【私の戻る場所】
海鳥の鳴き声で目覚めた朝、
私は、まだ深い眠りの中にいる彼をベッドに残し、
レースのカーテンを少しだけ開き、
夜明け前の薄暗い海を、見つめている。
波打ち際に、白い波頭だけが見えては消えて
単調な波音が、耳に優しく届いて来る。
犬を連れた初老の男性が、ゆっくりと砂浜を歩いて行く。
時々、立ち止まっては犬に何か話しかけ、また歩き始める。
男性が犬の歩調に合わせているのか、犬が男性に合わせているのか…。
男性の足跡と蛇行した犬の足跡が、白い砂の上に仲良く残っている。
このホテルの、東向きの窓から何度となく目にする光景だ。
籐の椅子に座り、朝日が登るまでの間
窓の外を眺めるのが、
私のお決まりになっている。
生まれ立ての太陽が、真新しい光を放ち始める頃、
目覚めた彼が、重たげなまぶたを、無理にこじ開けながら、
コーヒーカップを片手に、近づいて来る。
向かいの椅子に座り、
ひと口だけ飲んだ後、
苦そうな顔をして、
私にカップを差し出し、
寝ぼけ眼のまま、タバコに火を点ける。
一回、二回と火を点けてはいるが、
タバコの先とライターとは、
握りこぶし一つ分ほど離れていて、
一向に火が点かない。
頭の中は、まだ半分寝ているのだろう‥。
まるで火の点いたタバコを、吸ってるように頬をへこましている。
そんな彼の仕草が、何度見ても可笑しくて、クスクス笑ってしまう。
私は暫く見てから、
タイミング良くライターの火を、
タバコの先に近づけてあげる。
彼は、くわえタバコのまま、
青白い煙をくゆらせながら、
水平線から離れ始めた太陽の光を、目を細めて見ている。
私はカップから立ち上る湯気の向こう側に
朝日に染まる景色と、
くわえタバコの彼の横顔を見つめている。
二人の間に漂うコーヒーの香りとタバコの匂いが、
彼と迎える朝を実感させてくれる。
昨夜の心地良い疲れ感じながら、朝日を浴びるこの瞬間、
そして、寝ぐせのついた髪の彼が、
直ぐ目の前に居る事に、自然と心が安らいで、笑みがこぼれて来る。
熱い夜を過ごした翌朝の、
二人だけで過ごす静かなこのひと時が、 私は大好きだ。
遠距離恋愛中の彼と付き合い始めて、次のクリスマスが来れば二年を迎える。
大阪から新幹線と電車を乗り継いで、ひと月に二回か三回 私に逢いに来てくれる。
付き合い始めた頃は、もっと逢いたい、何時も一緒に居たいと思う事もあった。
遠距離恋愛だから仕方ないと自分に言い聞かせているうちに、
これが私達の恋の形なんだと思う事が
何時しか当然のようになっていた。
金曜の夜と土曜を丸一日 日曜の夕方まで、
彼と過ごす時間は、贅沢と言えば贅沢過ぎるのかもしれない。
しかし最近、この関係を何時まで続けなければいけないのか、
いざ彼と暮らす事になったら、上手くやっていけるのか、
不安に思う事が多くなって来た…。
お互いに、広告代理店で働く二人、
ある仕事の打ち合わせがきっかけで、知り合った。
何度か逢って話していくうちに、
似たような環境で働いて居ると知った。
二人共、平日は夜遅くまで仕事に追われながらも、
休日は、綺麗な景色を観に行ったり、
風情ある街並みを散策する趣味が、共通していた。
付き合うようになってからは、なるべく金曜日には残業を入れないようにしていた。
話し合って決めた訳ではないが、
なるべく同じ時間を過ごす事を二人が望んだ結果の表れだった。
まだ結婚を意識しては居なかった私に、
昨夜 彼からプロポーズされた‥。
いつかはプロポーズされると感じていたが、
まだ先の事だと思っていた私は、素直に返事が出来なかった。
嬉しいと言えば、嬉しいし、
もう少し、このままの関係で居たいと思えば、その通りだった…。
