とある日。ダンジョン探索者ライル・メッサーとコロッケそば
新連載はじめました。
ライル・メッサーはカテドラル王国の子爵家の出身だが、家督を継げる筈もない五男だったので、成人すると家を出てダンジョン探索者になった。
命懸けでダンジョンと呼ばれる迷宮を探索して宝を探し、内部に巣食う魔物を倒してその素材を剥ぎ取る。それがダンジョン探索者の主な仕事だ。
ライルは末っ子の五男坊だが一応は貴族の子息。貴族の嗜みとして剣を学んでいたので、何も下地のない者よりは苦労せず探索者になることが出来た。無論、それは探索者になる為の苦労のことであって、探索者を続ける苦労とはまた別だ。
基本的にダンジョンは地下へ地下へと続く多層構造。しかも下層に進めば進むほど魔物が強くなり、罠の凶悪さも増してくる。時には10日以上もダンジョンに潜り続けなければならないし、危険を犯した割に実入りがなかったり、大怪我をしたりすることもある。悪ければ仲間が死ぬこともある。最悪は自分自身が死んでしまうことだが、ダンジョン探索者になって早や5年、幸運にしてライルはどうにかこうにか生き永らえている。
長かったダンジョン探索を終え、ホームである旧王都に戻り探索者ギルドで成果を精算し終えると、ライルたちのパーティーは一旦解散した。また明日、次のダンジョン探索の打ち合わせをする予定だが、それまでは自由だ。
ダンジョン探索を終えて街に戻った日は、必ず美味い飯屋でたらふく食うことにしている。ダンジョン内での食事は基本的に干し肉やカチカチのパンといった、味を度外視した保存食だ。そんな食事を何日も続けていれば当然美食に餓えてくる。たとえ満腹になるまで食べられたとしても、味気のない食事では満たされないものがあるのだ。
幸いにして懐は膨れている。今日だけは食いたいだけ食い、飲みたいだけ飲んでやる。さあ、何処で食おうか。エールが美味いあの店か、それとも串焼きが美味いあの店か。ライルがそんなふうに考え込んでいると、不意に、背後から声がかかった。
「ライル。お前もこれからメシ行くのか?」
名前を呼ばれたライルが振り返ると、はたして、そこには同じパーティーのリーダー、大盾使いの大男、ロック・ディルファムが立っていた。
「リーダー? 帰ったんじゃなかったのか?」
ライルは2つほど年長のロックのことを、敬意を込めてリーダーと呼んでいる。同じ貴族家の出身ということで、それまでソロで活動していたライルを拾ってくれたのが彼だったのだ。
ロックはその無骨な顔に笑みを浮かべると、首を横に振ってから口を開いた。
「いんや、俺もこれからメシさ。今日はこのまま食いに行こうと思ってな」
彼は笑顔のままそう言うが、いつもなら解散後にすぐさま帰宅するのだ。確か、結婚してまだ2年だったか。夫婦仲は良好で、街にいる限りは必ず妻が家で待っているからと仲間の誘いも断って帰るのが常だった。
「帰らなくていいのか? 嫁さんが……」
家で待っているんじゃないか、と、そう言おうとしたライルの言葉を、しかしロックは片手を上げて制した。
「俺んとこの嫁さんなあ、実家に帰ってるんだよ。だから家に帰っても今日は一人なんだ」
「え!? も……もう愛想つかされたのか?」
ライルはてっきり、ロックが妻に三行半を突きつけられて逃げられたとばかり思っていたのだが、彼はすぐさま「アホか!」と怒声を上げた。
「違うわ! 出産の為に帰ってるだけだ! 初めての子供だから一人じゃ不安なんだとよ」
「ああ、そういうことか。何だよ、驚かすなよな……」
うろ覚えだが、確かロックの妻は王都の出身だった筈だ。
ロックはダンジョン探索者だけあり、仕事となれば平気で一週間でも半月でも家を空ける。もしもそういう時に陣痛が来ればどうなるだろうか。最悪は誰の手助けもなく一人で子を産むことになる。それよりは万事心得ている母親のいる実家で出産する方が安心するのだろう。安全性の面でも、母親がついていてくれた方が良い筈だ。
「まあ、そういうわけでうちの嫁さんは今は王都にいてな。お前、メシ付き合え。今日は奢ってやるからよ」
彼も独身だった頃は一人で食事をしていた筈なのだが、家族を持って孤食が淋しくなったのだろう。
