第88話 領地強靭化② 領軍と物資
通常の移民に加え、鉱山開発に関わる職人や労働者が移住してきたことで、アールクヴィスト領の人口は500人の大台が見えてくるほどに増えていた。
御用商会であるスキナー商会との取引のために領外からやって来る人間も増え、そうした商人や護衛の傭兵の需要を見越して領都ノエイナには宿屋が建ち、また領民たちの娯楽の場として酒場なども開かれ始めている。
こうして、ノエイナはもはや村ではなく、小さな街と言ってもいい規模へと発展を遂げていた。
日々規模を拡大する領都ノエイナや、レスティオ山地の麓に新しく造られた村を守り、治安を維持する。そして今後起こるであろう戦争に備え、王国内の混乱から領地を守る。そのためにも、ノエインはついに正式なアールクヴィスト領軍を発足させることにした。
今日はその発足式の日だ。
「まだ規模は小さくても、こうやって並んでるのを見ると壮観なものだね」
「この日までに最低限は鍛え上げたからな。ちゃんと一端の兵士に見えるだろう」
革鎧と兜、籠手などの防具を装備し、列をなして立つ男たちを見ながら、ノエインはユーリとそんな言葉を交わす。
場所は領主屋敷の近くに新しく作られた領軍詰所――と言っても、今はまだ平屋の建物と倉庫、訓練用の広場があるだけの施設だ。
兵士となる人員は今のところ50人。ほとんどが実家の農地を継げない次男以下の者で、なかには領の見回りなどで長く活躍してきたリックとダントのように、農家から専業の軍人に転身することを決意した者もいる。
ここにユーリ、ペンス、ラドレー、バートなど武家の従士たちが士官として加わり、アールクヴィスト領軍を構成することになる。名目上の指揮官は領主であるノエインだが、実務上のトップとして兵士たちの管理や訓練を行うのは従士長のユーリだ。
「一人でこれだけの人数を兵士として育てるのは大変だったでしょ? お疲れ様」
「まあ、それなりにやり応えはあったな。傭兵時代を思い出した」
ノエインの労いを受けて、ユーリは苦笑しながらそう返した。
職業軍人の数が50人というのは、アールクヴィスト領の規模を考えると異例だ。現時点では実に人口の1割以上が軍人ということになるのだから。
領の人口がこれからさらに増えることを見越してこの領軍の規模を実現したわけだが、これも鉱山開発によってアールクヴィスト士爵家が大きな収入を得ていることと、農地面積あたりの生産性に優れたジャガイモが胃袋を支えてくれることが大きい。
「まずはここから100人規模を目指して、将来的には1000人規模の軍団を抱えるほど領地を発展させたいな」
「そうなったら俺は軍団長か……随分と夢のある話だな」
ロードベルク王国では百人隊を基本の戦術単位とし、これが3隊で大隊を、大隊が3隊と司令部隊を合わせた1000人で一軍団を構成するのが一般的だ。
王家直轄の精鋭である王国軍もこれに基づき、10の軍団――すなわち1万人を常備兵力として有している。一方で各領地を見ると、軍団規模の領軍を抱えられるのは、ベヒトルスハイム侯爵領などごく一部の大貴族に限られる。
1000人の兵士を率いる軍団長というのは、戦いを生業とする者にとっては出世の最高到達点と言ってもいい。傭兵の下っ端から人生のキャリアをスタートさせたユーリとしては、野心をくすぐられる話だった。
「そこまでいく頃には僕は陞爵されて上級貴族になってるだろうから、ユーリも僕の下で武家の職能貴族になってるだろうね。士爵とか準男爵とか」
「そうか……自分が爵位を持つなんて俄かには信じがたいが、ノエイン様ならそこまで実現させてしまいそうだな」
遠い目をしながらユーリは呟く。
今の従士長という立場だけでも昔の自分からすれば信じられない出世だが、ノエインの才覚を考えれば、そこに付き従う自分も今よりさらに上の立場に立つことになるだろう。
そうなったときのために、これからも自分自身も鍛え成長させていかなければならない。まずは自分の仕える領主から預かった軍をしっかりと運営し、機能させるのがその第一歩だとユーリは考える。
「……そろそろ発足式を始めるか」
「そうだね」
二人は整列した兵士たちの前へと向かった。
・・・・・
「――以上が、今年の大豆生産に関する報告です」
「ありがとうクリスティ。予想よりもいい結果だね……来年には領内で消費する油を大豆で賄えるようになるかな?」
「ええ、人口の増加を見越しても、おそらくそうなります。搾りかすを飼料として利用できるので、家畜の生育も良くなると思います」
「そっか、分かった……これで本格的に大豆栽培も軌道に乗るね。お疲れ様」
「ありがとうございますっ!」
ノエインがそう言ってクリスティに微笑みかけると、自分の成果を認められたクリスティは満面の笑みで明るく応えた。
「またアールクヴィスト領の武器がひとつ増えたね。油と栄養豊富な飼料を確保できて、いざとなったら荒れた土地でも育つ大豆は僕たち人間の非常食にもなる……領の生存戦略の上でも重要物資だ」
「ジャガイモに加えて大豆の生産も本格化すれば、アールクヴィスト領の食糧事情もさらに盤石なものになりますね」
麦とジャガイモと大豆があれば、よほどのことがない限りアールクヴィスト領が飢饉に陥ることはないだろう。
民を守る領主や王にとって、ときに戦争よりも恐ろしいのが飢饉だ。飢饉は人間の都合などお構いなしに命を奪い、社会を壊す。戦争と違い、自然の前には講和や降伏という選択肢はないのだ。
ノエインが過去に読んだ歴史書でも、飢饉によって国や領地が傾き、崩壊した話は多い。
