傷
私がある日起きた時に傷が出来ており、ふと思い付いたお話です。
その日僕は起きてすぐ洗面所に向かい、唇の痛みの違和感に気付く。
昨日までは下唇の右側にあった傷は綺麗に無くなり、代わりに左側にはまるでそこだけ移植したかの様な同じ大きさの同じ深さの傷が僕に痛みを脳に送り出していた。
傷はニ日前に着いたばかりで、昨夜も不意にまたぱっくりいってしまい傷が少し広がって血が出たばかりだった。
「痛い・・・」
赤い一雫が床に色をつける。
でも僕には付かなかった。
その事を残念に思ったが、目をぐっと閉じて息を吸って忘れる事にした。
赤は次第に固まっていく。
僕の思考も固まっていく。
何故傷は右側ではなく、左側に変わっていたのかについて一つの結論に取り付いた。
「ここは・・・パラレルワールドなのか・・・」
ふと、手のひらを見るが、すぐに強く握った。
「だからなんなんだ?それがどうした」
僕にとってそんなことは、この手のひらのしわの数を数えることよりもどうでも良かった。
赤はそのままに、洗面所を後にしてリビングに向かった。
暗いテーブルには昨日の夜買ってきた半額のシールの付いた菓子パン一つと、黒い肩掛けバック。
ささっと菓子パンを半分食べ終えるとそれを置いて代わりにバックを手に取る。
中身は・・・昨日のままだったため、そのまま提げる。
鍵を置き、スマホを置き、ヨレヨレの財布をズボンのポケットにしまった。
するとスマホの画面が光る。
でも僕は二度とこのスマホに触れなかった。
忘れ物は無い事を確認し、無給休暇のこの日、旅に出ることにしていた。
外に出るとギラギラと太陽の光が僕の肌を焼く。
日焼け止めを取ってこようか迷ったが、そのままで駅に向かう事にした。
いつもだったらこの時間はもう会社でブルーライトに目を焼かれ、上司や同僚に書類を任されたり、提出したりしている。
昨日も夜は遅かった。
勝手に電気を消され、暗い中書類製作していると警備員さんにまた、早く帰るようにと怒られて退勤、帰りにいつも行く二十四時間営業のスーパーにより帰宅したものの直ぐにぐっすり寝てしまった。
でも遅刻するから今日は会社を休んでいるわけでは無いし、会社が休みな訳でも無い。
ただ僕は連絡もせずに無許可で会社を休んでいるだけだった。
今頃部屋の中では機械音が何度も響き渡っている頃だろう。
この行為に対し、自分が全く悪気を感じていないことをここで初めて自覚する。
そして今度は自覚した事でどれだけ自分が汚い存在なのかを自覚した。
「醜いな・・・僕は・・・」
右の八重歯で唇を思いっきり噛んだ。
駅に着き改札を抜け電車が来るまで自動販売機の前でぼーっとする。
電車が来ると、ドアから一番近い左側の席に座った。
旅といっても今日の僕には特に目的地は無かった。
ふとした時に降りて、違う線の電車に乗る事の繰り返し。
何度も繰り返しているうちにもうどこの県なのかも分からない大きな山の見える駅でドアが開いた。
何となく気になりその駅で下車した。
駅の周りには本当に何もない。
駅員だって一人ぽつんと出入り口に立っているだけ。
最寄駅にはあんなにあった自動販売機も一つもなかった。
「はい、ありがとうございましたー」
駅員に切符と足りない切符代を渡して駅を出ても見える景色は山と緑だけだった。
それでも茶色いガタガタ道を歩いてく。
こんなにも人気が無いのだからここからかなり歩かないと今日の夕食は無いだろうと覚悟した。
それから三時間経っただろうか。
それとも四時間経っただろうか。
腕時計も持たぬ僕は山の中で開けた場所の人工物の石の上で夕日を眺めている。
バックの中に入っていた少しの食料を食べ尽くし、それでも空くお腹は大きな音を立てて僕に空腹であると訴えた。
でもその訴えに応えられる訳もなく一人、溜息をつく。
「いっそのことここで・・・」
そうは思ったものの、空腹のままというのも嫌だ。
しかしこの状況を変えられる訳でも無い。
これはどうしたものかと後ろに倒れると、視界にこちらを覗くお婆さんが入ってきた。
「おや、ここで何してんだい?」
普通の人ならここで驚いたりするのだろうけど今はそれどころではない。
少しの間、返事もせずにお婆さんを見ていたが、それを遮るようにお腹が音を立てる。
「なんだオメェさん。腹減っとるのか?」
「ええ、まぁ。思ったより人がいなくて食べ物にありつけ無さそうなんです」
僕はゆっくり体を起こし、お婆さんと向かい合った。
「ほぉーん。なるほどねぇ。じゃ、うちでご飯食べてき。これも何かの縁。食べ物くらいご馳走させてやるから」
「あ、えっと・・・」
急なことで驚いている僕にお婆さんは笑って「そんな年上に遠慮なんていらんよぉ。それとも人見知りかい?でもそんな奴がこんなところほっつき歩いている訳ないだろうに」と、手招きをして自身の家へ案内してくれた。
お婆さんの家は昔ながらの古びた日本家屋で、屋根には山の中の家だからか枯れ葉が多く乗っていた。
「お邪魔します・・・」
玄関のガラガラと鳴る引き戸を引き、屋内に入ると、中は殆ど何も無かった。
あったのは数日分の食料が入っているであろう発泡スチロールの箱ぐらい。
「悪いけど、私は食事はもう済ませたから冷えた物しか出せないんだよ。ごめんね」
「いえ、食事を出していただけるだけでもありがたいです」
リビングの卓袱台の上には卵焼きや煮物、漬物が置いてあった。
白米は・・・無いのだろう。
静かに座布団に座るとお婆さんが黒い長めの箸を持ってきてくれた。
