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満月と岩になったおじさん

作者: 丸屋嗣也

偉大な童話作家、G・ロダーリに捧ぐオマージュ。

 わたしが五歳のとき、わたしのおじさんは岩になった。

 それはとつぜんのことすぎて、母さんもわたしもすぐにはのみこむことができなかった。ある日めざめると、おじさんは庭で岩になっていた。まるでたけのこのように前触れなく庭にあらわれた岩に、わたしも母さんも目を回したのだけれど、そのうち、その岩がいろいろあってわたしたちの家に転がり込んできたおじさんだということに気づいた。それに気づいたとき、母さんが『あの子、昔から何かあるとすぐ自分の中にひきこもっちゃう子だったから』とほほに手をやっていたすがたがいまだにまぶたの裏にのこっている。母さんのそのやさしげでかなしげな顔は、雨の日にとつぜん都会からもどってきた自分の弟――おじさんに向けられたものとおなじだった。

 岩になったおじさんは、ひとこともしゃべらなかった。まんじりとも動こうとしないし、あめがふっても庭に立っているばっかりだった。おじさんはあめが嫌いで、降りはじめると肩をふるわせて、わたしをどかしてでも家の中にかけこんだ、そんなひとだった。だというのに、岩になったおじさんはそんなこともわすれてしまったのか、雨に打たれるにまかせていた。

 そんなおじさんに、わたしは小屋をつくってあげた。何年か前にしんでしまったハチの犬小屋をつくりかえた。もういない父さんがのこしたトンカチとノコギリをつかっておおきくつくりなおして、おじさんのあたまの上にやねをかけてあげた。おじさんはそれでもなにもいわなかったけど、わたしはそれでまんぞくだった。

 わたしも、そして、母さんも。おじさんが岩になった、ということをすぐに飲み込んだ。しばらくしたころには、

「あの子が岩になるのはうんめいだったのよ」

と、母さんが言うくらいだった(母さんは、「うんめい」という言葉がむかしから好きだった)。

 やさしいおじさん。わたしといっしょに図鑑をよんでくれたり、おりがみをいっしょにしてくれたおじさん。雨の日には、いえのすみで毛布をかぶってぶるぶるふるえていたおじさん。一日ひまそうにあたまをかきながら町をぶらぶらしていたおじさん。わたしの友達にもにんきだったおじさん。そんなおじさんはもういない。でも、岩になってしまったおじさんは、それはそれで好きだった。

 きっとそれは母さんもそうだったんだと思う。母さんはいつも、夜に飲むワインを二つのグラスに分けて、おじさんに一方をあげて、じぶんはその脇で飲んでいた。

「いいな、わたしにもちょうだい」

 そう言うと、母さんは顔をしかめたものだった。

「これはね、大人になってからじゃないと飲めないものなの。十五年早いわ」

 母さんがかたむける、グラスの中に光る赤い飲み物。そして、物言わないおじさん。月明かりの下、庭に立つおじさんと母さんは、まるでよその世界の王子様とお姫様のようだった。


 わたしが十五になったとき、母さんは頭を打った。

 ささいなことだった。どうやら、母さんは高いところにあるまな板をとろうとして、イスに乗って手をのばしたらしい。でも、そのイスの上でバランスをくずして床におちた。

 わたしはそのとき学校にいた。家には、おじさんしかいなかった。でも、おじさんは声を出すことはできない。なにせ岩なんだから。むしろ、声なんかだしたらおおさわぎになるだろう。

 見つかるのがおそすぎた。わたしが母さんをみつけたときには、かなりまずいことになっていた。びょういんへ急いだのに、母さんはそのまま、ずっとびょういんからでてくることはなかった。

 ある日の月明かりの夜、わたしは岩になったおじさんのよこに立った。

「ねえ、おじさん。あのとき、なにがあったの? どうして母さんはああいうことになっちゃったの?」

 たぶん、おじさんは母さんがイスからおちるところを見ている。

 でも、おじさんは答えてくれなかった。

「ねえ、おじさんってば。昔みたいに話してよ。それとも、ほんとうに岩になっちゃったの?」

 いつものわたしなら、ふーん、そういうたいどなら聞かないもんね、とかんがえなおすことができた。でも、この日にかぎってはそうはいかなかった。たぶん、今にして思えば、月明かりのせいだ。

