ぱいんあっぷる
浴場は大きく三分割される。始めに大浴場。こちらはさらに体温よりも高いものから水風呂のように低いもの、ひいては電気風呂まで多岐にわたる。次に露天風呂。小さい壺型の浴槽が五つほど並んでいて、隣には星空を天井にした寝湯がある。最後に室内に戻るとサウナがあって、盛り塩から手掴みで体に擦り付けることができる。
業務用のシャンプーはシリコン特有のこきこきした感触があった。沙耶はオーガニックの低刺激に拘りを持っている。頭皮の匂いと髪へのダメージを天秤にかけて、躊躇いつつも手のひらで泡立てることにした。毛穴から昼間の疲労が抜けていく。ポンプ式のシャワーはときどき止まる。
お兄さんは膝でポンプを押し続けている。近くで見ていた女の子も真似して楽しそうだ。
「こら、やめなさい」とお母さんに咎められた女の子は沙耶を見てくる。円らな瞳は日焼けを経験したことのなさそうな輝きを湛えていた。シャワーをかけていくと、水の簾で少女の姿は消えた。駄々をこねる声だけは聞こえる。諦めずにお兄さんの真似をする少女には頑張ってほしいと沙耶は願った。
先に体を洗い終えた知寿の浸かる湯は、リウマチに効くとの触れ込みだ。縁に腰かけていた婦人が立つと、熱い湯に侵された下の部分だけ赤く、紅白模様になっている。知寿は首まで入っているので紅が多いだろう。
三人が輪になった。額にタオルをのせたお兄さんが両手を縁に投げ出してため息をついた。深く長い息は、白い湯気を巻き込んで天井の換気扇へと昇っていく。
「きんもちぃー」
「きむちー」と知寿も復唱する。
「あのさ」
「なに?」お兄さんと知寿がハモる。
「お兄さんじゃないじゃん」
「いや、あたしは妹だよ」
「うん。そうだけど。お兄さんではないよね。ってか今の無茶苦茶だよ。それってとんでもないトートロジーだよ」
「いや、トートロジーではなくない?」
「重要なのはそこじゃなくない?」
「まあまあ、二人とも落ち着きなさいよ。とっても気持ちいいのに、黙って浸かりなさい」
「でも気になるんですよ。お兄さんはどうしてお兄さんなんですか」
天井にたまったしずくが落ちてきて、沙耶の頭頂を跳ねた。白目を剥いて顎を左右に振っているお兄さんには、何を訊ねても無駄な気がした。
「教授がさあ、先輩の頭を踏んでたの。先輩はこう、土下座させられて、しなくてもいいんだけど、した方がいいからするの。それ知ってさあ、やっぱり安心しちゃったよね。しないわけ、ないし」髪をかき揚げたお兄さんが潤んだ瞳でまばたきする。
「厳しいもんねえ。人生かかってるもんねえ」相づちをする知寿は口をお湯に沈めてブクブク泡を吐いている。
「カニかよ」
「カニじゃねえよ」
お兄さんの突っ込みに、人差し指と中指をチョキチョキ交差させてみる知寿が面映ゆそうにしている。沙耶の上気した顔を揶揄されているようで、ますます腹が煮える。
「真面目に答えてよ、ふざけないで」
「カニはヒントかも」
「ヒント?」
「キャンサー。昔そんな小説読んだわ」
オホホホと笑うお兄さんも指をチョキチョキしている。お湯に漂う知寿のタオルを鋏を模した四点で持ち上げて、ゆっくりと浸していく。するとタオルは空気を孕んで膨らんだ。まるで妊婦のようにぽっこりしている。知寿はそれを包み込んだ手のひらをゆっくりと圧縮していく。
「きゃはっオナラじゃん。ほれほれ」
「オナラ、オナラー」とお兄さんも小躍りする。
どうでもよくなった沙耶が露天に向かう。ガラス戸を開けると熱が奪われて震えた。寝転び背中に湯を感じて夜空を仰ぐ。星たちが見下ろす中にちっぽけな沙耶が加わる。知寿とお兄さんが両脇にやってくる。
「怒った?」
頭は冴えている沙耶は無視した。知寿は何度も連呼してくるが、それはうるさい。
「あたしの名前知ってる?」
「稲見じゃろうが」
「お前もじゃろうが。下の名前だバカタレ」
「知りません。もちろん」
「そーだよねえ。友情の徴に教えてあげましょうとくたいし」
「別にいいですさのおのみこと」
