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通行証が予定通り取れたので、一行はその足で昨日パッドが見付けたという町外れの廃屋へと向かった。
規模や建て方から、相当な金持ちの別邸であったらしいと推察出来る廃屋は、どういった理由でかかなり以前に人が住まなくなったようで、屋根と壁の一部が崩れていた。
一同はクレメントを先頭に、外壁が崩れて出来た入り口から、来客用の食堂であったと思われる、広い部屋へと入った。
磨かれた白木の床板の一部を足で軽く叩き、強度と材質を確かめると、クレメントはアーカイエスに訊ねた。
「ここでいいと思うのですが?」
「ああ、問題ないだろう。……では私は北門へ向かおう」
スピルランドの元宮廷魔導師は、真名を持たない二人、シェイラとパッドを振り返った。
「君達二人は、申し訳ないが私と飛翔の魔法で移動してもらう」
「仕方ないわね。くれぐれもまた酔っ払わないように気を付けるわ」
シェイラが顰めっ面をしたのを見て、パッドは不安になった。
「飛翔の魔法って、酔うんですか?」
「魔法慣れしていないとね」
「うわっ、どうしよう……」
動揺するパッドに、アーカイエスは冷ややかに言った。
「迷っている暇も時間も無い。行くぞ」
魔導師は長い中指と人さし指をシェイラとパッドへと向けると、くるりと回した。
途端、小さなつむじ風が三人を包む。
「うわあっ!」
初めての経験に思わず上げたパッドの絶叫だけ残して、三人は風に巻き上げられカスタの大門へと消えた。
魔法で消える彼等を見ながら、ジェイスはあれで酔った時の気持ち悪さを思い出して、思わず口に手を当てた。
パッドのあの様子からすると、向こうへ到着した途端、間違いなくジェイスがそうだったようにひっくり返るだろう。
気の毒に、と大男は心の中で手を合わせる。
青年に同情するジェイスの隣で、クレメントは至って冷静に、生成りの上着の内ポケットから徐に魔法陣を描いた羊皮紙を取り出した。
現在は食卓も無い食堂の真ん中に、辛うじて残っていた猫足の丸い配膳用の卓の上の埃を払い、紙を広げる。
次に、またポケットから携帯筆記具を取り出すと、卓の上に身を屈めた。
「では、ジェイスからいきますか」
可哀想な神殿騎士と友人の行く末に気を取られていたジェイスは、何を言われたのか一瞬ぴんと来ず、ぽかんとして相手の美貌を見詰める。
「真名です」
「あ? あ、そうか。悪い。で、どうするんだ?」
「この部分に、書き込んで頂けますか」
ジェイスは筆記具を受け取ると、クレメントが指差した部分に自分の真名を書き入れた。
「ニーナミーナ?」
促されて、ニーナミーナはジェイスから筆記具を受け取る。
「区切りを示す紋様の後ろから、入れて下さい」
ニーナミーナが書き終わると、筆記具はララに渡された。
ララが書き終えると、クレメントは最後の部分に自分の真名を書き込み、筆記具をポケットへ仕舞った。
インクが乾いたのを確認して、羊皮紙を卓の上から取り上げた。
「まず最初に申し上げておきますが、皆さんの真名と聖名を書いて頂きましたが、これはあくまでも一時的なものです。昨日もお話しした通り、魔法陣を各々が通過した後は、この真名は自動的に消えます。
それから、真名は字面だけ分かっていても呪詛などには使用出来ませんので、幾ら僕が魔力があっても、ここに書かれた文字の発音の仕方を知らない限り、あなた方を呪う事は出来ません」
「わあかってるわよっ! ここに居る誰も、クレメントが自分を呪うなんて考えてないわっ」
ニーナミーナの、予想した通りの反応に、クレメントは苦笑した。
「はい。僕もそうは思ったのですが。一応ご説明までという事で」
では行きます、と前置きを入れて、クレメントは呪文を唱え始めた。
「——いにしえの理にて成されたる形象、その契約に従い我が足下に光の印を刻め。造形照印」
羊皮紙に描かれた魔法陣が、金色の光を発する。光は紙を貫き、真下の床面に拡大照射する形で落ちる。
やがて光が消えると、それまで羊皮紙に描かれていた魔法陣が人が一人入れる大きさに拡大され、床に移っていた。
「凄え。こんな事出来るんだ」
感心して床にしゃがみ込むジェイスに、クレメントは苦笑する。
「いちいち床に描いていたのでは面倒ですし時間も掛かりますから。……では、真名の順に中へ入って下さい」
言われた通り、ジェイスが最初に魔法陣へ入る。
たちまち、円内に描かれた紋様が反応し白い光が上がった。
光はジェイスの全身を、篭状に包み込む。
感覚は、コルーガ山地の神殿からロレーヌまで魔法陣で飛んだ時とほぼ同じだった。
ややあって視界が白一色に変化した。
真っ白な靄の世界が、次の瞬間には別な色が目に飛び込んで来る。
今回は、どんよりと重い灰色の雲の塊だった。
ジェイスは、カスタの首都アレルの北側大門の上に、立っていた。