転生者ジャルダーノ・ヴィンチェンホフとキツいウイスキー⑥(アンナ視点)
実家である大盾亭に加えて、最近は修行としてナダイツジソバでも働くようになったアンナ。
ナダイツジソバの営業はいつも午後9時に終わるのだが、従業員の仕事までぴったり午後9時で終わる訳ではない。そもそもからして9時に終わったとしても、ぐでんぐでんに酔っ払った酔客が退店するまで30分くらいかかることはザラだし、酷い時は水など飲ませて1時間は介抱することもある。
また、店内の掃除や翌日の為の仕込み準備などの作業もあるし、汗をかいた時などは業務が終わってから、店長の部屋の風呂を借りてから帰ることもある。
そう、店長の部屋には、普通は貴族や金持ちの家にしかない、個人用の風呂があるのだ。
店長の部屋は実に不思議な造りになっており、下の店舗同様、室内の至るところに魔導具が使われている。風呂についても蛇口なるものを捻るだけで湯が出るし、シャワーという粒状の湯を無数に出し続ける便利なものもあるのだ。このシャワーというものがまたクセになるほど爽快で、これを浴びた後に冷えたビールなど飲むと、天にも昇るような気持ちになる。
まあ、ともかくだ、ナダイツジソバの営業時間が過ぎたとしても、従業員はすぐには帰れない。
今日もたっぷり、午後10時30分くらいまで仕事をしてから業務が終了し、後は着替えて帰るだけとなった。風呂については前回借りたばかりなので、今回は借りない。毎度借りるのは流石に厚かましいし、店長にしても迷惑だろう。店長の部屋で同居しているルテリアにもシャオリンにも迷惑がかかる。アンナが風呂を借りるのは、あくまで彼女らが風呂に入らない日だけだ。
「皆、今日もお疲れ様でした。また明日もよろしく」
1日の業務の締めとして、店長がいつもの文句を口にする。この口上を聞くと、やはり1日の業務が終わったという実感が湧く。大盾亭では父が雑に「お疲れーい」と言うだけなので、いつも聞いているのに何だか新鮮な感じがする。同じ飲食店だというのに、明確に流儀が違う、と思えるのだ。
「「「「「お疲れ様でした!!!!!」」」」」
従業員5人が声を揃えて頭を下げ、それに合わせて店長も頭を下げる。
今日はこれで終わり。頭を上げ、アンナが私服に着替えようと、従業員控室の方に顔を向けた、その時だった。
ドン!!
と、皆の背後で音が鳴った。もう施錠した筈のガラス戸を叩くような、そんな音だ。
「え?」
店長が困惑した声を上げ、皆が揃ってガラス戸の方に振り返る。
すると、そこには何故だか、ガラス戸に寄りかかるようにして、1人の男が倒れていた。負傷してボロボロのドロドロになっている様子だが、あの男性には見覚えがある。つい最近のことだ。
「な、何だ……?」
「え、あ、あの人……ッ!」
「こないだ来た、国王様の護衛の人じゃないですか!?」
皆が揃って声を上げる。
間違いない、あの男性は、先日、国王が店内に連れて来た護衛の男性だ。1人だけ見たことのない、随分変わったナリをしていたのでよく覚えている。
あの男性、国王と一緒に王都へ帰ったのではなかったのか。というか、どうしてあんなボロボロになってこんなところにいるのだろうか。
疑問は尽きないが、今はともかくそれどころではない。
「た……大変だ! 早く手当てしないと!!」
店長、チャップ、アレクサンドルの男性3人が、施錠させたガラス戸を開け、店内に彼を抱えて運び込み、とりあえずルテリアが膝枕をする形で床に寝かせる。
「ぐ、ううぅ……」
目は開いているが、意識が混濁しかかっているのだろう、苦しそうに呻く男性。
改めてその様相を検めると、酷いものだ。
一体何があったのか、衣服の前面が黒焦げになっており、ジャケットの内側に着ているシャツにジワリと血が滲んでいる。顔面は汗まみれで黒い煤がこびり付いており、口元には吐血したような跡が見受けられた。
まるで、胸に炎の魔法でも受けたような感じだ。アンナは別に兵士でもないしダンジョン探索者という訳でもないが、彼が何かと戦い、負傷してここに来たのだということくらいは分かる。