「奢ってくれるんならいいが、何処行くんだい? 俺は今日は高くてもいいから美味いもん食いに行くって決めてるんだ」
本当は一人で気ままに好きなものを食べに行こうと思っていたのだが、奢りなのであれば彼に付き合うのも悪くない。ただ、安かろうが量が多かろうがさして美味くもないものだけは勘弁だが。
ロックはそんなライルの不安を払拭するよう、自信ありげに拳を握り親指を立てた。
「なら心配ねえな。今日はツジソバに行こうと思ってたんだ」
「ツジソバ? 知らない店だな」
ロックは知っていて当然とでも言うようにツジソバなる店の名を口にしたが、ライルはそんな店のことなど聞いたこともない。
「何だお前、旧王都で暮してるくせにツジソバを知らないってのか? 案外モグリなんだな」
何だか勝ち誇ったような顔でそう言うロック。
確かにライルも旧王都に暮して5年になるが、ロックのように生まれも育ちも旧王都という訳ではないので知らないことも多々ある。いや、むしろ知らないことの方が多いだろう。何せ、街にいるよりも家を空けてダンジョンに潜っている方が長い生活をしているのだから。
「何のモグリだってんだよ?」
若干むっとした表情を浮かべて、抗議するようにライルが言うと、ロックは「ははは」と声を上げて笑った。
「そうむくれるな。店の正式な名前は『ナダイツジソバ』だ。安くて美味いメシがたらふく食えるし、酒も驚くほど美味い店だ。まあ、酒はあんまり種類がないんだけどな」
ロックはそう言うが、料理も酒も美味くて安いなどという、ある意味夢のような、そんな店が本当にあるのだろうか。
「本当かよ? そんなに凄い店があるなら、もっと噂になっててもいいと思うんだがな……」
「まあ、知る人ぞ知る店だからな。行くぞ。付いて来い」
そう言ってずんずん進み始めたロックの背を、ライルも慌てて追い始める。
「おい、待ってくれ!」
大通りまで出たロックはそのまま旧王城、現在の大公城の方へ向かう。そのまま本当に大公城の前まで行くロックに、ライルは慌てて声をかけた。
「おいおい、リーダー? あんたまさか、大公城の食堂にでも行こうとしてるのか? 城の中に入れてもらえるわけないだろ?」
ライルが不安を口にすると、ロックは、ふ、と苦笑するように鼻を鳴らした。
「馬鹿言え。そんなわけあるか。いいから付いて来いって」
「こんなところ歩いてて、衛兵に怒られないのか?」
「問題を起こさない限りは大丈夫だ」
言うや、今度は城壁に沿って歩き出すロック。周辺を巡回している衛兵も二人のことを気に留めてはいるようだが、追い払ったり注意する様子はない。
そうしてしばらく歩いてから、ロックは不意に立ち止まった。
「着いたぞ、ここだ」
「………………」
ロックが手で指し示すその店を、ライルは言葉を失った様子で見上げていた。
その店は、明らかに異様であった。
大公城の城壁に同化、というかめり込むように建つ2階建ての建物。1階部分がほぼ透明なガラス張りで、それ以外の部分が漆喰だろうか。全く曇りもなければ歪みもないガラスに、熟練の職人ですらここまで精緻に整えるのは無理だろうと思われる漆喰らしき壁。店自体は大きくないが、しかしその造りは豪華そのもの。どんな貴族も、それこそ王家の人間だとてこんな建物は所有していまい。それにどうやっているのか、看板にも店内にも煌々と昼のような明かりが灯っており、また、店の前にはガラスケースが設置してあり、その中にこの店で提供されているのだろう料理の数々が並んでいる。
異様にして異質。ライルの理解の及ばぬもの。規格外。人の理解が及ばぬダンジョンに挑むダンジョン探索者のライルをして、圧倒される威容。そんな店が堂々と大公城の敷地内に鎮座している。これは、本当に現実なのだろうか。
「………………なあ、リーダー。これ、何なんだ?」
店の異様な出で立ちに圧倒されていたライルが、ようやく口を開いた。
唖然としたライルの様子を見て、ロックは苦笑を浮かべている。自分も最初にこの店を見た時は似たような感じだったな、と、そう思っているのだ。
「これがナダイツジソバだよ。看板の文字は異国のやつだから読めないが、ちゃんと店名が書いてあるんだとよ」
「…………俺、夢でも見てるのか?」
