転生者ジャルダーノ・ヴィンチェンホフとキツいウイスキー①
2013年、イタリア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島。
島内のほとんどが教会となっているこの美しい島は、しかし現在、夥しい量の紅い血と人の死体、そして硝煙で満たされていた。
純白の僧衣が血で真っ赤に染まっている僧侶たちの死体。だが、その手には僧侶が本来手にすることのない銃やナイフが握られている。
この惨状を作り出したのは、たった1人の男。名は、ジャルダーノ・ヴィンチェンホフ。裏の世界で闇の男と呼ばれる世界最高峰の暗殺者だ。
散々に打たれ、撃たれ、斬られ、しかし未だ討たれることなく、ボロボロになった己の身体を引き摺りながら、ジャルダーノは教会の礼拝堂に続く扉を開く。
ギギギ、と軋んだ音を立てて開いた扉の先では、はたして、1人の僧侶が広大な礼拝堂の中央に立ち尽くしていた。
豪奢な僧衣を着込んだ、明らかに高位の司祭と分かる初老の男。だが、その手にはやはり僧侶には似つかわしくないオートマチック拳銃が握られている。
「………………やはり来てしまったか、ジャルダーノ・ヴィンチェンホフ」
何の感情も篭もっていない表情と声で、僧侶が重々しく口を開く。
傷付き、疲労し、もう意識を保っているのもやっとではあるが、それでもジャルダーノは意思の力でどうにか言葉を返した。
「来ざるを得ない。そう仕向けたのはあんたたちだ…………」
世界中の犯罪組織を束ねる裏社会最大のアライアンス、十二使徒。
自らの主を手にかけたあの日を皮切りに、ジャルダーノを抹殺する為に十二使徒から追手の処刑人たちが次々放たれるようになったが、今日までその全てを退けてきた。だが、どれだけ処刑人を倒しても追手が途切れることはなく、裏の世界での懸賞金も跳ね上がり、己の命を狙う者たちが加速度的に増えてゆく。
これを止める為には十二使徒の頂点に立つ男、司祭を倒すしかない。それ故、彼の本拠地であるこのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に乗り込んだのだ。
そして襲い来る司祭の配下たちを全て撃ち倒し、こうして今、ボロボロの身体を引き摺りながら司祭の前に立っている。
ジャルダーノに感情の篭もらぬ視線を向けたまま、司祭は緩慢な動作で首を横に振った。
「いいや、来なくてよかったのだよ、お前は。大人しく裁きを受けるべきだったのだ」
「どの口が言う? あんたたちはマスカノヴィッチを裁かなかった……!」
ジャルダーノが言っているのは、十二使徒の1人、アルノフ・マスカノヴィッチ。ジャルダーノの故郷でもあるロシア、ノヴォシビルスクに居を構えていた男で、かつてはジャルダーノが所属した組織、ルスカ・チョルヌイのボスの座に君臨していた。
だが、その男は半年も前に死んでいる。ルスカ・チョルヌイごとジャルダーノが潰したのだ。マスカノヴィッチには確かに拾ってもらった恩があるが、しかし彼は密かにジャルダーノを裏切っていた。ジャルダーノの妹を亡き者にしていたのだ。
最愛の妹を奪った復讐。マスカノヴィッチを殺すには十分過ぎる理由だった。
「彼は裁かれるような罪を犯してはおらん。だが、お前はどうだ? 十二使徒の1人を手にかけたのだぞ? 自らの主であるアルノフを」
「先に俺を裏切ったのはマスカノヴィッチだ! だから俺が裁いた! 俺が訴えてもあんたらがそれを握り潰したから!!」
十二使徒の配下にある者は同じアライアンスに与する者を殺してはならない。それは組織の御法度だ。が、今回の件のように、看過できない事態が絡んでいることもある。そういう場合は十二使徒の審判者に訴え出て審議を仰ぐことになっているのだが、あろうことか十二使徒はジャルダーノの訴えを最初からなかったものとして握り潰したのだ。他ならぬ十二使徒の1人が被告だからと。
十二使徒が動かないのであれば、それどころか彼を庇うのであれば、ジャルダーノ本人が動き、直接マスカノヴィッチを裁くしかない。例え十二使徒というアライアンスそのものを敵に回すことになろうとも。