 子供のころにみた、母さんと岩になったおじさんとの晩酌。こどもながらに、あれはまるで母さんとおじさんがしゃべっているみたいだ、と思った。もしかして、岩になってしまったおじさんは、月明かりのある時だけはしゃべることができるんじゃないか。そんな気さえしていた。

 でも、月明かりのしたでも、おじさんは物言わぬ岩だった。

 それが、おそろしく悲しかった。

 その日を境にして、わたしは庭の岩をおじさんだとおもえなくなった。毎日おじさんの体を磨くのが日課だったのに、わたしはそれをやめた。わざわざ岩にそんなことをしてやるいみもない。そのうち、岩はこけがむしてきて、緑色のおおきななにかになった。

 そして、わたしが十八になった春、病院でずっとねていた母さんは、めざめることなくしんだ。家にもどってきた母さんは、小さな小さな壺になっていた。おそうしきがおわったあと、一人、わたしはその壺を抱きしめてみた。でも、子供の頃に感じた母さんの体温は、もうそこにはなかった。

 あのあったかいものは、いったいどこに行ってしまったのだろう――。

 月明かりの下で、わたしは一晩をかけて泣いた。岩は、庭の真ん中にぽつんと立つばっかりだった。

 母さんに言わせれば、ここで母さんがしんだのは「うんめい」なのだろう。でも、その「うんめい」とやらを受け止めることがどうしてもできなかった。


 わたしは三十五になった今、母さんとすごした家へかえってきた。

 ほんとうは、かえってきたくなかった。でも、都会での暮らしにつかれてしまった。

 母さんがしんでから、わたしは都会に出た。都会の隅っこにあるちいさなこうじょうではたらいて、そこで知り合った男の人とつきあって、メロドラマみたいなこいをして、いっしょういっしょにいようね、と約束した。

 その約束をした相手はほんとうにいい人だった。でも、そのひとは、よわいひとだった。都会でのせいかつにながされるうちに自分をなくしてしまった。さいごのころには、笑うことさえなかったようにおもう。

 そうしてあの人は、わたしを残してたびだってしまった。

 のこされたわたしは、とにかくぼうぜんとしてしまった。あの人とのくらしのことしかかんがえていなかったわたしは、なにもかんがえることができなくなっていた。

 そうしてきづけば、わたしは母さんとすごしたいなかへの電車にとびのっていた。

 でも、いなかにかえったからといってどうなるというのだろう――。

 もう、母さんとすごした家は人手にわたっているはずだ。きっとあの家はだれかみたこともないひとの家になっていることだろう。もしかしたら、建物さえももうつぶされて、ほかの家になっているかもしれない。それどころか、駐車場になっているかもしれない。

 なつかしいいなかにもどってきてもなお、わたしは心が休まらなかった。遠い旅路をへて、もう外は真っ暗だった。それもこころぼそくって、なんだかこわかった。

 懐かしさなんてない。あるのはただ、じぶんのしらないまちにきてしまった、というよそよそしさだけだった。

 と――。

 ある通りを曲がったとき、わたしは、あ、と声を上げた。

 ここは。

 それから、わたしは走った。あっちのじゅうじろを右に。あそこのていじろを左に。そうやってわたしはきおくをたぐりながらおもいでのなかを走って行った。

 そうして、わたしはある家の前で足を止めた。

 見間違うはずはない。そこは、わたしと母さんの家だった。

 でも、人の影はない。みれば、屋根もそうとう傷んでいるし、玄関までの入口も草がぼうぼうにはえていた。それどころか、木の門もほとんどくさりおちている。間違いなく、誰も住んでいない。

 わたしは、こわれかけた木戸をおして、家の中に入った。

 あの頃のままだった。もちろん、こわれかけた家やぼうぼうの庭に見る影はないけれど、見上げた月はわたしが小さい頃のままだった。

 そんな月に誘われるようにして、わたしは表庭にまわった。

 と、そこには――。

 やっぱりあの頃のまま、岩があった。

 草の間に埋もれるようにして立つ岩は、いつのまにかわたしよりもちいさくなっていた。

 ああ。

 小さくため息をつく。すると――。

 ふと、岩のわきに置かれたテーブルに目が行った。真っ白なテーブル。その上には、まるで今日の夜にみがきあげたかのように綺麗な二個のグラスと、まだ開かれていない赤ワインがあった。