「俺も詳しく聞いたわけじゃないが、噂じゃどうも店主のギフトで出した店らしいぞ? それまでは城壁しかなかった場所に、次の日からいきなり店が出てたってな」
ギフトは神が人間に授けた奇跡の力。歴史に名を刻んだ人物や伝説を残した英雄は往々にして優れたギフトを有しているものだが、店を出すギフトなど古今東西見たことも聞いたこともない。奇妙奇天烈。やはり異様にして異質。
「そ、そうか……。ところで、この店では何が食えるんだ?」
「ソバだよ」
「え?」
ソバ。店名にも入っている言葉だが、ライルの知らないものだ。どういうものか想像もつかない。
「だから、ソバだよ、ソバ。まあ、ソバ以外もあるけど、メインはソバだ」
そう言われても、そのソバ自体を知らないのだからやはり謎のままだ。
「ソバって何なんだよ? 教えてくれよ」
ライルが痺れを切らしてそう言うと、しかしロックは少し意地悪そうな笑みを浮かべて店を指差した。
「実物を見て、食えば分かるよ。さあ、入ろうぜ」
「あ、ああ……」
ぎこちなく頷き、店のガラス戸の前に並ぶ二人。するとどうだろう、手も触れていないのにガラス戸が自動で開いたのだ。
「うおぉッ!」
まさかの事態にライルが思わず驚きの声を上げる。扉を開く為だけに魔道具を使っているとは思ってもみなかったので、度肝を抜かれたのだ。旧王都で最も格式高いとされているレストランでも、こんな仕掛けはないだろう。随分と豪奢なことである。
「ふっ……」
思わぬ失態。ロックに鼻で笑われ、ライルは思わず赤面してしまった。だが、気を取り直してロックと共に店内に入る。
「いらっしゃいませ!」
二人が入店した瞬間、店内から若い女性の声が響いてきた。20代前半と思しき給仕の女性だ。店の奥、厨房には店主らしき男の姿も見える。両人とも濃紺の帽子とエプロンを身に着けていた。恐らくはこれがこの店の制服なのだろう。
店内は変わった造りになっている。細長いU字のテーブルが1つに、小さなテーブルが5つほど。U字テーブルと小テーブルを合わせ、席は20ほどもあるだろうか。歌手もいないのに、店内には歌が流れている。耳馴染みのない曲調の歌だが、何だか妙に心に染みる。恐らくはこれも魔道具で流しているのだろう。流石に歌までギフトということはない筈だ。
「よう、ルテリアちゃん」
ロックは鷹揚に手を上げて給仕の女性、ルテリアに声をかける。店に通って顔見知りになったのだろう、ルテリアの方もロックに笑顔を見せている。
「あ、ロックさん! 今日はお2人なんですか?」
「ああ。こいつはライル。同じパーティーの仲間なんだ」
「そうなんですか! 私、ルテリアと申します! よろしくお願いしますね!」
ニコリと花のような笑顔で頭を下げるルテリア。実に良い笑顔だ。彼女のような人を看板娘と言うのだろうと、ライルはそう思った。
ライルは独身で恋人もいない。可愛らしい少女に笑顔を向けられたライルは、まるで10代の少年のように赤面してしまった。
「あ、ああ、どうも……」
初心な反応を見せるライルに苦笑しながら、ロックはメニューも見ずに注文を頼んだ。
「ルテリアちゃん、コロッケソバ2つとビール2つね」
注文しながら、ロックは空いていた小さなテーブルの席に滑り込む。ライルもそれに習い、ロックの対面の席に腰を下ろした。
「かしこまりました! 店長、注文入りました! コロッケ2とビール2!」
少女が大きな声でロックの注文を厨房に告げると、
「あいよ!」
と、厨房の奥から威勢の良い店主の声が返ってくる。
「ルテリアちゃん! こっちもビール2つ!」
「はーい、かしこまりました!」
他の席からも注文が入り、ルテリアはそちらの客の方へ駆けて行く。
彼女の背を見送ってから、ライルは眼前のロックに向き直った。
「コロッケソバと……ビールだったか? どんなもんなんだ?」
「まあ、料理と酒だな。俺の一番好きな組み合わせなんだよ」
「ふうん……」
コロッケソバは、ロックが言っていたソバの一種なのだろうが、ビールとは何なのか。言葉の響きがエールに似ているが、違うものなのだろうか。
そんなことをライルが考えている間に、ルテリアが盆に2つのジョッキを載せて持って来た。
「こちら、お先、ビールになります」
言いながら、ルテリアが流れるような手付きでライルとロックの前にジョッキを置いて立ち去る。