「じゃ、食べな」
すっと、手を合わせて「いただきます」と挨拶した。
どれも薄味で少し物足りない気もしたが空腹の僕にはどうでも良かった。
それどころか徐々に美味しく感じてきて、急いで口の中に入れていく。
「そんなにお腹減ってたんか。そうかそうか。でもそんなに急ぐと喉詰まらせるからゆっくり食べな」
僕は小さく頷き、ゆっくり食べ始めた。
全ての皿を空する頃には外はすっかり真っ暗で部屋には天井に吊るしてある電球が光源となって光っていた。
「おや、もう食べ終わったのかい?」
「はい、ご馳走様でした。本当にありがとうございました。では僕はこれで・・・」
お婆さんはキョトンとした顔をして「ん?何言ってんだい?もう暗いんだからここに泊まって行きな」と言った。
「え、でもこれ以上迷惑かけるのは・・・」
「さっきも言っただろう。年上に遠慮はいらん。ささ、布団ここに敷いておくから泊まりな」
ここまで優しいお婆さんからのお誘いを断るわけにもいかず今日はここに泊まることを決めた。
でも流石に布団は自分で敷くことにした。
布団を敷き終わるとお婆さんはお茶を出して、手招きして縁側に僕を誘う。
僕はお婆さんの隣に座ってお茶をもらい、空を見上げながら一口飲んだ。
「何か・・・あったのかい?」
突然の質問に驚いたが、このお婆さんになら話しても良いだろうと会社の上司のこと、同僚のこと、仕事が多いこと全て話した。
「ほぉーん。それで嫌になってこんな山奥まで来ちまったと。そりゃ大変だったんだねぇー」
「ええ、僕は社会に出てから仲の良い友人にさえ会えていなかったので本当に辛かったです。僕の人生は嫌なことばかりでした」
ここでふと、今朝の奇妙なことを思い出した。
「そういえば、昨日の夜には右側にあった唇の傷が今朝には消えて、代わりに左側にあったんですよ。あぁでも、今はどっちにも有りますけどね。というかこんな話信じられないですよね。いきなり変なこと言ってすみません」
僕は最後方を少し笑いながら話したのだが、お婆さんは驚いた顔をしている。
「それはつまり、オメェさんは別の世界から来たって事かい?」
話にのってくれたことに驚いたが、のってくれるのならと、このまま話を続ける。
「来たって自覚はあまり無いんですが、そうですね。他に変わったことも無いですし気にしなくていいかなって思ったんですよ」
それを聞くとお婆さんは何やらダンボールから小さい箱を持ってくる。
暗くてあまり分からなかったが、小さな箱の正体がラジオである事を手元にきてやっと理解した。
「え、なんでラジオなんて・・・」
「これから流れるニュースを聞いて知らない事件や違和感があったら言いなさい」
なんでこんな事をするのか説明も無くお婆さんはラジオのスイッチを入れる。
すると人の声が聞こえ、その声はお婆さんが言っていたようにニュースを伝えている。
僕がそのニュース番組を聞き終えるまでお婆さんは黙ったままお茶を啜っていた。
番組が終わりCMに入るとお婆さんは「終わったね。何か違和感あったかい?」と聞いてきたが、僕には特に違和感もなく普通のニュース番組だった。
その事を伝えるとお婆さんはほっとした表情を見せた。
結局何だったのか理解出来ず僕にはお婆さんの行動理由がさっぱりだった。
「なんだったんですか?今のは」
「さっきもオメェさんは何も違和感なかったんだろ?という事はここの世界はオメェさんが『もし、唇の傷が右側ではなく左側にあったら』という違いのためだけに存在する世界ということだよ」
理解の追いついていない僕にお婆さんは一つ告げて寝床に着く。
「ここはオメェさんの世界ってことだねぇ。心配しなくても世界にゃ見捨てられてないってこと。じゃあおやすみ。茶飲みは卓袱台に置いておいてな」
僕は冷めきってしまったお茶をまた一口、また一口と飲み進める。
飲み終えると茶飲みと少しのお金と置き手紙を置いて森の中に戻っていった。
でも闇雲に歩くのでは無く、さっききた道を引き返すだけだった。
そしてさっきお婆さんが言っていたことを思い出す。
「僕の世界・・・」
あの開けた場所に着くと、ここは昔電車がはしっていたであろう線路が敷いてあることに気づく。
ここはパラレルワールド。
僕の知らない世界。
でも僕が創り出した世界。
いいや、つまり僕の世界!
僕は本当にこの世界は僕の『傷が左に出来ていたら』という事象のみで構築された世界であることを自覚し、それと同時に僕はこの世界は僕自身を中心に回っていたことに気づいた。
僕はバックから縄を取り出し道に捨て、この世界からは二度と消えぬことを心に誓った。
そして森を出る頃には僕には邪念が消えていた。
こんにちは、深沼バルキです。
前書きに書いた通り、ふと思いついたお話いかがだったでしょうか。
うんうん、え?「意味がわからない?」「どんな構成してんだ?」「非現実じゃねぇか」だって?
ふふん。い、痛いとこついてきますね。でも仕方ないじゃ無いですか!選択ジャンルにそれしかなかったんですから!
とまぁ、変な茶番劇は置いといて。
このお話はもしもこの世界が自分中心で動いていたのなら、でもそれは一つの選択だけで世界の分岐する本人には気付きにくい不親切な世界だったならという事をコンセプトにしたものでした。
人生に困ってる人、つまづいたまま誰も助けてくれ無い人etc...。そんな彼らに届き、少しでも力になれたらいいなと、思いながら書きました。
ではまたどこかで!
ここまで読んでいただきありがとうございます。