だからこそノエインは、アールクヴィスト領の特産となる商品作物としてだけでなく、非常時の重要な食糧物資として大豆栽培を進めてきた。
「次は甜菜を原料にした砂糖生産ですね。こっちはまだ実験畑で試しているだけですが、やり方は分かっているのでいい結果をご報告できると思います!」
そう言いながら「うふふふ」と笑うクリスティの目はキラキラと……というよりはギラギラと輝いていた。目の下には少し隈がある。
「……クリスティ、また働き過ぎで寝不足になってるでしょ」
「……はい、ここ最近はちょっとだけ夢中になりすぎました。すみません」
クリスティはノエインの指示のもとでこうした実験を進めつつ、普段はアンナの部下として事務官としても働いている。仕事に生きがいを感じてくれるのはノエインとしても嬉しいが、目を離すとこうして働き過ぎるのが悩みの種でもあった。
「仕事が楽しい気持ちは分かるけど、君の能力はアールクヴィスト領にとって大切な財産でもあるんだからね。甜菜の実験は急ぎじゃないから、しっかり休息もとるように」
「分かりました。ちゃんとたくさん眠るようにします」
ロードベルク王国では葉野菜や飼料として知られる甜菜だが、ノエインが昔に読んだ書物だと「外国では甜菜を原料にして砂糖を作っている」とあった。
そのため、ノエインはこの甜菜を原料に自領で砂糖生産を実現しようと考え、商品化のための実験をクリスティに頼んでいたのだ。
しかし、それもクリスティに無理をさせて急ぐほどの事業ではない。ノエインとしては、優秀な人材であり、自分の大事な奴隷の一人でもあるクリスティに健康を維持させる方が大切だ。
クリスティが素直に注意を聞き入れたのを見て、ノエインは内心で安堵するのだった。
・・・・・
「どうも、イライザさん」
「あらバートさん、いつもご苦労様」
アンナの母であり、レトヴィクで食料品店を営むイライザは、店に入ってきたアールクヴィスト領の従士バートを笑顔で迎える。
「こんにちはバートさん。妹はアールクヴィスト領で元気にやってますか?」
「やあマルコ。ああ、アンナは相変わらず従士として活躍してるよ。エドガーとの夫婦仲も良好らしい」
アンナの兄である次期店長のマルコともそう挨拶を交わすと、バートは用件を伝えるためにイライザに向き直った。その声は他の従業員たちに聞こえないように、やや抑えられている。
「今日は例の品物を受け取りに来ました……頼んだ量は確保できていますか?」
「ええ、もちろんですよ。すぐに積み込ませますね」
「ありがとうございます。店の裏に輸送隊の馬車を待たせてますので、そっちにお願いします」
アールクヴィスト領の輸送隊長であるバートが受け取りに来たのは、塩だ。
領内で十分な量の食糧を生産し、鉄と銅の鉱脈も持ち、油作りや砂糖作りまで進めているアールクヴィスト領だが、どうしても輸入に頼らなければならない必需品が塩だった。今のところ、領内の山地でも岩塩鉱は見つかっていない。
塩は人間の生存に欠かせない戦略物資だ。だからこそ、ノエインはできる限り多くの塩を領内に備蓄しようとしていた。
「それにしても、領主様っていうのは大変なんですねえ。先のことを見越してこんな準備までしないといけないなんて」
「戦争が起きて世の中が荒れたら、アールクヴィスト領が塩不足で困るのは目に見えてますからね……」
「まあ、確かにねえ……どれだけの備蓄をするんでしたっけ?」
「ノエイン様は5年分を目標にすると仰ってますね」
塩の積み込みを待つ間、バートとイライザはそんな会話を交わす。
「それはまた凄い量ですねえ……私としてはそれで娘の住む領地が守られるなら安心だし、こうして儲けさせてもらってるので嬉しいですけどね」
今後のことを考えるとできるだけ多くの塩を備蓄したいが、表立って大量の塩を買い集めていては他領から何事かと思われる。
そのためノエインは、アンナの実家であるイライザの店を頼り、極力目立たないように塩の備蓄を進めていたのだった。
アールクヴィスト領に娘がいるイライザであれば、ノエインの動向を周囲に吹聴するような心配はない。イライザ自身も塩の売買でしっかりと稼げるのだから、文句があるはずもなかった。
「まあ、これはあくまで念のための措置ですから……備蓄した塩に頼らずに済むなら、その方がいいとノエイン様も思ってるはずです」
アールクヴィスト領が備蓄した塩に頼るということは、人々が生きる上で必須の物資の流通すら滞るほどロードベルク王国の経済や治安が荒れるということだ。
ノエインとてそんな事態になることは望んでいないはずで、塩の備蓄が過剰警戒で終わるならそれに越したことはない。備蓄が不要になれば塩はまた売ればいいのだから。
「でも、戦争が起こることはほぼ決まりなんでしょう?」
「うちの従士長の見立てだとそうですね……北西部の貴族様の間でもそういう話が囁かれてるらしいですし」
「いやだねえ、きっとレトヴィクも荒れるんだろうねえ」
「ははは、もしそうなったら、アールクヴィスト領に避難してくるといいですよ。アンナも家族を助けたいでしょうし、ノエイン様だってお世話になってるイライザさんたちなら歓迎してくれるはずです」
アールクヴィスト領の従士であるアンナの身内で、アールクヴィスト領が世話になっているイライザたちなら、ノエインも助けたいと思うだろう。そう考えてバートは言った。
「そのときは本当にお世話になろうかしらねえ。そこまでの事態にならないといいけど」
「ええ。平和なままで済むならそれが一番ですよ」
紛争の影響は、流れてくる難民の増加や物価上昇などのかたちで王国北西部にも着実に響いている。
バートとイライザは、そう現状を憂うのだった。