「お前に聞いてない」
「ちんげーる」
「その通り、やるじゃない沙耶ちゃん」
「凄いね沙耶は」
「わたしは凄い」
「稲見太郎」
「えっ?」
「嘘ついたことないらしいよ。それこそ嘘じゃんね」
ゲラゲラと笑う知寿がお湯を叩くから、飛沫が太ももに跳ねた。おへそが風に吹かれて寒い。昼間はあんなに熱いのに、沙耶は今日一日が長かったことを悟る。
「隣のマンションでも逃げ出せたほうだからね。もしもあと一年でも浪人してたらヤバかったなあ」
「ありがとうお兄さま」
「そんなときばっかり。調子いいねえ」
夏の空にキャンサーは泳いでいるか。それは日本の空か、それともジンバブエか、どこでもいいけど沙耶には調べてみないと分からないことが多すぎる。
あじさいの咲かなくなった公園で、待ち合わせをする。約束は夜の七時だから八時に来た。夏休みに花火を見た以来、訪れていなかった。アメンボもおらず、沙耶は悲しみを禁じ得ない。ベンチには人影があった。太郎さんだ。
「お久しぶりです」
「ぶりーふ」
「クレヨンしんちゃんみたいなこと言わないでください。太郎節は相変わらずですね」
「沙耶ちゃんも元気そうね」
「元気ですよ、わたしはいつでも。つまらない日々を過ごしているのは幸せな証拠ですし。つまらないのはいいことです。大学はどうです?」
「ぼちぼち」
「すみません、一時間も待たせてしまって。癖になっているんです」
「それって開口一番の台詞じゃない」髪を短くした太郎さんのうなじが青白い。
「まあ癖だから直らないんだろうけど」
「いずれ直りますよ」
「そうだといいけどねえ」
そうだ、と太郎さんがスマホの写真を披露してくれた。清潔そうなベッドに横たわる知寿がたくさんのチューブに繋がれている。
「悪いんですか」
「うーん。過保護なんだよねウチは」
青いナース服で有名な稲見医院は広大な敷地に公園やカフェも併設されている。あじさいの咲いていたこの公園からも眺めることができる。夜なのに、筒型のライトが放つ一条の光が闇から雲を浮き彫りにしていた。
「申し訳ないです」
「なにゆえ」
「一緒に歩いたから」
「逆に知寿でよかったよ。沙耶ちゃんまで入院したら最悪だった。それに半袖だから仕方ないよ。飛んで火に入る夏の虫ってね」
ポケットからアイコスを取り出して、太郎さんは吸う。甘い香りがする。パフュームとは異なるが、沙耶は嫌いではない。
「退院したら何しようか。釣竿忘れたから、車に積んだままにしてるんだ」
「そうですか。秋には何が釣れますか」
「イワナかなあ。ニジマスもいるかもねえ」
「マダニはもうそのころには出ませんか」
「出るかは知らないけど、長袖でしょ、秋だったら」
沙耶は鮮明に覚えている。赤い斑点が三つ。五百円玉ほどのサークルが淡く皮膚の上で染まっていた。咬まれたら、むしってはいけないのだそうだ。ギザギザの口唇が体内に残されて、ウイルスが混じる。
ダニはヒトもサルもイタチもヘビもカエルもお構いなしに吸血するから、様々に媒介するものがある。
害をなす物質が静かに知寿を蝕む。ほんの少しの量なのに、ベッドに横たえさせる力を持っている。病は恐ろしい。人間が懸命に保っている均衡を容易く破ろうとする。
「闘いですね」
「だからあたしも頑張らなくちゃ。すぐにはできなくても、この気持ちは将来を支えてくれそうだよ。これまでは言われた通りにやってきて、不満なときもあったさ。でも人って分からないものだね。ちょっとばかしやる気が出てくる。不思議だ」
「未来から知寿を救ってあげてください」
「それができたかどうか、知寿の回復が教えてくれるね」
キャンプのときほど星は見えない街の上空は、それでも今晩は美しくなっている。秋の風が大気のゴミを運ぶからだ。そのゴミはどこかに溜まっていく。世界の吹きだまりは決まっているなら知らない方がいい。知ったところで掃除をしなくてはいけないからみんな目をつむるのだ。沙耶の癖のように。