「俺は水を持って来る! チャップくんは裏からタオル沢山持って来て! シャオリンちゃん、上に行って救急箱取って来て! 本棚の上に置いてあるから! ルテリアさん……はそのままの方がいいね」
突然、降って湧いたようにやってきた、のっぴきならない状態ではあるが、ともかく店長が冷静に、皆にそう指示を飛ばす。
今、何よりも優先すべきことは、この男性を手当すること。それは間違いない。
「申しわけないんですが、アレクサンドルさんはお城の大公閣下へ知らせに……」
「すまないんだが……」
と、店長の言葉の途中で、それまで苦しげに唸るばかりだった男性が明確に言葉を発した。
「アンナ、という店員がいる筈だ。違うか……?」
言われた瞬間、どうしてこの男が自分の名前を知っているのか、とアンナは思ったが、しかし彼は国王の護衛を務めるような者だ。アンナどころか、ナダイツジソバに勤める従業員全員の身の上を調べていたとしても何らおかしなことはない。というか国王が来店する時、実際に調べたのだろう。危険人物な不穏分子は紛れ込んでいないか、と。
「あ、ああ、アンナならあたしだけど……」
アンナが頷くと、男は何故だか安堵したように小さく息を吐いた。
「良かった……。わ、悪いんだが、俺の負傷を治療してくれ。頼む…………」
まるでアンナが医者であるかのような断定的な物言い。普通であれば「何故自分に言う?」と返すところだが、この男はやはり、アンナのことを詳しく調べていたようだ。
「あんた、あたしの『回復魔法』のギフトのことまで知っていて……」
そう、アンナのギフトは肉体の負傷を治療する『回復魔法』。
無論、ダンジョン探索者や国に仕える魔法使いのように日々使い込んでいる訳ではないが、それでもまだ実家の厨房に入ったばかりで、包丁で指を切ったり、油が跳ねて火傷した時などに自身の回復魔法で負傷を癒したものだ。技術が身に付き、滅多に怪我などしなくなった今になっても、見習いたちがちょっとした怪我をした時などにギフトを使っているので、一応は他人の負傷を治療する手順など心得ている。
「そ、うだ、頼む…………」
どうにか、といった感じで、男がそう頷いた。
アンナはこんな重傷を治療したことなどないが、3年ほど前に兄の骨折した足を完治させた経験がある。あの時も骨折の治療など無理だと思ったが、どうにか出来たのだ。一体何処で何をしてこんな重傷を負ってきたのかは分からないが、彼は国王の護衛だから身元は確か。それに何より、アンナを頼って来てくれたのだから、期待に応えない訳にはいかないだろう。流石にこの酷い怪我を完治させられる自信はないが、何もしないよりは遥かにマシな筈だ。少なくとも、このまま放置すれば息絶えるだろう彼の命を僅かでも長らえさせる、その助けくらいにはなるだろう。
「え? アンナさん?」
困惑した様子でアンナと男の顔を交互に見る店長。きっと、今の会話の内容に驚いているに違いない。
確か、彼には自分の料理の腕や実家のことは伝えたと思うが、ギフトのことは伝えていなかった筈だ。料理のことには関係ないと思って、うっかり伝え忘れていたのだ。それに、ナダイツジソバの厨房ではこれまで怪我をするような者もいなかったので、ギフトを使う機会もなかったので仕方がない。店長もそれくらいは大目に見てくれるだろう。
「料理に関係ないから言ってなかったけど、あたしのギフト、負傷を癒す『回復魔法』なんだ。この人は最初から知ってたみたいだけど……」
アンナが言うと、店長もそうかと頷いた。
「あ、ああ、そうだったんだ……。と! お、俺は水を持って来るから、アンナさん、ルテリアさん、この人のこと頼むよ! チャップくん、シャオリンちゃん、アレクサンドルさんもお願いします!」
「「「はい!!」」」
3人が頷き、皆がそれぞれ動き出す。店長は水を、チャップはタオルを、シャオリンは手当ての道具を、アレクサンドルはアルベイル大公へ知らせに。
厨房の方、店の裏口へ行こうとするアレクサンドルの背中に、アンナは「待った!」と声をかける。
「アレクサンドル! 大公様のとこの回復魔法使いも寄越すように言っとくれ!!」
無論、アンナも手は尽くすつもりだが、やはり本職の回復魔法使いがいた方がいい。