グラスの中身は透き通った黄金色の液体に、雲を思わせるふわふわとした泡。見た目はエールそのものだが、しかし透明度はライルの知るエールとは段違いだ。普通のエールにはどうしても濁りが混じるし、粗悪なものだと何がしかの粒が浮いている。味も極端に薄かったり、妙に酸っぱかったり散々だ。しかしながらこのビールには粒など欠片すらも浮いていない。恐らくは酸っぱくもないのだろう。確かラガーという、エールとはまた違う造り方をする、しかし見た目はエールによく似ている麦酒の話をいつだったか聞いたことがあるが、もしかするとこのビールという酒はそのラガーなのかもしれない。
そして全く濁りも歪みもない透明なガラスのジョッキ。ライルはガラス細工に詳しい訳ではないが、腐っても貴族の出身、これが上位の貴族家でしかお目にかかれないような逸品だということは分かる。
ガラス張りの店と言い、このジョッキと言い、本当に何から何まで規格外だ。
ロックも貴族の出身だからこのジョッキの価値は分かっているだろうに、それを気に留めている様子もない。この店でこれくらいは驚くことですらない、ということだろうか。
「ああ、ありがとう」
ロックがルテリアの背に礼の言葉をかけると、彼女は一瞬だけ振り返って笑顔を見せた。
「じゃ、まずは乾杯だ」
「ああ……」
促され、ライルはジョッキを手にした瞬間、驚きに目を見開いた。
「おお、つ……冷たいな。グラスを冷やしてるのか、これ?」
「らしいな。どうやってんのかは知らないが、ビール自体もかなり冷えてるぜ?」
普通、エールは常温で出て来るのだが、この店のビールは冷たい状態で出されるらしい。店主も給仕も氷の魔法を使っている様子はないから、恐らくは酒を冷やす為だけに何らかの魔道具を使っているのだろう。何という贅沢だろうか。
「これ、本当にエールじゃないのか?」
ライルが訊くと、ロックは首を横に振る。
「いや、ビールだ。こんな澄んだ黄金色のエールなんてないだろ? それに味も喉越しもエールとは段違いだ」
言いながら、待ち切れないとばかりにロックがジョッキを持ち上げる。
「じゃ、乾杯!」
「乾杯……」
ライルもジョッキを持ち上げてガシャリとぶつけて乾杯。黄金のビールを舌の上に滑らせ、喉の奥に流し込んだ。
ゴッ。ゴッゴッゴッゴッゴッ……。
飲みながら、ライルはカッと目を見開いた。そして同時に喉も開いた。ビールを呷るのが止まらない。何という美味さか、何という喉越しか、何というコクか、何というキレか。ライルの生涯において最高の酒がここにあった。上位貴族はおろか、国王ですらここまでの酒は手にしていまい。まさに天上の味。これこそが酒神の創造物。
「う……美味い!」
思いがけず一気に飲み干し、ライルが驚愕の声を上げる。
「だろ?」
ジョッキの半分ほどを飲んだロックが、ニヤリと笑ってこっちを見ていた。
「確かにこいつはエールじゃない! まるで別物だ! エールなんかとは比べるのも失礼だ!!」
ライルは興奮していた。こんな酒は貴族の夜会ですら飲んだことがない。生涯最高の酒と、まさかこんなところで出会うとは思ってもみなかったのだ。
「お口に合ったようで何よりです。こちら、コロッケそばになります」
ビールに夢中になって気付かなかったが、給仕の少女がいつの間にか料理を持って来ていた。ライルとロックの前に大きな円形の器を置いて去って行く少女。
「ありがとう。さ、食おうぜ」
ロックに促されたライルは、器の中身を覗き込む。
澄んだ茶色のスープに沈む、薄く紫がかった灰色の麺。その上に載る具は3種、何か白い輪切りの野菜がひとつまみ、何か黒いような濃い緑のペラペラしたものがひとつまみ、そして中央にデンと鎮座した狐色の揚げ物らしきもの。揚げ物はまだ揚げたばかりなのだろう、スープに浸かりながらもシュワシュワと音を立てている。
器から立ち昇る白い湯気が、ライルの鼻孔にほんのり甘く柔らかなスープの香りと、揚げ物の香ばしい匂いを伝える。
「これが……ソバなのか?」
ライルの認識では、麺料理と言えばパスタだ。が、パスタはこんな灰色ではないし、スープの中に沈んでいるものでもない。茶色いのに澄んでいて中がはっきり視認出来るスープというのも初めて見た。僅かに香る匂いも肉や野菜のそれとは違う。恐らくは海のものなのだろうが、それにしては磯臭くもない。実に不思議だ。
