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かいまん

 虚ろな左目の端から止めどなく雨が滴っている。雨は血にそっくりだ。口の周りには黒々としたねばつきがある。

「ソースがついてる」ハンカチで拭おうとする沙耶は思った。濡れたハンカチでは綺麗にすることはできない。でも知寿もどうせびしょ濡れなのだから、気を取り直して手を伸ばす。重くなったハンカチから垂れる水が屋上に落ちるとき、空から降ってきた雨が布地に吸い込まれていく。

 砂時計の下に砂時計がくっついていて、穴がひとつづきになっている。上から入ってくる砂粒が溜まる寸前に下へと押し出される砂粒がある。砂時計のタワーはきりがなく、一方は空を突き抜け宇宙へと、もう一方はマントルを突き破り、やはり宇宙へと繋がっていく。沙耶の手元で砂が落ちていく。重力に逆らって、いずれかに流れは続いている。反転したり、止まったりしない。必ず一方へと進むしかない。ハンカチが蓄えられる水分の限界に、沙耶は背筋が凍りつく。コロッケパンが一番人気がない。茶色い見た目で、コッペパンに挟まったソースつきのコロッケは茶色オン茶色だ。みんなが好かないそいつを好むのは知寿だけだ。少なくとも沙耶はそう信じている。

「何してんの。濡れるよ」

 他人の心配をする余裕のある知寿の背中は小さいのに、しっかりしている。そこで沙耶はようやく知寿が正面を向き直っていたことに気がついた。

 引き止めたくて「戻らないの?」。

 黙ったまま知寿は頷く。それはまるで沙耶だけ戻ればいいじゃないか、と責められているようだった。沈黙が悲観的な焦燥を駆る。沙耶は呼吸が苦しくなってくる。雨が痛い。

「あじさいが見えるよ」

「どこ?」

 目を凝らしても、沙耶には分からない。雨が降っている。まばたきすると眼球が滲む。プールに沈んだことのない人はいない。ゴーグルなしで目をずっと開けていたら痛くて仕方がない。ぼやけた視界は浮上によってのみ解き放たれる。鰐なら別だ。アマゾン川に生息するカイマンが淡水を泳ぐとき、彼らの瞳は薄い透明な膜で覆われて、濁流の侵入を防いでしまうから。わざわざ水面に顔を出すことはないし、呼吸が続けばずっと潜っていられる。目は痛くならない。

 透明な膜が担う役割は大きい。

 カイマンは卵から孵った。ミニチュアの柔らかな存在。人間の手のひらに載せても耐えられる。彼らは潜る。脊髄に刻まれた回路の信号に従って、或いはそこに水があったからという理由で泥濘に爪を浸す。尻尾がぎざぎざしている。滑らかな尻尾はアナコンダのものだ。アナコンダも淡水を泳げるけれど、瞳に膜はないだろう。膜は等しく与えられるわけではないのだ。

 しかしカイマンは言うのだ。

「膜がさ、空気に触れてぱかりと開いて、また沈むときにぴたりと閉じるだろ?けっこー面倒くさいよ。やってみたことないでしょ。いちいちぱかぱかぱかぱか。嫌なものだよ。なくったっていいんだよ。潜らなければ済む話さ。なに?そんなに簡単な話じゃあないって?そんなこと、そのままそっくりあなたに返すよ」









 映画を観ようと誘ったのは知寿ではなかった。沙耶でもなかった。誰だったのか。詳しくは覚えていないのだ。誇張ではない。胡蝶の夢でもない。もちろん鬼は出てこない。現実の真実があるだけだ。

「あれがさあ、好きなんだ。コスプレ?ってやつ」

 どうやらお兄さんはアニメのキャラクターに感化されて、自分で作った着物を召している。

 てかてかのクラッチバッグを片手に肩を揺らして闊歩するお兄さんが、玩具の刀を振り回して知寿に白い目で睨まれている姿がスクリーンの青年と重なる。

 力なくなぎ倒されていく敵の群れは、作画担当が手を抜いたのではないかと訝りたくなるほどに似ていた。どいつもこいつも同じ顔だ。喋る言葉で意味のあるものなんて殆どない。猿の方がまだましだ。