アンナの急な頼みにもかかわらず、アレクサンドルも心得たとばかりに頷いた。
「はい!」
そのまま厨房にあるドアを開け、裏口から旧王城の敷地内、庭へと駆けて行くアレクサンドル。旧王城では24時間、常に誰かしらが起きている筈だから、すぐにも対応してくれることだろう。
アンナも自分の仕事に取り掛からねばならない。
「治療の邪魔になるからね。前、開けるよ」
言いながら、男の返事も待たず、アンナは彼のシャツに手をかけ、ボタンを外していく。
「ぐ、うぅ……ッ!」
アンナも気を付けているつもりなのだが、それでも微かな接触が傷に障るのだろう、男が噛み殺した苦しそうなうめき声を上げる。
「我慢しとくれ。もう少しだから」
ボタンを全部外し、露になる男の上半身。
それを見て、アンナもルテリアも思わず声を失ってしまった。
やはり重傷だ。火傷に加えて、胸部が赤黒く腫れている。恐らくは骨にまでダメージが行っているのだろう、これは骨折していると見て間違いない。まるでトロールやゴーレムといった巨大な魔物に殴られたような負傷である。
「至近距離で……爆炎の魔法を、喰らってしまってな……情けないことに、このザマだ…………」
自嘲気味に苦笑しながら、男が言う。
こんな街中で爆炎を受けたとはどういうことだろう。一体、いつからこのアルベイルはそんなに物騒な街になってしまったというのか。
まあ、思うところは色々とあるが、ともかく今はこの男の傷を癒すことが先決だ。
「…………じゃあ、やるよ。あらかじめ言っておくけど、腕の方にはあんまり期待しないどくれよ」
「どうなろうと……文句は言わない。やってくれ…………」
その言葉に頷き、アンナは男の胸にそっと両手を置き、掌に意識を集中する。
すると、アンナの両手が白く発光し始め、負傷した男の胸から白い煙が上がり始めた。
「うぐ、う、ううぁ…………」
男は苦しそうに呻いているが、これは別に胸が焼けて煙が出ているのではない。例えるならば、塗り込んだ薬が傷に沁みているようなものだろうか。アンナの回復魔法が順調に効いている証拠である。
火傷に爛れた胸元から赤みが引いていき、腫れていた部分からも徐々にその腫れが引いていく。
外傷はアンナの俄仕込みの回復魔法でもどうにかなりそうだが、問題は胸の内部、骨折だ。折れた骨がそのままの位置に留まってくれていれば、そしてあまり細かく砕けていなければ繋げるかもしれないが、そうでない場合、粉砕骨折していたり、折れた骨が肉体の深くに突き刺さっていれば、アンナの腕で完治させることは難しい。それが出来るのは、やはりギフトを使い込んだ本職の回復魔法使いのみ。
ただ、外傷を癒すだけでも一応の延命にはなるだろう。このまま安静にして、本職の回復魔法使いにバトンタッチするなり、上位の霊薬を飲ませるなりすれば彼は助かる筈だ。
「み、水! 水持って来ました! 飲めますか!?」
男に治療を施しながら、アンナが色々考えていると、店長がコップに水を入れて戻って来た。
負傷に加え、男はかなり疲労している様子。水は喉から手が出るほど飲みたいところだろう。
だが、彼は何故だか首を横に振った。
「いや……。それより、頼みがある…………」
「え? な、何ですか?」
「ウイスキーを……くれないか…………?」
「え!?」
いきなりそう言われて、店長が唖然とした様子で驚く。
見ればルテリアも驚いた様子だし、アンナとて疑問符が頭上に浮かんだ。
この男、従業員以外には知り得ないウイスキーのことを何故知っているのか。
というか、この切迫した状況で何故、酒など飲みたがるのか。明らかに酒など飲んでいる場合ではないし、負傷にも障るだろうに。
だが、皆が困惑の目を向ける中、男は尚も言葉を続けた。
「この店では、ハイボールを……提供していたな? なら、あるんだろう…………? ソーダで割る前の、ウイスキーが」
唖然として口を開けたまま、ぎこちない動作で頷く店長。
「あ……あんた、こんな状況で何言ってんの?」
思わず、アンナは呆れ半分に呟いていた。
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