だからジャルダーノは今、襲い来る全てを倒してここまで来たのだ。
しかしながら、彼らにとってはジャルダーノ個人のことなど関係がない。彼らは組織。常に組織の利になる方を優先する。今回の場合はジャルダーノ1人の事情よりも十二使徒という立場を優先させた。そしてジャルダーノの怒りや悲しみを切り捨てたのだ。
「たかが女1人と十二使徒の命が同じ価値だと思うか?」
そう言われた途端、ジャルダーノは激高して血を吐きながら声を張り上げた。
「俺にとっては! ナタリアの命の方が何より重かった!! それをあの男は……マスカノヴィッチはッ!!!」
マスカノヴィッチはナタリアを、ジャルダーノにとってただ1人の肉親、妹の命を弄んだ。マスカノヴィッチの手足として働いていたジャルダーノに、彼女を守護している、平穏な生活を送っていると、僅かな金の為に嘘をついて。
ジャルダーノはマスカノヴィッチが妹を守護していると思っていたからこそ、忠義を捧げていたのだ。それが逆に彼女を地獄に突き落として金を得ていたというのだから、その怒りは業火の如く燃え上がろうというもの。
だが、司祭はこれを「愚かだな」と一笑に付した。
「ジャルダーノ・ヴィンチェンホフ。十二使徒の名において裁きを下す。もう世界の何処にもお前の安住の地はない。その矮小な命も、闇に愛されたその才能も今日までだ」
だが、今度はジャルダーノがこれを一笑に付す。
「おあつらえ向きに教会で神の御許に、か? 悪いが神など信じていない」
本当に神がいるというのなら、世界はどうしてここまでくそったれているのか。どうしてここまで悪党がのさばっているのか。もし神が実在しているのなら、世界をここまで放っておいたりはしないだろう。だから神はいない。
少なくとも、この時のジャルダーノはそう思っていた。
「案ずるな。これだけ罪を重ねたお前が神の御許へ行くことなどない。お前の為には誰も祈らぬ。死後も魂の安息すらないだろう」
「人間は死ねばそれまでだ。それを俺に教え込んだのは、他ならぬお前たちだろうが!」
ジャルダーノのその叫びを皮切りに、お互いが銃を持ち上げ引鉄を引く。
2人とも同時に跳びのきながら銃を撃ち、遮蔽物に身を隠す。
いくら世界最高の殺し屋であろうと、流石に発射された銃弾を目視することは出来ない。だが、発射前の動作や身体の起こりから射線やタイミングを予測することは可能だ。他ならぬ十二使徒によってそう仕込まれた。
互いに相手の弾丸を躱しながら銃を撃ち込んでゆく。だが、やはりお互いに弾丸が当たらない。ジャルダーノは現役の闇の男だが、司祭は2代ほど前の闇の男。年齢は重ねているかもしれないが技量は衰えていない様子。
故に、互いに決め手に欠ける戦いとなる。
だが、決着の時は唐突に訪れた。ここまでずっと戦い続けてきたジャルダーノの弾丸が先に尽きたのだ。
弾丸の尽きた拳銃を投げ捨て、懐からナイフを取り出すジャルダーノ。身を隠していた石柱から躍り出て、リロードしている最中の司祭にそのまま殺到する。
「それは悪手だろう、ジャルダーノ・ヴィンチェンホフ」
躍りかかるジャルダーノを見ながら、心底落胆したようにそう呟く司祭。マガジンを替え、焦ることもなくスライドストップを下ろしてチャンバーに次弾を装填すると、がら空きになったジャルダーノの胴体に5発ほど弾丸を叩き込んだ。
「あぐ……ッ!?」
瞬間、くぐもった声を洩らしながら、弾かれるように吹っ飛び、背中から床へ叩き付けられたジャルダーノ。着用しているスーツは防弾仕様の最新型なのでどうにか貫通は防いだ。相手が使っているのはベレッタの派生銃、バーテック。口径は9ミリ。これがマグナムのような大型で高威力の弾丸であれば防弾スーツであろうと貫かれていたことだろう。
銃弾の貫通は防いだものの、今の衝撃で胸骨と肋骨が砕けたようで、その破片が肺にも刺さっているようだ。喉の奥からブクブクと泡になった血液が溢れ、ヒューヒューと呼吸が浅くなり、まともに呼吸が出来なくなっている。
ジャルダーノの殺し屋としての本能が告げている、どうやら自分はここまでだ、遠からず、いや、すぐにでも命の炎が消えるだろう、と。
「ぶ……ぐ…………う……ッ」
