5章
~岩屋村 集落内~
山から下ってきた幻十郎、和泉の両名。集落まで戻ってきた頃には日も落ちかけ夕闇が辺りを支配しようとしていた。
「浅岡宅へ向かう。そこで出来る限りハルちゃんを遠ざけたい。万が一に備えても言い方は悪いがある程度の監視の目もつけておきたい。着き次第、和泉はハルちゃんと村長宅へ退避してくれるか。幸いこの村に逗留中は俺たちの寝床として使っていいと言ってくれているしな。ハルちゃんの事は事後承諾になるがまぁ了承してくれるだろう」
幻十郎は集落の道を浅岡宅へ向かいながら、進む方向を見据え、和泉を見る事無くこれからの行動指針を示す。
「わかりました。……ハルさんには何と伝える事が出来るでしょうか」
幻十郎の後方を続いて歩く和泉はその指針に対し、了承しつつも浅岡ハルに対しこれから起き得る事。それも最悪の事態に発展した際、それをどの様に説明すればいいのか。逡巡する様な言葉を続けた。
「そればかりはそうなった時にハルちゃんの中で飲み込んでもらうしかねぇ。……辛い状況には変わりねぇが、だからといって放っとく訳にもいかねぇさ。そんな真似しようもんなら一月と経たずにこの村は廃墟になっちまう」
「……そう……ですね。異聞討滅というものがこの様に苛烈な判断を下さないといけないとは、恥ずかしながら考え及びませんでした。ただ異形を斃せばそれで良いのかと。踏み込んで言えば害虫駆除の延長程度に考えていました。……恥じ入るばかりです」
和泉はその様に幻十郎に返した。登山口、村民の殺害現場でも話していたように和泉にはまだまだ経験が浅い。異聞の生態、その知識においては幻十郎には到底及ばない。……どの様な仕組みかは和泉にとってまだまだ理解に及ばないが……異形と……浅岡正治……そこには強い関連がある。……そして異形を屠るには……浅岡正治その人を何らか“斃さねばならない”。そういうものだと、自分の仕事は時にそういう場面に立ち会うものだと和泉は初めて理解した。そういう理解の返答となったのだった。
「お前はまだまだこれからだ。もっと経験を積め。お前が、お前自身が今回の判断を下さなけりゃぁならねぇ時もいつか来る。その時躊躇う事など無い様に。躊躇えば必ず何かを失う。それはお前の命かもしれねぇ。お前の一等大事な何かかもしれねぇ。……そういう事だと言う事を能々理解し胸に刻んどけ」
歩きながら和泉を見やること無く幻十郎はそう訓示した。和泉からは幻十郎がどの様な表情でそれを伝えてくれたのかは窺い知る事は出来なかった。ただ、言葉の発する重みは重々伝わり幻十郎の背負っている“何か”は如何に重く軋んでいるのか。能々理解する事が出来ていた。
歩く歩幅、その速さも幾分と速くなっていく。
幻十郎は浅岡宅の戸を叩く。日に二度の訪問となっていた。戸の奥からハルが応対の為出てきていた。
「あぁ刑事さん。いかがされました」
「おおハルちゃん、何遍も済まねぇな。その、済まねぇが正治さんと二人で話がしたくてな。また寄らせてもらった」
「兄様と……? ですか。ええでしたら中へどうぞ」
朝の応対もあり、ハルも特に抵抗なく幻十郎らを中へ招き入れる所作をする。
「ああ、ありがとよ。ただ、少し話は長くなりそうでな。そこでハルちゃんには今日はこの和泉と共に村長宅で一晩を明かしてほしくてな」
幻十郎は浅岡宅へ入る事はせず、軒先にてその様にハルに対して説明をした。その説明に対してハルは若干訝しんだ様な表情になった。
「……それは、どういう事……でしょう」
当然の疑問だと思う。一連の騒動に対し何か追加で話を聞きたいとしても人を遠ざける必要を感じる事はない。朝も同席していたのだ。それを夜半通してというのは随分理解しにくい。そういう疑問がハルの内面に駆け巡ると、以前より心の片隅にあったある種の不安がもたげてくる。本当に兄は帰ってきたのか……。間違いなく彼は兄だ。見間違う事はない。二人支え合い生きてきた。見間違う筈などないのだ。……ただ、漠然とした不安が胸に去来する。1週間も山で遭難していて一つの傷もなく帰ってきた、その歪さに。
「なに、ちょっとした確認なんだ。山に俺と一緒に入ってもらって話してもらって記憶が戻ればという一種の試験みたいなもんさ。昼よりも出来れば夜がいい」