「そうだ。ちなみに店主曰くパスタの類じゃないそうだ」
「じゃあ、何なんだよ?」
「俺も訊いてみたんだが、ソバはソバだとしか答えてくれなかったな。まあ、食えないものならそもそも出てきやしないさ。安心して食え。間違いなく美味い」
それについてはライルも疑っていないので頷く。あの神の雫の如きエールを飲んだ時点で、この店に対する味の不安は霧散している。
卓上にはフォークとスプーンの他に、どう使うのか分からない木製の奇妙な棒のようなものも置いてあるが、ライルはフォークを手に取る。
そうして早速ソバに手を伸ばそうとしたところ、ロックが「あ、そうそう」と待ったをかけた。
「ソバってのは、まずはスープからいくのが通らしいぞ?」
「ふむ……」
言われて、ライルはフォークをスプーンに持ち替え、スープを一口啜ってみる。
ずずず、と音を立ててスープを啜るライル。少々下品ではあるが、周りも皆、当然のように音を立てて食べているので誰に咎められることはあるまい。
ゴクリ、と喉を鳴らしてスープを飲み込むライル。舌の上に残るのは角の立っていない柔らかいしょっぱさ、ほのかな甘さ。鼻に抜けるのは魚と、正体の掴めぬ何かが複雑に絡み合った上品な香気。
「…………美味い。極上だ」
スプーンから口を離したライルがしみじみと呟く。
一切雑味のない、何処までも透き通ったスープの味は、王族に供されたとしても不思議ではないほどに洗練されている。それほどの美味。
ロックは感動に打ち震えているライルに苦笑しつつも、器に直接口を付けて豪快にスープを啜っている。
「麺の方もいってみな?」
言いながら、ロックは先ほどライルが使途不明と判断した木の棒を手に取り、それを真ん中からパキリと2つに割った。その2本になった木の棒で器用に麺を掴み、ずずず、と美味そうに啜り上げるロック。
あの木の棒はこう使うのか、恐らくは何処か異国の文化だな、と感心しつつ、ライルもフォークを手に取った。
「よし」
意気込み、フォークで麺を掬って口に運ぶ。
ぞぞ、ずぞぞ……。
つるつるとコシのある麺から感じる確かな歯応え。表面に纏ったスープの旨味。そしてスープのものとも小麦のものとも違う香気。実に素朴で質実剛健な味。これもまた美味い。
「美味い。確かにパスタとは違う。なるほど、ソバはソバか……」
ロックの言う通りだった。ソバはソバ、パスタと別物。
眼前のロックも美味そうにソバを啜り、ガブガブとビールを呷っている。
続いて口にするのはやはりこれしかないだろうと、ライルは器の中央に鎮座する揚げ物にザクリとフォークを突き立てる。コロッケソバという名前から察するに、これがコロッケなのだろう。
ズシリと重いコロッケを持ち上げ、端の方にガブリと齧り付く。
ガリッ、ザクッ、サクサクサク……。
歯から伝わるサクサクとした衣の歯応え、そしてホクホクネットリとしたジャガイモらしき落ち着く甘さ、油のコク。食べ慣れている筈のジャガイモの、しかしこれまで食べたこともない美味しい食べ方との出会い。ジャガイモというありふれた食材が見事に御馳走に化けている。
「あふっ、ほふっ……」
コロッケの熱さに湯気を吐きながら、それでも美味さを求めてもう一度齧ってしまう。
美味い。実に美味い。
口内のものを嚥下して顔を上げると、ロックも丁度コロッケを齧っているところだった。
「なあ、ジャガイモだよな、これ? サクサクして、ホクホクして……ともかく美味い。どうやったらジャガイモがこんなに美味くなるんだ?」
料理に造詣が深い訳でもないロックがそれを知る筈もないことは分かっている。分かってはいるのだが、しかしライルは訊かずにいられなかった。
だが、ロックはそれには答えず、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら持っている木の棒でライルのコロッケを差した。
「もう一口齧ってから、今度はスープで流し込んでみな? 飛ぶぞ?」
「飛ぶって何だ? ハルピュイアみたいに翼でも生えるってのか?」
ハルピュイアとは上半身が人間の女になっている怪鳥の魔物である。
