらどうです?」
そう、周期的には恐らくは明日、遅れても明後日にはテオがテッサリアのことを訪ねてくる筈。そしてここ数ヶ月は満足に自宅に帰ることも出来ていないので、もっぱら研究所の応接室で会っていたのだ。そうして定期的にテオと短い逢瀬を重ねるうちに、補佐の若者もテオが訪ねて来る周期を覚えたのだろう。細かいところまで気配りの行き届いた、やはり出来る男だ。いずれは室長をすら越え、カンタス侯爵引退後には所長になるのではなかろうか。
今日さえ乗り越えれば、明日には確実に休日が来る。しかも単発の休みではなく連休だ。
そう思うと、先ほどまであれだけ涙を流していたというのに、あれだけ心身が疲弊していたというのに、途端に全身に力が漲ってきた。何とも現金なものだが、人間など誰でもこのようなものだろう。いくら疲弊してようと、鼻先に人参を吊るされれば走れるのだ。
テッサリアは見開いた目に精気を漲らせると、猛然と書類を処理し始めた。
「いいえ! ゆっくり休んでいる暇なんてありません! 私にはやらなければならないことがあるんです!!」
そう、連休が得られるとなれば、そしてそのタイミングでテオが来てくれるとあれば、今のテッサリアにとって、やることはひとつ。
「は? え、いや、仕事にやる気を出すのは結構ですけど、でも、だって、室長、さっきまで忙しくて死ぬって……」
先ほどまでの死に体が嘘のような勤務姿勢に困惑し、瞠目している補佐の若者。
そんな若者に顔を向けることすらなく、猛然とペンを走らせながら、テッサリアは説明するように口を開いた。
「ナダイツジソバに行くんです!」
「え!?」
「テオに頼めば旧王都でもすぐに行けます! 私はナダイツジソバのソバを食べて、心と身体に栄養を満たすんです!!」
心身共カラカラに乾いた今のテッサリアを癒せるものは、この渇望を満たせるものはナダイツジソバしかない。
明日はテオと共に旧王都アルベイルへ、そして半年ぶりのナダイツジソバへ赴く。
完璧な休日の計画にほくそ笑みながら、テッサリアは山と積み重なった書類と戦い始めた。
書籍版名代辻そば異世界店1巻、遂に本日発売です!
なろう版から更にブラッシュアップされた内容、書籍版のみのオリジナルエピソード、書き下ろしSSの数々、そしてTAPI岡様による美麗イラスト!!
全てがパワーアップした書籍版名代辻そば異世界店をどうぞよろしくお願い致します!!
更に、コミカライズについても続報があります!
コミカライズ担当の漫画家様は林ふみの先生!!
コミックヒュー様で11月4日から連載が始まります!!
書籍版とはひと味違った漫画版の名代辻そば異世界店、こちらもどうぞよろしくお願い致します!!