猛烈に胸部が痛み、意識は鮮明なのに身体から力が抜けてゆく。
だが、それでもジャルダーノは残された力を総動員して右手の内に残ったナイフを持ち上げる。
「見上げた闘志だが、もう終わりだ」
頭上からそう声がかかり、瞼を落とそうとする身体に逆らい、カッと目を見開いて声の方に目をやると、いつの間に移動したものか、傍らに司祭が立っており、ジャルダーノの眼前に銃口が突き付けられていた。
このまま放置しておけばジャルダーノは死ぬ。恐らく30分と持たないだろう。だが、それでも司祭は自分の手で確実なる止めを刺そうとしているようだ。
「闇に沈め、ジャルダーノ・ヴィンチェンホフ」
己の勝利を確信しているのだろう、言いながら、緩慢な動作で引鉄に指をかける司祭。
「お前がな」
司祭が引鉄を引こうとした、まさにその時だった。
ジャルダーノは最後の力を使い、持ち上げていたナイフの柄、その横に施された小さなボタンを押し込んだ。
瞬間、司祭が引鉄を引くよりも速く、ジャルダーノのナイフ、その柄から刃が発射され、司祭の首元に突き刺さった。
「がぶ……ッ!?」
信じられない、とでも言うように、司祭が血を吐きながら己の首元に手をやる。
これまで1度として使うことのなかったジャルダーノの奥の手、刃の発射機構が内蔵されたスペツナズナイフであった。しかも実際にスペツナズで使われていたモデルではなく、自ら設計してガンスミスに造らせた特注品。1度見せてしまえば2度と通じることのない最後の手、1回しか使うことの出来ない完璧な初見殺しだ。
「う……ぐ……ぐ…………ッ!」
喉元からゆっくりと刃を引き抜き、震える手でそれを投げ捨てる司祭。
しかし、刃が抜けるのと同時に傷口から瀑布のように血液が溢れ出し、そのまま膝からくずおれて床に倒れ伏した。
床の上に司祭の血液が広がり、ジャルダーノの周辺が途端に血の海と化す。
本来であれば厳かであるべき礼拝堂。
だが、ジャルダーノと司祭の激しい戦いにより元が礼拝堂とは思えぬほどボロボロになってしまった。
硝煙が濃厚に漂う礼拝堂の中央で、ジャルダーノは床に背を預けたまま、だらりと力なく四肢を投げ出し、天井を睨んだ。
そこにあるのは、巨大なフレスコ画だ。父なる神の手が被造物たるアダムに生命を吹き込む場面を描いたもの。恐らくはシスティーナ礼拝堂の天井画を参考に描かれたのだろう。
「神なんぞ……いるものか…………」
吐き捨てるように言い、激痛を押してスーツの胸元に手をやる。
どうやら命の終わりが近いようだ。どんどん意識が遠のいていく。
だが、最後の最期に信じてもいない神を見ながら死にたいとは思わない。最期くらいは好きなことをしたい。
今出来る好きなことと言えば、酒を飲むことくらいだ。
防弾の意味も兼ね、ジャルダーノはいつもスーツの胸元、そのポケットにチタン製の頑丈なスキットルを忍ばせているのだが、中はウイスキーで満たしている。上等ではない安物のブレンデッドウイスキーだが、ジャルダーノが生まれて初めて口にし、そのまま愛飲するようになった酒だ。
この酒を初めて口にして以来、ジャルダーノは任務が終われば必ず最後はウイスキーで仕事を締めることにしている。
司祭を始末し、今回の仕事は終わった。そしてもうすぐ己の人生も終わる。
這う這うの体で目的のものを取り出したのだが、しかしスキットルの中央には無残な穴が空き、中身は全て流れ出してしまったようだ。どうやら、司祭からの銃撃を受けた時、不運にもスキットルに銃弾が当たっていたらしい。
くそったれが。
と、胸中で呟き、スキットルを放り投げるジャルダーノ。
意識がどんどん薄れ、身体の感覚が失せてゆく。
信じてもいない神の姿を見ながら死ぬなど冗談ではない。ジャルダーノは目を閉じて、死の闇の中に意識を融かしていく。
「ウイスキー……飲みたかったな………………」
最期にそう呟いてから、ジャルダーノは完全に意識を失った。
そして次に目が覚めた時、ジャルダーノの眼前には、どういう訳か雲ひとつない晴天が広がっていた。
※西村西からのお願い※
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