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神殿内での騒ぎが始まると同時に外へと逃走した男は、広場の雑踏を通り抜け正面向かって右手の森の中へと入った。
この森は、ここにウォーム神殿を建てる以前から自生していた草木を、そのままそっくり残している。
自然神であるウォームの性格を考えて、ロンダヌス初代の大神官が森を残したためだった。
森の裏手は緩やかな崖地。ウォーム神殿は、小高い丘の上を平に削って建てられている。そのため、西大通りはなだらかな坂道になっていた。
太古から生きているであろう大木の陰へ身を隠すと、男は周囲に人気が無いのを確認して懐へ手を入れた。
フード付きの外套の内ポケットから取り出したのは、先程奪取した魔法石である。
盗難直前には赤い光を発した石は、今は穏やかな白い光を帯びている。
光の色を確認し、男はふっ、と笑いを漏らした。
「どうやら、大神官の手を三百年振りに離れたな」
神殿内に安置されていた時は、卵色の光を放っていた。
それがどうして赤くなり、また今度は純白の光となったのか。
男は石を手の中で二、三度転がす。
「それにしても、思っていたより小さい。これではろくに用はなさないな。……やはり一番大きなかけらを盗らねば駄目か」
呟くと、男は再び魔法石を懐へ終った。
その時、すぐ近くで落ちた小枝を踏み締める音がした。男は素早くそちらを振り向く。
と、十歳くらいの少年が、灌木の影から彼を見ていた。
男は少年の方へ首を向けたまま、ゆっくりと被っていたフードを外した。
現れたのは、褐色の肌に赤い瞳、銀の髪をした端正な、しかし氷のように冷たい雰囲気の面立ちだった。
美しい盗賊は、彼の美貌に見蕩れたのか、動かない少年の側へ二歩三歩と近付いた。腕が届く距離まで来た男は、少年の細い顎に長い指を掛けた。
「名前は?」
「……アロウ」
少年は震える声で答えた。男の赤い瞳が、冷たく微笑む。
「ではアロウ、君はここで私と出会った事を、誰かに話してはならない。話せば、即座に君の命は無い」
幼いながら、アロウは男の言葉の意味を理解したようだった。夏の暑さで薔薇色だった顔色が、みるみる蒼白になる
「……どうして?」
それでも、果敢に聞き返したアロウに、男はくくっ、と喉を鳴らす。
「いい質問だ。それは、私が魔導師だからだ。七賢者を凌ぐ程の力のある私には、側に行かなくとも君の名前だけを使って君に死の呪文を掛ける事が出来る。……嘘だと思うなら、やってみようか?」
少年は、押さえられたままの頭を弱々しく振った。
男はもう一度微笑んだ。
「いい子だ。では行きなさい」
アロウの顎から男の指が外れる。
少年が転がるように森の出口へと走り去るのを見送って、男は小さく呪文を唱えた。
途端、小規模のつむじ風が男の身体を包む。
渦巻く風は地面に落ちている木の葉や小枝を巻き込み中空へと巻き上げる。
高みへ持ち上げられた枝が、数秒後、不意に力無く地面に落下して来た。
森の中が再び初夏の湿った空気と静寂を取り戻した時、男の姿は無くなっていた。