彼には、正直な気持ちを打ち明けた。
そうか…。
彼は、一言だけそう言って、特に動揺しているふうには見えなかった。
断った訳でも無く、承知した訳でも無い私の態度は、
彼にはどの様に見えたのだろう…。
また何時ものように、日曜の夕方に東京駅で彼を見送った。
私の中で プロポーズされた事と、
結婚はもう少し先でも良いと言う気持ちが、
頭の中を交互に行き交い始めた。
ただでさえ、平日は仕事に追われて居るのに、
私的な悩みで、私自身どこかストレスを感じ始めていた…。
仕事にも身が入らなくなり、
普段なら絶対にしないようなミスを繰り返してしまった…。
思い切って退職届けを出した。
上司は、退職では無く長期休暇を薦めてくれた。
彼にも、その旨を話した。
電話の向こうの彼は、驚いた様子だったが、
一人でゆっくり旅でもすると良いと言ってくれた。
ある程度の貯えはあったし、
彼も旅行の費用を負担してくれると言って、お金を送ってくれた。
いつかは、世界を旅してみたいと思っていた私は、
トランクに荷物を詰め、成田に向かった。
彼は旅立つ私を、見送りに来てくれた。
明らかに私を心配してる雰囲気が、伝わってきたが、
気をつけて行っておいでと、
ゲートに向かう私に、笑顔で手を振ってくれた。
私は自分自身を、見つめ直す旅に出た。
機内に入り座席に着いた。
一番外側の窓際の席だった。
久しぶりの搭乗で、離陸の時に、ちょっとドキドキしたけど、
機体が水平飛行になる頃には、落ち着いて来た。
小さな窓から、目の前の白銀の翼と青い空を見ていると、
これから旅する国に対する期待感が、私自身に元気を与えてくれた。
しかし、その反面
隣の座席に彼が居ない事に、
淋しさを感じていた…。
シンガポール インド、
スペイン、イタリア、エジプトなど、
約2ヶ月の間で、様々の国を、のんびりと旅行して、
世界的に有名な観光地の美しい景色、
その国々の文化や歴史、住民の営みや、暮らしの佇まいを見て廻った。
確かに、その時その場所で胸が膨らむ感動や、
感慨深い思いに浸る事もあった。
しかし、何時もどの場所に行っても、何かが足りなかった。
旅が長くなるに連れて、綺麗な景観を目にする度に、
彼にも見せてあげたい、彼と一緒に見たかったと思う気持ちが、強くなっていった。
サハラ砂漠で夕陽を見た時、私はふと感じた。
どんなに綺麗な景観でも、彼と見たあのホテルの窓から見る景色には、劣っていると…。
彼がそばにいたから、
彼と一緒に見たから、
あの朝日が最高に綺麗に見えたのだと…。
あのホテルの、あの部屋でしか味わう事の出来ない安心感に包まれて見る朝日だから、
最高に綺麗に見えたのだと…。
そう思ったら、今まで楽しんで来た一人の旅行が、急に淋しく感じて心細くなった。
翌朝、私は日本に向かっていた。
成田に着き、空港のロビーで待つ彼を見つけた。
彼の何時もの微笑みを見た時、涙が溢れ出し、
気がつくと、広い胸に飛び込んでいた。
彼は、強く優しく抱き締めてくれた。
私が戻って来るのは、
彼の胸の中だと思うと、涙が止まらなくなった。
彼の体に、力一杯しがみついた。
彼は、そんな私に包み込むように、問い掛けて来た。
「何処か、素敵な教会は在ったかい?」
私は、グスングスンと鼻を啜り上げながら、
「エーゲ海を見下ろす小高い丘に、
小さな白い教会が在ったわ。」
と応えた。
それが、私のプロポーズの返事だった。
その一言で、彼が理解してくれた事は言うまでも無い。
ロビーの大きなガラス窓には、
見つめ合った私たちが、映っていた。
窓の向こう側には、また一機 また一機と
夜空の輝く星に向かって、
飛行機が飛び立って行くのが見えた。
春 野風