翌日お見舞いのために、駅地下の百貨店でフルーツを買った。かごにわんさか詰まったものは値段がはって、予約が必須だった。ネットで購入したときは、あっさりしていて拍子抜けしたけれど、ずっしりとしたかごを手にぶら下げるとやっとリアルになった。
薄いニットは通気性がよくて気に入っている。ショーウインドーに映る背筋が曲がっていたからまっすぐに正す。道行く人びとの姿勢はそれほどよくない。みんな以外と骨が曲がっていて、疲れているのだろう。
泥みたいに疲労困憊の社会は、土曜日の昼下がりは穏やかだ。パイナップルのトゲが尖っていて、危うい感じがした。
膝に乗せたかごから絶えず溢れる甘い匂いに抱かれて沙耶はうとうとしている。稲見医院はバスに乗り換えて行かなくてはいけない。運賃が表示されたパネルで加算されていく金額は、どのタイミングで変わるのか予め教えてほしい。もし知っているなら、目的のひとつ前が安ければ降りられるのに、もったいない。
病院に向かう路線だからか、元気そうな人は少ない。白髪の老婆と、マスクをした親子、それと犬。バスに犬を乗せてもいい時代になった。そんな馬鹿な。いや、馬鹿は沙耶か?権利を得た犬が堂々とお座りしていることを禁じることはできない。存在する権利の正体を暴けないだけで、沙耶は世間知らずということだ。ネットで調べてみる。
バス。犬。ところであの黒毛の動物は犬なのか。細い耳にピンクの舌を携えた、四本足の尻尾を振る仕種が懐こい。ダルメシアンではない。もっとシャープな印象だ。凛々しい顔をしている。噛まれたら痛そうな牙が剥き出しだ。
犬猿の仲というのに、どうにも犬は社会に迎合されている。ある意味ではヒトが猿を見下しているのか。ヒト犬はよくて、猿犬はダメなら、ヒトと猿は明確に違うので、ほら、頭がいいでしょう。
沙耶を見つめる犬を猿と同じ檻に入れたら血飛沫が上がり、肉片がずたずたにばら蒔かれ、混沌の波が押し寄せるのだろうか。そうでないと犬猿の言葉のインパクトが薄い。アメリカンコーヒーみたいなものか。取り合えずアメリカンって言えばいいのだ。困ったときの常套句だったら納得できる。
病院から徒歩で一分もかからない薬局の前で沙耶は降りた。ひとつ前のバス停の料金が五十円安かった。
手入れされた植木が囲む病院の駐車場は、アルファベットで区切られている。どこに停めても同じなのに、アルファベティカル必要があるのか疑問だ。でも沙耶は同時に意味のないことなんてないと信じている。それも意味のないことだとしてもだ。
健常なときに病院に来ると場違いで気まずい。いかにもギリギリといった体の杖をついた人とか、包帯ぐるぐる巻きの人とかに引け目を覚える。受付で手続きを済ませた沙耶は階段で知寿の待つ棟へ向かう。途中でトイレに寄った。シルバー人材派遣のよって保たれた衛生的なトイレだ。たとえ数分前に誰かがウイルスもりもりの吐瀉物を残していったとしても綺麗さっぱり払拭されているから沙耶には関係がなくなる。
沙耶が嫌だと思うより早く嫌なことが消えてしまえば、それは初めからなかったことと同じだ。だから沙耶の脇に通る風が実は透明人間の変態畜生の仕業だとして、目に映らなければ害はないのだ。
階段の踊り場は簡素だけれど、広大な敷地を一望できた。遊具で楽しむ患者は、遠くからだといたって普通だ。でも、普通ではないのだ。それが思い至らないのは沙耶にエンパシーが乏しいからだ。階段を上がり左手に折れた突き当たりが知寿の部屋だ。家賃十万くらいしそうな部屋にはトイレとキッチンも付いている。あまりにも無機質な美しいトイレを、沙耶は使っていいものか逡巡してしまう。
「こんにちは」
窓が開いていて、風と日差しが漏れていた。
ベッドの側にあるテーブルに果物を置いて、沙耶はリンゴを掴む。湿らせた布巾で表面を軽く拭く。赤い皮が艶やかに照る。
「包丁借りるね」
