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夜が来た。
夕日が沈んでからしばらくして、ビルの屋上に来てみると、そこから星と月が見えた。見上げた場所にあるのは、煌めく光が散らばっている夜空だ。
この〈エルダー・テイル〉の世界が、現実世界の遥か未来であるとするならば、月という存在は星や太陽と同じように不変なものじゃないかと思える。
果ての見えない時間の先に寿命を持つ存在が、手を伸ばせば掴めそうな場所にある。伸ばせども伸ばせども、地上からは届きようがないのに。
ふと、夜空の真ん中で存在を主張している月明かりの眩しさに、思わず目を伏せてしまう。そのまま顔を俯けて、漠然と自分の正気を疑い始めた。
――月を見ていると、頭がおかしくなりそうだ。
その白い明かりが、僕の脳みそを侵食しているのか。或いは、月という永遠を連想させるものが、姿を変えずにそこにあり続けるからか。どちらにせよ、一人で月を観続けていると、なんだか気が変になりそうだった。
そんな時だった。
「ここにいたのかい」
誰かの声が背中に当たったのを感じた。
振り向くと、そこには二つのマグカップを持ったフロイドさんがいた。どうやら、僕を探していたらしい。話したいこともあるようだ。
「ほら、紅茶。……ストレートで良かったかい?」
「どうも。ストレートも好きなんで、大丈夫ですよ」
「なら良かった」
彼からマグカップを受け取りながら、コンクリート製の柵に背中を預ける。柵は、ちょうど僕の脇の下あたりの高さで、背中を預けるのも、組んだ腕を乗せて黄昏るのにもちょうどいい。落ちるリスクを考慮しなければ、マグカップを置けるほどの厚さもある。……置かないけどさ。
湯気の立つ紅茶を一口呷ってみる。熱くて、すっきりとした香りが口いっぱいに広がっていく。気分が少しずつ落ち着いてきた。
「……美味しいです」
「口に合うようで良かったよ」
「なんの茶葉ですか?」
「黒い茶葉だったよ。名前は知らない。昨日、露店で売ってたよ。香辛料と一緒にね」
「なんで、香辛料?」
「味のないご飯をそれで調整しようとしてね」
「……あぁ、なるほど」
さきほどの話になるけれども、僕の料理を食べた二人は「盲点だった!」という顔をしていた。何がこんなに驚いたのか僕にはよくわからなかったけど、話を聞いて納得した。
ようはあれだ。この二日間で、二人は、ナナと同じように、ご飯について妙なルールを植え付けられていたというわけだ。
料理スキルでご飯を作っても味がなくて美味しくない。ついでに、自分の手でご飯を作ろうとして、失敗した人を何人も見てきた。……とまぁ、そんな感じらしい。実際、スアンさんが軽いものを作ろうとしていて失敗したようだ。
どうして、僕は成功して、スアンさんが失敗したのか。その原因は、ちょっと考え込んでいたフロイドさんが料理をし始めたことでわかった。
フロイドさんは、ちゃんとした料理を作ることが出来た。そんなフロイドさんと僕に、目に見える共通点があるとすれば一つだけだ。彼のサブ職業が、僕と同じ〈料理人〉だったということ。
つまり、この世界では〈料理人〉が、ちゃんとした料理を作れるようになっているということだ。
「……それにしては、そんな怪しげな茶葉を買おうとは普通考えないと思うんですが」
「香りが良かったんだよ。これの匂いを嗅ぎながら、砂糖を舐める。……みっともないかもしれないけど、そうやって堪能することもありかなって」
「どんだけ切羽詰まってたんですか」
「色々と考え過ぎてたんだよ」
飯には味がない、と完全に思い込んでいたから、そういう考えに至ったのかもしれない。
――もし仮に、この世界で最初に自分の手でご飯を作ろうとしたヤツが〈料理人〉だったら、こんなことにはならなかったんじゃ。
ふと、そんなことを思ったけど、精神的に安定してなくて視野が狭くなってるんじゃ仕方がないや、と納得することにした。
いや、ひょっとしたらすでに気付いている人がたくさんいて、「何かに使えるかもしれない」と虎視眈々と隙を見ている人たちがいるから――なんてことも、有象無象な人々がいるこの世界ではありそうな話なんだけど、考えたら本当にいそうな気がしてくるから考えないようにする。イメージとしては、欲望だらけで獣みたいな人々。ちょっと怖い。
「……それで、どうするんです?」
「ん? 何がだい?」
「これからのこと」
僕は、そんな話を切り出す。
昨日と今日だけでも色々とあった。ありすぎた。どこにも行かなかったはずなのに、何もしなかったはずなのに、こんな世界に放り投げだされてしまった。
〈エルダー・テイル〉への転移。麟太郎に会えないという事実。テルオを取り囲む劣悪な現状。ナナとの出会いにセックス。過剰な優しさを振りまくヤツラとの追いかけっこ。フロイドさんにスアンさんとの出会い。
――その末に生まれた、小さな協力関係。
「そうだねぇ、ギルドでも作ろうかなって」
フロイドさんの言葉に一瞬だけ、テルオが所属させられているクソッタレなギルド〈ソイル〉のことを思い浮かべる。でも、あれとは多分違うギルドの話だ。そう思いたい。
「ギルドって、あのギルド?」
言葉を促す。
「『あの』というのが、『どれ』を指しているのかはわからないけど、『その』ギルドさ。ようするに、グループみたいな感じの」
ギルドというのは…………正直、集団で何かする組織みたいなものだ。ぶっちゃけ、僕もよく知らない。ウィ○ペディアに頼むか、ググってくれ。