ライルの言葉に、ロックはくっくっく、と笑い声を立てた。
「いいから、言った通りに食ってみろって」
「んん……」
言われた通り、コロッケを一口齧ってからスープを啜って咀嚼する。複雑に絡み合い、混じり合って渾然一体となった香気が鼻に抜けた瞬間、ライルはカッと目を見開いた。
「美味い! こいつはマリアージュだ!」
スープの美味さとコロッケの美味さ、しょっぱいものと甘いもの、さっぱりしたものとこってりしたもの、液体とサクサクネットリした固形物。この組み合わせは単純な足し算ではない、掛け算だ。仮に美味さを数値化出来るとしたら、それぞれを単品で食べた時よりも数倍に跳ね上がっている。まさしくマリアージュ。コロッケはソバを伴侶としたのだ。
自分が作った訳でもないのに、ロックはライルが感動している様子を見て満足そうに頷いている。
「だよな、俺もそう思う。だから俺はコロッケソバが好きなんだ」
言ってから、ロックもコロッケを齧ってから、ずずず、とスープを啜った。
それからはもう、ライルは夢中でコロッケソバを貪り食った。
ずずず、ずぞぞ、ガリガリと、貴族家の出身らしからぬ下品な音を、しかして幸せな音を立てながらコロッケソバを堪能するライルとロック。
大の男が本気でガツガツ食べると、一杯のソバなどすぐなくなってしまう。
「給仕のお姉さん、すまん、コロッケソバおかわりだ! ビールもおかわり頼む!」
「あ、ルテリアちゃん、俺にもね!」
ライルとロックはほぼ同時に給仕の少女、ルテリアに追加注文をした。もう二人ともコロッケソバとビールに夢中である。早く次が来ないかと待ち切れないくらいだ。
「はーい、かしこまりました! 店長、コロッケ2、ビール2です!」
まるで子供のような二人の様子に苦笑しながら、ルテリアが厨房の店主に注文を告げる。
それからライルとロックはコロッケソバを3杯も食い、ビールも同じく3杯飲んだ。これだけ飲み食いしたのだから相当取られるだろう、奢ってくれるロックには少し悪いことをしたな、とライルは思っていたのだが、予想に反して代金は5000コルにも満たなかった。普段ライルが行っている店で同じだけ飲み食いすれば、軽くこの倍は取られているところだ。
「ありがとうございましたー!」
ルテリアの元気な声を背に、並んで店を出る二人。土産は心地良い満腹感と酒の酩酊感だ。
とっぷりと陽も暮れ、夜風が火照った頬に心地良い。
「………………ぐえっぷ。なあ、リーダー?」
酒臭いゲップを吐いてから、ライルは顔も向けずに隣を歩くロックに声をかける。
「何だ?」
「これ、夢じゃないよな?」
驚くほど美味いメシと美味い酒。それをたらふく飲み食いして値段は驚くほど安い。まるで夢だ。酒に酔っていることも手伝っているのだろうが、振り返ればそこにはただの城壁しかなかった、全ては夢幻だった、というオチがついても不思議ではないほど現実感が伴わない。
ロックもライルには顔を向けず、膨らんだ腹をポンと叩いた。
「夢なもんか。そんな酒臭い息吐いて、夢のわけないだろ?」
言ってから、ロックは「まあ、でも、夢みたいだけどな」と付け加える。
「こんな夢なら毎日でも見たい」
ライルが言うと、ロックは今度こそ顔を向けた。
「通うのか?」
「当たり前だ」
こんな良い店をロックにだけ独占させる訳にはいかない。ライルも通って常連になってやるのだ。あの店ならばコロッケソバとビール以外にも必ず美味いものがある。むしろメニュー全部美味い可能性の方が高い。そんな探求がこれから始まるのかと思うと、ライルは年甲斐もなく楽しみでならなかった。
「感謝は働きで返してくれよな?」
「うるせえ」
恩着せがましく言ってきたロックに、ライルは乱暴に言葉を返す。しかしそれは照れ隠しで、本当はちゃんと感謝している。
ナダイツジソバという名店との出会い。それはライルにとって生涯の宝となるのだが、それを自認するのはまだ先の話だ。
※西村西からのお願い※
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
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