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転生者ジャルダーノ・ヴィンチェンホフとキツいウイスキー⑧

 早朝、まだ午前6時の鐘が鳴る前。もう少しで午前5時といったくらいか。

 明かりが消えて薄暗い店内、昨夜のドタバタによって疲労した皆が、テーブルや椅子の上に突っ伏して眠っていた。

 徹夜明けの死屍累々。

 彼らには申し訳ないことをしたと胸中で詫びつつも、ジャルダーノは1人起き出し、血と煤で汚れたシャツのボタンを留める。

 死ぬほど不味い霊薬を飲んだ甲斐あって、そして何より彼らの尽力の甲斐あって、ジャルダーノの負傷はありがたいことにたった一晩で綺麗さっぱりと治っていた。痛みも残っていないし、突っ張るような感覚もない。火傷のケロイドどころか過去に負った銃創や切創さえもなくなっている。外れた肩も、心得があった元ダンジョン探索者の給仕、ルテリアに入れてもらった。引退したとて流石は『剣王』のギフトを持つ者。彼女自身は昔取った杵柄だというふうに言っていたが、流石である。

 回復魔法と霊薬。ファンタジーの異世界はやはり常識外れだ。医術が著しく発展した地球であろうと、こと負傷の治療についてはこうはいかないだろう。


 テーブル上に置かれたままの上着を取り、それも着込み、ボロボロになったネクタイを締める

 本当は彼らが起きるまでここにいて、1人ひとりに礼を言ってから店を出たいところだが、そういうのはガラじゃないし、何よりジャルダーノはまだ任務中だ。紙の資料は焼失したが、今回得た情報を早く王都へ届けなければ、マフデン子爵に逃げられてしまう。というか、もう逃げる準備をしているのではないだろうか。

 ヴェンガーロッドの仲間が彼らを監視している筈だからしばらくは大丈夫だろうが、国境を越えられると厄介だ。そうなる前、彼がまだ国内にいるうちにケリをつけたい。

 それに、だ。マフデン子爵の私兵は、恐らくまだジャルダーノのことを探しているだろう。旧王城の敷地内だということを考慮してか、昨夜はここへは来なかったものの、いつまでも世話になっている訳にもいかない。


 机の上で小さくいびきを搔いているアンナと、椅子の上で寝苦しそうに顔を歪めるフミヤ・ナツカワのことを一瞥してから、ジャルダーノは厨房の方へ歩き出した。表から出ることはしない。旧王城の裏庭に続く裏口から出た方が安全だし、アルベイル大公もジャルダーノの話を聞きたがっているだろう。


「…………早いな。もう行くのか?」


 と、そんなジャルダーノの背に声をかける者があった。セントの声だ。

 振り返ると、いつの間に起きたものか、皆と一緒に雑魚寝していた筈のセントが上体を起こしてこちらを見ていた。寝起きの顔ではない、ちゃんと意識が覚醒している、キリッとした表情だ。恐らくは本当に寝ていたのではなく、目を瞑って休んでいただけで、意識自体はずっと保ち続けていたのだろう。

 昨夜はゴタゴタしていたのでまだ事情は話していないが、恐らくは彼もジャルダーノが誰かに追われてここに逃げ込んだと察している筈。意識を保っていたのも、追手を警戒してのことだろう。

 流石、騎士だと言いたいところだが、彼にも申し訳ないことをしてしまった。


「……ああ」


 ジャルダーノが頷くと、セントも「そうか」と頷き返す。


「なら、俺も一緒に行こう。大公閣下には会われて行くんだろう?」


「そのつもりだ。事情を知りたがっているだろうし、霊薬の礼もしなければいけないからな」


 今回の任務、アルベイル大公は関係ないが、しかし貴重な霊薬をいただいた借りがある。任務だからとそれを無視するほどジャルダーノも恩知らずではない。


「彼らには……」


 言いながら、疲れ切った様子で寝入っているナダイツジソバの従業員たちに目を向けるセント。

 そんなセントに対し、ジャルダーノは首を横に振って見せる。


「いや、後であんたからそれとなく言っておいてくれ」


 彼らは昨日の営業が終わってから、全く休むことなくジャルダーノの看病を続け、つい先ほど眠りについたばかり。しかも翌日の営業もあるからと、家には帰らずここで仮眠するだけで済ますのだという。