幻十郎は我ながら下手にも程がある嘘だと思いながら説明していた。しかし、彼女の前で正治に真の意味で“問いただして”結果、正治を斃すことになるならあまりにも彼女が不憫だと考えていた。兄妹に話を聞いた後、更に強く思う。……しかし、その様な場合になったとして幻十郎が行動を変える事はあり得ない。だからこそ下手な嘘だとしてもどうにかこの妹をどうにか遠ざけてやりたい。その後の憎悪は全て受ける覚悟の上で、せめて情けをと幻十郎は考えたのだった。
「構いませんよ。ハル。刑事さんの言う通りにしてくれないか」
浅岡宅の居間から正治がその様に言いながら土間に降りてくる。
「兄様……」
「ハル。いいかい? 何も心配する事はないよ。もしも戻るなら、記憶が戻るに越したことはないじゃないか。私自身何が起きていたのかは知りたいよ」
正治はハルが何かに焦燥感を覚えている事を何となしに理解している様だった。その何かは自身の失踪そのものか、それとも自身そのものか……いずれにしても今回の一件が起因する。そういう類のものであることは自然と理解していた。その心配を諭す様にハルに対して話しかけるのであった。
「正治さん、無茶な事言って済まねぇな」
幻十郎はその様に優しくハルを諭す正治に対して、どうにも言葉にならない思いを抱きながらも言葉を投げかける。その思いは臆面にも出さない様に慎重に。
「いえ、今言った通り、私自身知りたいですから、お気になさらず」
「……兄様がそう仰るなら」
ハルは正治の言葉に否定する材料を見いだせず、積極的ではないにしても同意した。事実記憶が戻り、ハルの中に去来するこの焦燥感や不安、モヤモヤといったものが払拭出来るならばそれに越したことは無かった。
「なら、ハルちゃん。早速で悪いが出る準備を整えてくれねぇか」
「……分かりました。では、少々お待ち頂けますか」
幻十郎はハルに対し、支度をする様、促す。承知したハルは浅岡宅内へと戻っていった。
「ハルちゃんの事はこっちの和泉が責任持って村長宅へ送り届けるからよ。何も心配はいらねぇさ」
正治に対し、和泉を軽く指差しながらこの後の事を伝える。
「えぇ、和泉さんよろしくお願いします」
「はい。お任せ下さい」
正治は和泉に向き直り浅く一礼をした。和泉もそれに応じ警察式の答礼で返す。
……10分程度だろうか。支度を終えたハルが浅岡宅から出てきていた。その手には小さな風呂敷を包んでいる。
「では、兄様。少しの間ですが行って参ります」
「ああ、手間をかけるね」
ハルは軒先にて正治に対しお辞儀をしながら声をかけ、正治はそれに手を軽く振り応じていた。「では」と和泉がハルを促す。和泉とハルが連れ立って村長宅へ向かって歩き出す。正治はその背中を見えなくなるまで見送っていた。幻十郎はその様な正治に特に声をかける事無く気が済むまでそうさせていた。
~山中 祠付近~
その後、幻十郎と正治は山へと踏み入っていた。日はとうに落ちきって、辺り一帯は雲間から差し込む月の光で辛うじて認識出来るといったところだった。月は高くにあり夜も深まりだした頃といったところか。
村民の殺害現場から程遠くない所、幻十郎と正治が連れ立ってやって来ていた。幻十郎は服の内ポケットから煙草とマッチを取り出しマッチに火をつけ煙草を燻らせる。これから始める事に対して何か一区切りをつけたいのか、一度大きく吸い込みその煙を吐き出した。正治は穏やかにその場に立っていた。
「済まねぇな。こんな所までついてきてもらってよ」
「いえ、これで自分の記憶が戻るならこれくらいなんて事はないですから。……本当にそうであるなら」
「……そうだな。戻るなら。そうだろうな」
正治の放つ言葉尻に幻十郎は短く同意した。それは双方ともに事ここに至ってそれまでのやり取り、その全てが建前である事を薄ら理解していた者、せめて建前くらいは取り繕おうとした者。どちら共が分かった上でやり取りをしていた事の証左だった。
「……なるほど、やはりそうでしたか。記憶を戻す、そういう事ではないのですね……戻すべき記憶などないのでしょう。薄々と心のどこかに感じてはいてもいざ言葉にして聞くと……私に何が起きたのでしょうか」
その建前というものがいざ開陳された事を以て、正治は本心を吐露していた。心のどこかでは感じていた、今の歪さ、その混乱というものを。