 でも主人公やヒロインを除いた大多数なんて、目立たなくて当然だ。みんなが最強で、絶世の美貌の持ち主だったら、平々凡々の容姿の沙耶の入り込める余地がなくなる。似ているからシンパシーが沸くし、スポットライトの当てられた主要人物に対してエンパシーを行使できる。

 ポップコーンのバターの香りごと吹き飛ばしながら知寿は笑っている。スクリーンには、首を一刀両断された怪物がよろめいて仰向けに倒れる様子が映し出されている。館内で物音ひとつなく、誰もが固唾を飲んでいるのに知寿はクスクス身を縮ませている。

「そんなに面白い?」と囁いた沙耶を、キッと睨む知寿の眼光が真っ赤に彩られる。ぶしゅーっと血飛沫が溢れるタイミングで、ポップコーンをまた頬に詰め込んでいる。やっぱり知寿はりすだ。小鼻の前に人差し指を持ってきて「黙れ」と目で忠告される。沙耶は浅く座り直して背筋を正す。勧善懲悪がテーマの観劇を見るのも悪くはないと沙耶は思った。

 上映終了で明転した階段でよろめく知寿の手を取ると熱いのは沙耶の手だった。ストーリーはまるで覚えていないけれど、知寿の噛んだポップコーンが幾らだったか、何度席を立ったか、そのときのシーンが眠りから覚めるところだったとか、鮮明に記憶されている。

「面白いよ、当たり前じゃないか」

 何のことかと首を傾げた沙耶は、自分の質問の答えがディレイしていたと知って、ああ、と漏らした。

 トイレから戻ってきた知寿はもう一度「面白いんだよ」と言い放ち、写真を撮影し始めた。キャラクターの立て看板には人波が押し寄せていた。お兄さんは知寿が送ってきた写真を参考にしてコスプレをするのだろうか。

「傘ないのにー」

 入り口には細長いビニールが丸まっていたり、曲がって破れていたりした。朝は晴れていたのに、昼から降るとは知らなかった。最近天気予報が外れる。止めて欲しい。

 建物の中にはフードコートがある。そこで二人は軽く食べようと合意した。

「コロッケパンなんてあったんだ」

 注文した料理ができると鳴る機械をお盆に載せて沙耶は汲んできた水をテーブルに置く。

「これ、コンビニの」

「あ、そう」

 水を「まじい」と顔をしかめて飲むのを止めた知寿はスマホに夢中になっている。どうせインスタでもやっている。さっきの写真にタグつけて、ネットの海に放り込むのだ。沙耶はやらない。

「何でやらないの?」知寿にはよく聞かれる。

「コロッケパン美味しい?」沙耶はよく聞く。互いの質問に答えることなく、ブザーが鳴った。頼んだラーメンは高い割には不味そうだ。コンビニのカップ麺のが安くてうまい。だから知寿は正しい。でもお湯を入れられないから、フードコートのラーメンは正義だ。

「あたしさあ、昔っから他人と同じことしたくなかったんだ。例えば道徳の授業とか。大体意見が二分されるんだよね。やった方と、やられた方。どちらの立場で考えるかって。それか多数派と少数派になっちゃうけど、どちらの言い分ももっともらしいとか。でもさ、それって変でしょ。いっぱいいるのにどうしてまとめるんだろうね。どっちかとか、つまらないじゃないか。でも今具体例を説明しようとしても、お話の内容なんて覚えてないから無理だけど」

 茶色いコロッケパンは、桃色の唇に引きちぎられていく。目を細めて、口角にソースをつける知寿は咀嚼しながらも器用に話す。ぺちゃぺちゃ気持ち悪い音はしない。どうしたら美しく食べながら喋れるんだろう。沙耶は不思議でならない。