 先ほども言ったが、本当ならば1人ひとりに礼を言いたいところなのだが、今、彼らを起こすのは酷というもの。それにそこまでのんびりしている時間もない。


「分かった」


 セントも椅子から立ち上がり、2人して厨房の方へ行くのだが、ふと、ジャルダーノは業務用の大きな冷蔵庫の前で足を止めた。


「…………と、そうだ」


 言ってから、ジャルダーノはおもむろに冷蔵庫に手をかけ、その大きなドアを開く。

 中には当然、肉や野菜などの食材が詰まっているのだが、ここには他にもある筈なのだ。ジャルダーノが探している『あれ』が。


「おい、勝手に……」


 ジャルダーノがいきなり店の冷蔵庫を物色し始めたもので、セントも慌ててそれを止めようとする。

 しかし、そんな彼を片手を上げて制するジャルダーノ。


「約束だからな。1杯だけだ」


 そう言いながらジャルダーノが冷蔵庫から取り出したのは、琥珀色の液体で満たされた大きなプラスチックボトルであった。

 飲食店で使われる業務用特大ボトルのウイスキー。

 このウイスキー、ただ量が多いだけの低品質で大味なものではなく、ロシア出身のジャルダーノでも知っている、ちゃんとした一流メーカーのジャパニーズウイスキーである。


 昨夜はアンナにウイスキーなど飲んでいる場合かと呆れられてしまったが、彼女は傷が治れば飲んでいいとも言っていた。それにフミヤ・ナツカワも1杯だけならハイボールではない原液のウイスキーを飲んでいいと言っていた。両者共に言質は取れている。


 だが、セントは呆れた様子で眉間にシワを寄せた。


「病み上がりだろう?」


「傷は治った。それに後で金も払う。これで彼らも文句はない筈だ」


「それに、これから大公閣下に会おうというのに酒はいかんだろう?」


「1杯くらいで俺は酔わん。朝早いからな、ボーッとした頭には、むしろ気付けになるさ」


 セントの非難がましい視線も無視して、ジャルダーノは厨房に置いてあったガラスのコップを手に取り、そこにウイスキーを注ぐ。

 とぷん、とぷん、と音を立てて、甘く芳しい匂いを漂わせながら琥珀色の液体がコップの内側に溜まってゆく。

 凡そコップの3分の1も酒が溜まっただろうか、そこで注ぐのを止める。流石にコップを満たすまで注ぐほど卑しいことはしない。


 普通であれば、任務が完璧に終わるまで酒など飲むことはないが、実に10数年ぶりのウイスキーだ。正直、国王の護衛をしている時も、内心では彼らが飲むハイボールが羨ましくて堪らなかった。任務中だから心を鬼にして我慢したが、心の中ではずっと叫んでいた、俺にも酒を、地球のウイスキーを飲ませてくれ、と。