「人を喰らう化け物というのがこの世にはいる。それは人々の畏怖の概念と言ったものがそのまま形を持って世に現れるのが常だ。しかし偶に人と繋がりそれを隠れ蓑の如く跋扈する輩がいる。
お前さんが話した中で出会っちまったモノ、そいつにお前さんが既に殺されているかどうか、お前さんが隠れ蓑にされていないかそれを確認したい。
一つ試験を行う。ただそれは話している通り記憶が戻るかどうかじゃあねぇ。正治さん、お前さんがこのまま生きるか、それとももう“死んでいる”か、それを確認する為の試験さ。」
「……そんな存在がいるのですね。……私自身、自身の存在に懐疑の念は多少ありました。1週間も山をうろついている筈が何もなく帰ってこられるなんて。普通そんな事ない。それでも現にここにいる。こうしてモノを考えている。それは疑いようがないじゃないですか。……私はもう“死んでいる”可能性があるなんて。……そんな馬鹿な事」
幻十郎は機密ではあるものの異聞の正体について説明をした。……例え常人には理解の追いつかない事だとしても何が起きているのかせめてもの情けとして、仮に正治が異聞に憑かれているのならせめて理屈を話してやりたいという一心だった。正治は自身の本心、引っ掛かっていた事そして、自身の有り様にその可能性にふざけていると。そんな馬鹿なと当惑している様子だった。
「ああ……馬鹿げた事さ。……馬鹿げた事その真贋を俺が定める。生きているならそれで良し。“死んでいる”のならお前さんの奥、その背後に居る魔を討つ。それは即ち……お前さんを斃すことにほかならんがな。そうならない事を本心から祈っているさ事ここに至っても……な」
「ハル……それだけが心残りです」
正治は追いつかない思考の中で絞り出したのは妹の事だった。
幻十郎は吸っていた煙草を地面に放り投げ自身の靴底を押し付ける様に火を消し、腰に帯刀しているサーベル、その鞘に一方の手を掛け、もう一方利き手である右手を柄の中央部にやった。両足を大きく広げ体勢を軽く落とす。抜刀術さながらの体勢となっていく。
幻十郎と正治の距離およそ5メートル。幻十郎は体勢を整えているが一足に届く距離ではなかった。しかしそんな事一切構わず幻十郎は己の精神統一に進む。
軽く、短く数度息を吐き出す。通常の呼吸とは少し違った所作だった。連続で吐き出しその連動した所作の最後に大きく息を吸い込み大きく吐き出した。幻十郎の纏う気が一変する。目は鋭く正治を一瞥した。目的の対象を絞り、見据えるかの様な所作だった。
対する正治は動けずにいた。正確には動く事すら許されていない。幻十郎が抜刀の所作に入った段階で自分ではない、何か大きな力が自身の身体を“間借り”して幻十郎に悪意を放っている事を認識していた。
……そうかコレが自分の中に巣食っているのか。私はもう……そんな事を正治は客観視していたのだった。
「この剣閃、太刀筋はお前さんの身体には届かない。もし居るのならあんたの奥底にいるはずの何かを貫く」
幻十郎は体勢そのまま、気を練るが如く不動のまま正治に話しかける。
「破邪の太刀それを以て試験とする」
正治はその言葉、その意味を理解しつつも自身の認識で行けば恐らくは……この後実際の斬撃により斃されるのだろうと。恐怖とも安寧とも分からない不思議な感覚に囚われていた。
(ハル……願わくは、幸せに)
一瞬の静寂が二人を包む。
雲間が切れて月光が辺りを照らす。
一陣の風が森を微かに揺らした。
「……参るっ!」
幻十郎は言葉放ち刹那、脱力していた全身に一瞬にして力を漲らせ神速の抜刀を見せる。伸ばした切っ先を水平に一閃。その銀の剣閃は力を持った風を呼び正治の身体を貫く。
幻十郎の得物。明治期に入り形状こそサーベルとして拵えがなされているものの刀身は西洋式鍛造で作られたそれでは無く日本刀の刀身、刃紋を見せていた。注視すれば見えるが西洋式の拵えなどではなく鯉口と鎺があり抜刀術を扱う事の出来るものとなっている。洋装は外装一遍のみの中身は真正の刀といったところか。
瞬間、正治の今までの柔和な顔から生気が失われ、その身体から霧の様なものが溢れ出る。黒い霧か。その黒い霧は正治との繋がりを残しながらも一定の形を形作る。正治の背後上部に生物の上半身だろうか。霧の密度が上がっていき月光に照らされはっきりとした様相を見せる。