 そんなことが――。

 ワインのボトルを手に取った。そのとき、ワインのコルクがいきおいよく外れた。ぽん、と音を立てて。

 ああ、もしかすると、赤ワインをここで飲むのが「うんめい」なのかも――。

 わたしはワインをグラスに注いでみた。混じりけのない真っ赤なワイン。月明かりに照らされたそれはひどくきれいだった。二つのグラスに差してやると、一方を岩の上にのっけて、もう一つをてにとった。そして、そのまま飲み干した。あの頃の、母さんのように。

 すると――。

「おい」

 懐かしい声が耳に入る。でも、さいしょ、きのせいかとおもった。でも。

「おい、聞こえてるだろ」

と重ねて云われて、ようやくわたしは声がきのせいでないことにきづいた。

 その声の主は、岩だった。

 何か用? そう訊くと、岩は云った。

「お前、どうしてここにいる? 都会にいったんだろう?」

 いろいろあってもどってきちゃった。そう答えると、岩はうなった。

「そうか。そういえば、おれもそうだった。都会はいいところだけれど、おれにとっては苦しいところだった」

 わたしはこらえきれなくなった。

「ねえ、なんで岩になっちゃったの?」

 しばらく、岩は何も言わなかった。でも、考えがまとまったのか、のっそりとくちをひらいた。

「たぶん、何も考えたくなくなったんだ。いろいろありすぎて、何も考えたくなくなった。しゃべりたくもなかったし耳も塞いでいたかった。くさいものの匂いをかぎたくなかった。そうして気づけば、岩になっていた」

「そうなの。実は、わたしはいま、そうなりたいの」

 つつみかくさない本音だった。

 喋りもせず聞こえもせず匂いもかんじない、何も考えることもない岩。そんなものになりたい。

 もしかすると、わたしがここに戻ってきたのは、そういうふうな生き方を選んだおじさんに、その生き方を教わりに来たのかもしれない。そんなことにいまさらきづいた。

「岩、か」おじさんは云った。「でもな、いいことばっかりじゃあない」

「え」

「おれはな、目もなくして耳もなくして口もなくした。だから、何もかんじることができない。だから、お前の母さんがしんだときも、何も感じることが出来なかった。ああ、しんだのか、って思っただけだった。ほんとうは、おまえみたいになきたかった。もう、おれはなくことさえわすれてしまっていたし、そもそも目がないからなみだもでない。それに、おまえが都会に行くって決めた時。おれはおまえをとめることができなかった」

 おじさんは、岩になる前から、さびしんぼうだった。おじさんは、岩になったのに、それでも人とのつながりをもとめつづけた。そういうことなのだろう。

「おまえは、岩になっちゃいけない。その目でいろんなものを見て、その耳できれいなことばもきたないことばも聞いて、いい香りもえぐい臭いもかいで、その口でさけびつづけろ。たぶん、おれがいえるのはそれだけだ」

「そう」

 わたしたちのあいだに、風がふきぬけた。その風はまるで、母さんのぬくもりのように温かで、おもわずなみだがでた。

 わたしは手に持っていたグラスをテーブルの上においた。

「いくのか」

 おじさんのことばに、わたしはうなづいた。

「もう、いく」

「それがいい」

 じぶんにいいきかせるようにそういうと、おじさんはもとの岩にもどった。それからいくら問いかけても、もうおじさんはなにもしゃべりだそうとはしなかった。

 岩になってしまったおじさんに、わたしはあたまをさげた。

「さよなら、おじさん」

 きっと、おじさんは、これからもずっと岩として生きていくのだろう。くちかけた廃屋の庭にある、大きな岩として。人とのかかわりをさけながら、それでも人とのつながりを求め続けて。

 もう、おじさんはなにもいわなかった。

 満月だけが、真っ暗な空の上でわらっていた。


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