 そんな酒が目と鼻の先にあるというのだから、これを飲まない手はない。

 負傷も癒え、憂いはなくなった。もう、誰にも文句は言わせない。


 口内に溢れる唾液を飲み込んでから、コップのウイスキーを一息にぐっと流し込む。


「……ッ!?」


 10数年ぶりのウイスキー。

 アルコールも弱い、気の抜けた異世界のエールばかり10年以上も飲んでいたジャルダーノには、原液のウイスキーはかなりキツかった。

 アルコール濃度の高い、ガツンとした酒の強さ。苦味も巷に溢れるエールとは比べものにならない。

 だが、これぞ酒。確かにキツいが、それ以上に美味い。

 とろりと濃密な舌触り、香り立つ木樽の匂い、喉を焼く酒精、鼻に抜けるスモーキーさ。

 スコッチウイスキーに似た味わいだが、酒に移った木樽の香りに和を感じる。

 何と芳醇なのだろう。単純ではない、多面的な美味さが口内を満たし、アルコールの熱さを伴って喉の奥へと流れ落ちてゆく。


 ああ……。


 と、胸中で感嘆の声を上げる。

 これだ。これこそがウイスキーだ。

 薄いばかりで口当たりの軽い異世界エールにはない、酒としてのどっしりとした重厚さ。これこそが酒、子供が味わうことを許されぬ大人の味なのだ。

 仕事を終え、くたくたになった大人は酒場で酒を飲み、必ずこう言うのだ、


「この1杯のために生きている」


と。


 前世、酒を飲み始めた当初の頃、ジャルダーノはこの言葉の意味を理解出来なかったが、年齢を重ね、人生経験を重ねた今なら分かる。

 人生における苦いものを、ため息を吐きたくなるようなキツさを、この熱い酒に溶かし、大人はぐいっと飲み干すのだ。

 そして酔いを回して人生は捨てたものではないと自分に言い聞かせ、心地良い浮遊感に任せて陽気に振る舞う。

 浮世の憂さを晴らし、明日を生きる活力へと変える。

 美味い酒とはかくあるべきなのだ。

 だからこそ、前世における父は酒に溺れたのだろう。いくら飲んでも付き纏う過酷な現実を振り払えなかったから。

 きっと、父はどれだけ酒を飲んだところで、苦い水くらいにしか感じていなかったのではなかろうか。


「かああああぁ………………ッ!!」


 一息にウイスキーを飲み干したジャルダーノは、くしゃりと顔を歪め、喉の奥からアルコールで焼けた熱い息を吐き出す。

 10数年ぶりのキツい酒に喉が焼ける。たった1杯でかなり喰らった。

 だが、これがいい。これこそ人生の妙味。酒の醍醐味。


「美味そうに飲むもんだ」


 ジャルダーノの様子を横で見ていたセントが、呆れ半分といった様子で苦笑している。


「美味いからな、実際。これが何処でも飲めるのなら最高なんだがな……」


「ストレンジャーの世界の酒だ。ここにしかない」


「あんたも知っていたか」


 言いながらジャルダーノが顔を向けると、彼はもう一度苦笑してから頷いた。


「俺もこの店を警護する者の1人だからな。事情は知らされているさ。まあヴェンガーロッドの騎士ほど詳しく知っているわけではないと思うが」


「そうか」


 ジャルダーノも頷き、空になったコップに視線を移す。

 実に美味いウイスキーだった。ウイスキーの本場といえばイギリスだと思っていたが、日本の職人たちも良い仕事をする。元にしたのはスコッチウイスキーだというのは飲んですぐ分かったが、それを自分たちの色に落とし込んだ手腕は流石だ。そんじょそこらの安物とは一味違う。

 個人的な思い入れも多分にあるが、このウイスキーには心を動かされた。普段は何事にも動じないジャルダーノの心を、だ。

 この酒は敬意を示すに値するものだ、ならばそれ相応の礼をしなければ失礼というものだろう。


 ジャルダーノは掌に1枚のコインを召喚した。白銀に輝く、プラチナ製のコインだ。中央には十字架が刻印されている。


「何だ、それは? カテドラル王国の貨幣ではないようだが……」


「十二使徒……元は十字軍のアサシンキラー、暗殺教団と戦う者たちの間で使われていた聖貨だ」


 セントに訊かれて、ジャルダーノはそう答えた。


 伝説に名を残すハサン・サッバーフですら恐れたという十字軍のアサシンキラーたち。

 この聖貨は、暗殺教団のアサシンたちを倒す度、褒章として倒した人数分与えられていたのだという。つまるところ、現代で言う撃墜マークのようなものだ。


「聖貨? 何だそれは?」


 その質問には答えず、ジャルダーノは空になったコップの横に聖貨を置いてから、セントに向き直る。


「このコインと引き換えだが、俺は一度だけどんな仕事でも請け負う。本当に、どんな困難なことでもだ。あんたから彼らにそう伝えておいてくれ」


 彼らには危ういところを救ってもらった上、前世の頃から渇望してやまなかった酒まで御馳走してもらった。

 そんな彼らに対する、ジャルダーノが出来る最上級の礼。それが、この聖貨である。


「それは構わんのだが……」


 自分で言った方がいいのでないかと、そう言いたそうな顔をしながら言葉を濁すセント。

 だが、何度も言うがそういうのはジャルダーノの柄ではないし、次に彼らに会えるのはいつのことになるか。今の任務が終わったところで、ジャルダーノには次の任務が控えているのだ。しばらくは休む暇もない。