……そういえば、この世界にインターネットどころかパソコンもないんだったっけ。じゃあ、無理か。
とまぁ、ギルドというのは、詳しいことは知らなくても何とかなりそうなゲーム中のシステムみたいなものである。そういうことにしておいてくれ。
「ギルドは嫌いかい?」
「……個人的な事情で、あるギルドだけは嫌いです。それ以外は別に」
「ならそうしよう。ギルドの方が何かと都合も良いしね」
集団が集団であるための、大義名分とでも言うべきか。便利な言葉だ。納得させることさえ出来れば、体面くらいは整うから。
「――〈放蕩者の茶会〉みたいなのは、無理だし」
フロイドさんの口から、言葉の続きが紡がれる。それは、先ほどの言葉を補強しながらも、どこか諦めの混じっているような声でこぼれ出ていた。
――〈放蕩者の茶会〉というのは、数年前まで〈エルダー・テイル〉で活躍していた伝説的な個人プレイヤーの集団のことだ。
ギルドではなく、たまたま集まったプレイヤーが気ままに冒険をする……といったスタイルで、難易度の高いクエストをクリアしてきたそうだ。
もっとも、僕は〈放蕩者の茶会〉については、それくらいのことしか知らない。麟太郎やテルオから聞いた噂話程度だ。正直、どうでも良い話だった。
あ、でも、他に何となく覚えていることがあると言えばある。〈放蕩者の茶会〉には、ダンディでハイスペックな猫人族のオジサマがいたりとか、おパンツ大好きなお兄ちゃんがいるだとか、腹黒だけど実は隠れロリコンな眼鏡男子が参謀をやってるだとか。
……最後の眼鏡男子については、もし本当にロリコンなら仲良くなれそうだ。彼が年上だとしても。
まぁ、あくまでも噂なんだけどさ。
「……〈放蕩者の茶会〉に、何か思い入れでも?」
本当なら、何気ない質問だとしても、こういうのは聞かない方が良いのかもしれない。でも、僕の口からは、反射的に浮かんだ言葉がこぼれ出てしまった。
そんな僕の質問を耳にして、フロイドさんは小さく首を横に振ると。
「眩しすぎる憧れ。それだけだよ」
そう言いながら、どこか寂しげに瞳を細めた。それはどこか諦観のようなものにも感じられて。
「それだけさ」
けれども、次の瞬間には元の顔に戻っていて、彼の中ではもう終わってしまったことのように見えた。
きっと、本当にそれだけでしかない話なんだろう。
「んっ……」
思い出したように、マグカップを呷る。中に入っていた紅茶は、ちょっとだけ温くなっていたけど、味は落ちているようには思えない。冷めたらどうなるんだろう。
それにしても、眠気がなかなかやってこない。気分が高揚していたから、それを落ち着かせようと夜風にあたりに来たのに、ちょっとしか収まってない。
ナナとスアンさんは、僕らが屋上に行く前に寝てしまった。今は、同じベットの中だ。
諸事情につき、スアンさんが股間を露出したことで、僕らは彼が彼女になっていることに確信を得た。あれは不幸な事故だったけども。
……寝間着なんて、いつ買ってたんだろうか。いやいや、それ以前に、僕とフロイドさんの目の前で脱ぐなよ。痴女なのか。元男だけど。
とまぁ、そんなこんなで、ナナをスアンさんに任せても問題ないんじゃないかと思えたわけで……ついでに、二人もそこそこ仲良くなったっぽいので、二人して同じベッドで寝ているという感じだ。
一応、元男だから、スアンさんがナナに何かしやしないだろうか――なんてことも考えはしたけれど、フロイドさんに色目というか好意を寄せてるようだったから、大丈夫っぽいと判断した。
そんなわけで、今の二人は、同じベッドで安眠中だ。
本当は、僕がナナと一緒に寝たかったんだけど止めた。僕はともかく、ナナは疲れてそうだったし。
……今日出会ったばかりの知り合いが、近くにいる中でセックスするのはレベルが高すぎる気もしたし。
(――ナナ、か)
ふと、僕は彼女のことを考える。彼女の何かを恐れるような目と、セックスした時の生々しさを思い浮かべる。
MMORPG〈エルダー・テイル〉にそっくりな世界。ゲームと同じように、〈大地人〉と呼ばれるNPCたち。
たかがNPCで、本当は紛い物。そう考える方が、自然なのかもしれない。少なくとも、僕らとNPCは、〈冒険者〉と〈大地人〉に区別されているのだから。
――けれども、あの生々しさは確かなものだった。
(今の僕にとって、一つだけ確かなことが言えるとすれば)
会話も、セックスも。
ナナが見せてくれた微笑みも。
もし、それらが紛い物かもしれないと片隅で思ってしまったら、そんな思考はとっととゴミ箱に捨ててしまおう。
――ナナが、『ここにいる』ってことを、僕は信じることにしたから。
そうやって、僕が物事に耽っていたせいか、沈黙が僕とフロイドさんを包み込む。
ちょっとだけ静寂に耐えられなくなってきて、冷めて温くなってしまった紅茶を一気に呷った。
紅茶は、充分に温くなっているのに、渋みが目立つことなく飲み切ることが出来た。……機会があれば、また飲みたい。
「そういえば」
ふと唐突に、フロイドさんが呟くように言った。話を変えるためにというか、要件を思い出したといった風だ。
僕は、何のことかと、何気ないことを訊くようなつもりで、彼の方に改めて意識を集中し始めて――。
「――切羽詰まっていると言えば、君もかな」
フロイドさんの口から出た、その言葉に。
意識が、凍った。
明日の夜0時に、第一章のエピローグも投稿します。
次の話で、一区切り。
もうちょっとお付き合いください。