頭部と思われる箇所に角らしきものが2対。上半身の体躯は筋骨たくましい。
さながら“鬼”か。
黒い霧は霧散する事なくその様に形作り鬼らしき影は幻十郎に対し悪意、憎悪その気配を何も隠す事無く無思慮に浴びせていく。
幻十郎の放った破邪の一太刀はなるほど届いたのだろう。最悪の結果として現実に現れた。何らかの仕組みにて正治の中に異聞は居る。その現実として。
「正体、現しやがったな」
幻十郎は揺るがない。抜刀術の所作として残心の後納刀を行い平時の姿勢に戻る。スーツの前ボタンを全て外し、ネクタイを緩める。それまでは儀式的な部分が強かったが、これからは戦闘となるとして態勢を移行させた。
正治らしきものは変わらず正気なくその影が憎悪を飛ばしている。否、
「……嫌だ。まだ生きていたい。死にたくない」
正気は戻らないものの正治の口から抑揚のない、感情の無い声でその様に発した。外部から見る限り身体は影に支配されているのだろう。しかし正治であった部分の出来る限りの叫びの様なものと感じ取れた。
「正治さんよ。お前さんはもうあの日に死んじまってるのさ……化け物共のはびこる奇天烈な世の中ではあるが……死んじまってる者を生き返らせる法というものはねぇ」
穏やかに、諭すように、1人呟く様に正治だったものに話しかける。正治だったものは、幻十郎のその話しかけに反応する様子は無く、先般から繰り返し、繰り返し
「……嫌だ。ハル、まだ生きていたい。死にたくない。いやだ、まだいきていたい、しにたくない……イヤダ、ハル、マダイキテイタイ、シニタクナイ……ハル、イヤダ、イヤダ、イヤダ、ハル」
「ああ、そうだな。妹1人置いていくのは忍びねぇな。心配するな。俺が終わらせてやる。心配するな」
「イヤダ、ハル、イヤダ、イヤダ、イヤダ、イヤダ、ハル」
噛み合わない言葉の応酬にしか聞こえない。が、幻十郎はひたすら優しく言葉を掛けている。幻十郎が一歩一歩正治だったものに近寄る。一足の内に斬撃を浴びせる事の出来る距離まで近づいていく。
「まずは正治さん。アンタを解放してやらねぇとな。一太刀で終わらせるから、何も心配はいらねぇ。……その後は後ろでガンたれてやがるおめぇの相手をしてやらぁな。そんないきり立つな」
正治の正気の無い目を見ながら言葉をかけた後、正治の背後、鬼の影を成しているその影に幻十郎は眼力を飛ばす。静かに、しかし内に闘志を秘めた目で。
幻十郎は改めて抜刀の構えを見せる。先程よりも腰はずっと浅い。平常に立ち姿勢にわずかに腰を落としている程度。鞘に手を掛け利き手で柄を掴む。
幻十郎に逡巡は無かった。
刹那、時が巡った後、全身に力を漲らせサーベルを鞘から引き抜く。引き抜くと同時に正治だったものに対し袈裟斬りを打ち込んだ。打ち込まれた身体は両断され、斬撃を受けた断面からは鮮血が迸る。幻十郎は正治だったものをちゃんと今殺しきったのだった。
「兄様っ!」
幻十郎の後方20メートル程のところから、ここに居るはずのない存在の声が森の静寂を切り裂くように大きく悲痛に響く。幻十郎はゆっくりと後ろを振り向いた。
ハルは口を両手で覆う様に立ち尽くしている。斬撃の瞬間を見ていた様だ。その顔は蒼白となっていた。その目は今にも悲しみの激情が身体を駆け巡りどうにかなってしまいそうなほど渦巻く感情をその混乱を発露させている。
「藤間さん! すみません!」
和泉がハルから遅れて更に後方から現場に駆けつけた。
「御託は後でいい! 異形が現れる! ハルを下がらせろ! 守れ!」
現れた和泉に幻十郎は檄を飛ばす。
「はい!」
和泉は呆然と立ち尽くすハルの肩を抱き後方へ下がらせようとする。ハルは為す術もなく和泉に引き連れられていく。
正治だったもの、その骸から溢れ出る黒い霧。それが一層濃くこの世に進出してくる。霧は影を形作りそれまで現出していた上半身だけでなく下半身をも形作る。姿形が明確に現出した後も黒い霧はそれに流れ続ける。いよいよただの姿形のみではなく現実に血肉を纏った肉体を受肉していく様に霧が血肉に変容する。肌の質感も現れる。浅黒い赤熱色。霧、ないし影は肉体のみならず異聞の特徴として報告されていた武具をも形作っていた。
酒呑童子……今回幻十郎が斃すべき、屠るべき相手が眼前に現れた。