 地球であろうとアーレスであろうと、世に悪党の何と多いことか。


「行こう。用事は済んだ」


 今度こそ裏口のドアを開け、ジャルダーノは店から出た。

 まだ昇り切っていない、紅く燃える朝陽が目に突き刺さる。


「眩しいな…………」


 このような強い光は、ジャルダーノのような闇に生きる者にはいささか酷だ。

 ジャルダーノはすぐさまサングラスを召喚し、それをかけた。


 この後、アルベイル大公に事情を説明し、霊薬の礼もしたジャルダーノは、まだマフデン子爵を監視しているヴェンガーロッドの仲間たちと合流し、情報を共有、そのまま急ぎ旧王都を発ち、オートバイを召喚して王都へと急ぎ帰還した。

 ジャルダーノがもたらした情報によって、今度は司法当局が動き出す。

 ジャルダーノに逃げられたことを悟ったマフデン子爵は妻も子も、囲っている妾や愛人たちも捨てて自分だけ国外へ逃げ出そうとしていたのだが、腕と膝の関節を撃ち抜かれ、満足に動けずモタついていたのだろう、旧王都の北にある自領へ向かう途中の街道で確保されたのだという。

 ちなみにではあるが、このマフデン子爵確保の一隊には、ジャルダーノも参加していた。馬車の中でジャルダーノに確保されたマフデン子爵が、実に苦々しい顔をしていたことは言うまでもない。

 マフデン子爵は当然処刑と相成り、子爵家は断絶、領地、及びその資産は全て没収された。残された妻子は貴族籍を剥奪の後、一文無しの平民となり市井に放り出されたそうだ。

 まともに働くこともせず放蕩の限りを尽くしていた元貴族が、いきなり平民となってどうなるものか。その末路は想像するに難くない。

 このマフデン子爵の、アードヘット帝国時代の被害者として、あのナダイツジソバで働く給仕、アレクサンドル・バーベリの名も上がっていた。故にマフデン子爵に関する顛末もアードヘット帝国の許可を得た上で彼、及び帝国に戻った彼の母親にも伝えられたのだという。

 彼の無念がこれですっぱり晴れたとは思わないが、少しでも心が軽くなったのなら幸いである。


 マフデン子爵を巡る一件にケリがついた後、ジャルダーノは早速次なる任務に就いた。次の仕事はウェンハイム皇国への潜入任務だ。マフデン子爵が残していた情報によって、内通先のウェンハイム貴族が明らかになったのだ。今回の任務で先方にツケを払わせることになるだろう。

 徐々にではあるが、しかし確実にウェンハイム皇国は綻びを見せ始めている。何かきっかけになる大きな動きがあれば、彼の国は一気に崩壊へと進む筈だ。何せ、ウェンハイム皇国を苦々しく思っているのはカテドラル王国だけではないのだから。


 これより約10年後、ウェンハイム皇国において、晩餐会で皇城を訪れた国内の主要貴族、並びに皇族が一夜で暗殺されるという事件があり、それがきっかけとなってカテドラル王国とアードヘット帝国、デンガード連合の三大連合軍がウェンハイム皇国を滅ぼすことになるのだが、それはまだまだ先の話。

 そして、生き残ったウェンハイム貴族の中で最も厄介だとされた、亡き皇王の血を継ぐ庶子がいたのだが、その庶子も程なくして暗殺された。彼が亡くなる前の晩、彼が身を潜めていた隠れ家に、黒尽くめの男が踏み入ったという目撃情報があるのだが、真相は解明されず闇から闇へと葬られたそうだ。

※西村西からのお願い※


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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