 フードコートでコンビニのパンを頬張る友人と一緒にいる時間を、沙耶の目に映る雑踏の忙しなさが教えてくれる。親子連れやカップルが、ハート型のオブジェに集まっていた。

「そういえば何回目だっけ」

「四回くらい」

 紙コップをくわえながら知寿はふーんと言った。四回かあ、とも言った。沙耶も人気の映画はずっと流れることを知らなかった。

「風船配ってるよ。ほしくない?」席を立った知寿が呼ぶのでついていくと、ハート型のオブジェを囲むブースで子供向けの風船を配布している。ピエロの顔面は真っ白のドーランで塗りたくられていた。それこそアイドルの顔面クリームパイさながらの迫力が満ちていた。嬉々とした表情で子供たちに接している。黄色い巻き毛がプラスチックでできている。

 オブジェは生け垣の緑とコントラストを呈していた。真っ赤なハートが無機質な店内で光沢を帯びて華やかだ。

 自分たちの半分くらいの背丈が列を成している。虚空を見つめる男の子に、髪の毛を二つに縛った女の子がうろうろする。

「おろしたほうが似合うね」なんて前の女の子に向かって知寿は指差す。沙耶たちが風船をもらうだけでも親たちの視線がねぶるように、それでも悟られないようにこっそりと注がれるのに、知寿の仕種は火に油をも注ぎかねない。だから沙耶は「もっとやればいい」と願う。その服変だよ、パトカーじゃなくて人形を持ちなよ、本当はあや取りがしたいんだろ、知寿が思い描くすべてをぶちまければいいのだ。ハート型のオブジェの周りにいた親子が散々になって、カップルたちも疎らになってしまえばいい。そうしたら沙耶はピエロから風船を気兼ねなく受け取れるし、知寿が鋭い針でつついて割っても怒られやしない。

 順番がきた。ピエロは知寿と沙耶の顔を交互に見比べて、徐に笑って、エアー弁を開けてヘリウムをゴム風船の口にあてがった。細く膨らんでいく風船の中には白い粉が入っている。

「即興で入れてくれるの?」

 知寿の質問には答えずに、ピエロはただ笑っている。子供たちの持つ風船は、犬とかうさぎの形に整えられていた。ワクワクして完成を待つ沙耶はスマホで動画を撮影する。物凄く大きくなっていく風船は、割れてしまわないか心配になるけれど、真ん中を折って結んでこねくりまわしても平気らしいからこそ動物のシルエットを形成できるのだから、沙耶は落ち着いてしまえる。

 風船の口を縛ったピエロは身長ほどもある肌色のそれを知寿に渡した。

「これで終わり?」

 ピエロは籠や道具を片付けている。ねえ、と詰問する知寿を無視して去っていこうとする。後ろに並んでいた、風船を獲得できなかった子供たちには泣き出すものもいた。親子の大声がフードコートまで響く。

「くそ、なんだよ。つまらないじゃないか。動物のかたちにしてくれないなんて」

 ぶんぶん風船を振り回していた知寿は、ふと思いついたように足を開いた。スカートがたわむ。風船に跨がった知寿は小雨の降る出入り口までまっしぐらに走る。慌てて沙耶も駆けていく。知寿の股で屹立する風船が、ジャンプした拍子に爆発した。先端から吹き出る白い粉が、雨と混じってべたべたになっている。

 沙耶が追いついたころには、マヨネーズみたいな汚れがエントランスから放射状に拡散していた。

「粉まみれだなあ。でも、もっと酷いことになると期待していたら、存外に大したことないね」

 つまらなそうに、それでいて嬉しそうに股で萎んだ風船を伸縮させて弄ぶ知寿の髪が濡れている。毛先はいつも曲がっている。








 鴨の群れが細波をたてる。白く濁った起伏が減衰してから空の青さを光らせる。生け垣のあじさいはいつか見たときと色が変わっている。土の中で手を結んだ金属イオンは気紛れで、日々刻々と繋がる相手を選ぶのかも知れない。