静かに胸を膨らます知寿は気持ち良さそうに寝ている。ビニール袋を下にしいて、リンゴを半時計回りに包丁を当てていく。螺旋の皮が袋にとぐろを巻いていく。鱗のない蛇が黄色いお腹をさらしているようだ。小さく八等分にして皿に盛る。ベッドから知寿の腕が垂れている。注射の痕跡が黒いものから茶色いものまでたくさんあった。
布団の中に手を戻して沙耶はリンゴを一口頬張る。唾液と酸が溶け合って胃袋に流れていく。胃酸は食物を融解させるほど強力なのに、血液のペーハーは変わらないで保たれる。だから沙耶はリンゴを美味しいと思える。シャリシャリと歯の上で果肉を転がしていると、知寿が目を開けた。濡れた宝石のような深い青の眼は、夢で体験した世界をつれてきてしまったような居心地の悪さを内包している。
「お邪魔だったかな」
ぼうっとする知寿は沙耶の言葉には返事をせずにまた瞳を閉じた。そして深く息を吸ってゆっくりと吐いた。
「公園のあじさいは枝しか残ってなかったよ。花がないと低い枝振りが阿弥陀籤みたいで面白かった。写真は撮り損ねちゃった、夜だったし」
リンゴを四つ消化したところで喉が詰まった。食べ過ぎちゃうと沙耶は思った。折角知寿のために買ったのに、自分ばかりが味わっている。独り占めの文化は知寿の専売特許だ。沙耶は全部平らげることは憚られる。でもそれは知寿にとってリンゴが美味しいと感じられる場合に限る。解釈を変えることで五つ目を口に含むことができた。
五つ目以降のリンゴは奇妙な味がした。しゃきしゃきした歯触りから、ぼそぼそした味噌っぽい感じになっていく。深く考えずにどんどん口へ放り込んでいくと、最後に苦みを覚えた。皿に吐き出した唾液まみれの粉々のリンゴには、緑色の液体と茶色く蠢く芋虫が切断されたものが覗けた。
しばらく沙耶はそれをまじまじと眺めていた。歯にすりつぶされかけた芋虫は、首の皮一枚繋がっているような雰囲気で以て体をくねらせている。口腔に広がる苦味に沙耶は舌を這わせる。美味しくないことは、苦いということらしい。すやすやと寝息をたてる知寿に教えてあげたくなったが、沙耶は黙っていた。また目が覚めたときにでも説明してあげればいいのだ。
パイナップルの房を取り出して、包丁を入れていく。色んなフルーツを裁けるようになっていくなんて、あじさいが咲いていた頃の沙耶に話しても信じてもらえないに違いない。メロンに柿にブドウも盛られたかごは季節の坩堝だ。太郎さんの教えてくれた遊びには、こっくりさん以外にも色々あった。フルーツバスケットという椅子取りゲームもあった。
椅子を輪にして座る子どもたちと、真ん中で立つ一人がいて「フルーツバスケット」と掛け声をあげる。すると桃やら苺やらがわっと一斉に駆け回る。次々と空いた椅子を求めてかごの中はたちまちに白熱する。真ん中で声を出した鬼が座れば、誰かが代わりに鬼になる。それが永遠に繰り返される。知寿がひとこと「沙耶」と呟いてくれたなら、すぐにでも椅子を明け渡したい。チューブも血液も、苦味の残る舌も交換して、沙耶が鬼になるのだ。鬼になったら、この繰り返しのゲームに飽きたと言って終止符を打とう。窓から吹く風が知寿の額をそよいでいる。乾いた毛先は癖が抜けて真っ直ぐになっていた。
パイナップルの果汁滴る包丁が右手に光っている。黄色の液体が柄を伝ってニットの袖口に滲んでいく。そのまま肘へと流れていき、リノリウムの床に落っこちていく。どんどん大きくなっていく水溜まりに朧気な沙耶の踝が映る。やがて膝、腰を明らかにするころには果汁は両足をも囲んでしまっていた。
「どうしましたか」
青い服の看護士が廊下に立っていた。すみません、こぼしてしまって、と沙耶は屈んで果汁を拭き取ろうとする。床を浸したパイナップルの香りが放っておいたらベッドの下まで広がって、掃除をするのは骨が折れそうだ。パイナップルにはタンパク質分解酵素が入っていて、酢豚の肉を柔らかくする効果がある。アクチニジンならキウイでもいいわけなのだけれど。サンダルの足音が看護士とともに近づいてくる。皿に載っているのは、リンゴと芋虫、それとパイナップルの皮。