 砂場は湿っているから、泥だらけのこどもがたくさんいる。そのかたわらで日傘の下で微笑む母親たちが何か言葉を紡いでいる。

 髪を結わえた女の子がスコップ、プラスチック製のもので隣のこどもの後頭部を殴った。それまで女の子がつくっていた砂のお城が、叩かれたこどものお尻で崩されたのだった。崩したこどもは砂場の縁に並べていた泥団子を女の子に踏まれてもケロッとしていたから、仕返しというわけではなさそうだ。

 目を一瞬だけ開いたこどもは頭をおさえて顔を歪ませる。刹那に甲高い叫び声がして、母親たちの視線が一点に集う。

「知寿はどう思う?」

 どっちのこどもが悪いのか、沙耶は気になっていた。

「やっぱりいきなり頭を叩いた女の子が謝るべきだよね。だってつくっていたお城を壊されたからって、他意はなかったわけだから。それとも泥団子の腹いせに、バレないように、バレても怒られにくいように計略を巡らせていたなら、叩かれた方が悪いけれど。そんなことってあるのかな」

 白いあじさいはずっと白い。前回と同様に白かった。池のほとりで燕が飛んでいる。地面すれすれから、水面で急浮上する。二次関数だったら、最低値を越えればどこまでも進んでいける。あの燕は次元を越えたから、閾値が絞られてしまった。

「そーだなあ。あたしなら、産まないね」

「産まない?」

 うん。深くベンチに座り直した知寿が続ける。

「努力して積み上げたお城が崩落してしまうリスクは砂場以外にもありふれているし、お尻で踏まれなくても誰かが代わりを担うかもしれない。意図的か、そうでないかは重要ではないんだよねえ。壊れた事実があるんだよ。仕方のないことなんだ。こどもたちが産まれたから、そうした幾つもの悲劇が起きるんだ。沙耶には分かるかな」

 頬を空気でぽこぽこ膨らませる知寿の説明は腑に落ちない。

「悲劇だなんて」

「あはっ。悲劇以外のなんでもないさ。そうでしょう。可哀想だよ。壊した、壊れたで一喜一憂しなくちゃいけないなんて。あたしなら絶対にしたくないし、させたくない。したくなくても、生きている限りリスクはそこらじゅうに落っこちてる。だからせめてさ、させたくない願いだけは叶えさせて欲しいね」

 沙耶の手の甲に、知寿はそっと手を置いた。きめこまかな知寿の皮膚を見つめていると、黒子や小さな瘡蓋が目立つ。

「でもあじさいになりたいよ」

「綺麗だから?」

「うん。でも沙耶の思う綺麗とは違うかな。もっとこう、清純なってこと。同じ殻を被っていても、様々に色彩を異にすることができたらいーじゃん。今日は青がいいな。やっぱり赤かなって選べる自由が羨ましい。ときどき胸が張り裂けそうに痛いよ。いっそ本当におっぱいなんて千切れてしまえばいいのさ」

 ふふっ、といたずらっぽく知寿は笑う。あじさいのギザギザの葉っぱは確かに力強い見た目をしている。雨が降るだけ瑞々しく咲く花。

 目に涙を浮かべたこどもが沙耶を見ている。親と女の子はそのこどもを見ている。知寿は空を仰いで欠伸を噛み殺している。沙耶はそんな知寿の胸が張り裂けるのを手伝ってやりたいと思っている。








 実際に、紫陽花よろしく変色するイメージ。

 血流に運ばれる錯体が、沙耶の特別な発光に関わる。錯体がかたちを変えれば、沙耶は青やピンクや紫に変貌することができる。

 お酢をごくごく喉を鳴らして飲んでみれば、頭の先から踵まで真っ赤になったり、梅干しを口いっぱいに放り込めば髪の毛やら睫毛も蒼白を呈する。

 すでに紫の知寿に駆け寄って、ちょうど紫色になった沙耶は微笑みかける。動悸が激しくなってくる。それは嬉しいから?

 近づきたいのに、一歩も動けなくなる。体が弛緩して、這いつくばってしまう。どうして知寿は来てくれないの?助けてよ。向こうを必死に見ると、知寿もまた冷たい地面に寝転がっているのだった。

 人間の体はペーハーを維持していないといけないなんて、面倒くさいよ。変わりたいと思っても、体が言うことをきかない。体に言うことをきかせる、どこが、脳が、じゃあ脳は誰が、何が、なんのために、思い通りにならない。

 沙耶とは一体どうして沙耶なのか。

 教室の机に向かって真剣な表情をしているのは、隣の席の齋藤くんだけではない。真後ろの木下さんも、先頭の田口さんだって夢中で問題を解決しようと試みているはずだ。テスト開始時刻を十分過ぎても沙耶の指にからめられたシャープペンシルの重みは少しも変わらない。黒鉛の紙へと滑り落ちていく過程で変化する重量は幾つなのだろうか。このクラスの全員の筆跡をかき集めて、年間でどれほどの炭素が消費されていくのか分からない。

 解の公式に当てはめれば、先生が丸をつけてくれる正解とされる二次関数を噛み砕いた沙耶の口腔はざらざらと砂のような感触がした。真っ赤な楕円が解答欄に次々と描かれていく。生徒と教師の合作を求めているのは社会だ。

 スーツを着て、白い襟を正して、難しい言葉を連ねる人たちが発した台詞が礎を築いているこの世界に必要とされることは、シャープペンシルから迸る些細な炭素の物質量なんかじゃなくて、正しいことを、多少の疑いを持ちつつも実行する素質だ。

 白紙の答案用紙に、沙耶は問題を書いてみる。

「あじさいの葉っぱを歩く蝸牛は雄ですか、それとも雌ですか。雄だとするとなぜですか。どうやってまぐわうのですか。その交配を描写してください。雄でも雌でもどっちでも構いませんか。そんなことありませんか。わたしはどうでもいいかも知れません。それよりも蝸牛って読めますか。読めるなら、どうしてですか。カギュウと呼びますか。間違いでしょうか。誰が決めましたか。従う理由はなんですか。別にカギュウでもいいじゃないですか。多数派がカタツムリとしているだけで、わたしはカギュウであることの悪い根拠が見当たりません。もしもカギュウと呼ぶ人で、この世が満たされたとするならば、そんなに嬉しいことはありません。しかし逆もまた然りでしょう」

 机と机の細い通路を練り歩く先生は、この一回り以上も年下の沙耶の記述を、解答欄からはみ出すほどの主張と捉えるに違いない。けれどこれは自己顕示欲が強いと一辺倒に終わせていいものか、沙耶は首を傾げる。テストの採点をしていた先生から職員室に呼び出された沙耶は、厳めしい表情の教師と向かい合っている。

 教師はキイキイと鳴る椅子に座り、沙耶はシューズを履いて立っている。沙耶が黙っていても、何かしらの言葉が目の前の唇から放たれているのは辛うじて伝わる。サッカー少年たちでさえ弾かれたように校庭から戻ってくるにわか雨のせいなのか、それらの言葉はテレビの砂嵐みたいに沙耶の鼓膜には釣り合わない。

 若い頃に聞こえるとされるモスキート音が鳴らされるコンビニの憂鬱と、年老いた先生から漏れてくる無音の叱咤激励による寂寥は、聞こえることと、聞こえないことの相反する事例であるのに、深いところで完全な一致をしていることに沙耶は感動を禁じ得ない。

 先生の頭の後ろで、別な先生の白髪が揺れる。白髪の教師は知寿のことを糾弾しているらしい。

「真面目にやらないと、進級できませんよ。稲見さんいいですか。こら、どこを見てるの。先生の目を見なさい」

 下弦の月が二つ。知寿の微笑みが仄かに光る。月光が沙耶を優しく照らしている。お揃いのミサンガを互いに左手で隠している。右の手首は校内で禁止されている糸が結ばれている。学校でお洒落をしてはいけません。アクセサリーの類いは許されません。でもなぜですか。説明はありません。じゃあつけます。駄目です。いいえ、つけます。駄目なものは駄目でも仕方ありません。つけたいものはつけます。頭の中で考えていることは、口に出さなければバレない。脳みそがあってよかったと思うのは、沙耶にとって珍しいことだった。








 寝苦しい前日の夜が祟る。汗びっしょりの枕には、湿った髪が埋められていた。沙耶は窓を開ける。梅雨明けの朝がギラギラとアスファルトを焼いていた。スカートを履こうとして、ああ今日は休日だと思い至り手を止めた。パンツのままベランダに出る。蝉が鳴いていた。夜は蛙が鳴いていた。音だけでは推測できない虫たちも協奏していた。

 電信柱につかまって、けたたましく求愛する蝉が一匹や二匹では足らない。軒先の風鈴がちりんちりんと揺れている。ここからでは色が判断できないけれど、ガラスではない渋い感じは金属でできているのかも知れない。

 一階に降りる。リビングには生の食パンが皿に載っていた。ラップをふんわりとかけられたトーストになる前のそれは朝日を浴びて白く輝いている。カーテンのレースから零れた光は斑になってフローリングを温めていた。冷蔵庫の低いうなり声にハッとさせられる。時計は八時だった。集合時間は七時半にしてあるから、あと三十分しかない。

 汗を吸った衣類を洗濯かごに放り投げて、コップ一杯の水を飲む。沙耶は急いで玄関を出るとそのままの勢いで自転車に跨がる。サドルにジーンズがくいこむ。沙耶に踏まれたペダルは回転してチェーンに力を伝搬させる。摩擦や振動で損なわれる以外の動力が細い車輪の軸に与えられる。ハブの残像が濃くなって、景色が透けて見えなくなると、ゴムと路上の接地面がするすると駅の方角へと伸びていく。

 蝉時雨を背に浴びて、沙耶は顔を上げる。照りつける太陽が瞳を焦がす。

 遠くにみはるかす山麓は青い。真後ろの空はもっと青い。雲がたゆたい世界が広くなった夏に沙耶は自転車を漕ぐ。キャンプに行こうと誘ってくれたのは知寿だけれど、立案したのはお兄さんらしい。悲観的な知寿のお兄さんは沙耶の中で悲観的な男の人というトートロジーめいた印象しかもたらしていない。

 身長の低い、クラッチバッグで気取った精神の持ち主がキャンプ、それも妹の友人を招いてとは興味深い。キャンプに必要なものって何かな。大きなカバンにテント、飯盒とかクーラーボックスは思いつく。知寿は「いらないよ」と言っていたけれど、日帰りで行けるものなのか?それとも宿泊するのだとしたら、お風呂はどうする。お気に入りのシャンプーは家に置いてきてしまったし、どうせなら古い歯ブラシを持ってくれば良かった。新しいものを買うのは勿体ない。

 風に舞う蝶とトンボが畦道の上空へと導かれていく。トンボは遥かな山から降りてきたんじゃないか。おーい、わたしは君たちの生まれた山へと行くんだよ。キャンプっていうんだよ。

 自転車の沙耶と並走しながらも急加速して去っていくトンボのお尻に向かって沙耶は呟いた。

 トンボは黒くて細いからだを懸命に風にのせて、すんすん飛んでいく。

「ごめんなさい、は?」

 八時二十分に駅のロータリーに到着した沙耶に対して腕組みの知寿はしたり顔をしている。なぜか知寿は約束の時間に来ていた。スマホの通知はオフにしていたから気づかなかった、もとい気づかぬていを装っていた。真っ白なハイエースが停まっていて、中から出てきたお兄さんに沙耶は謝罪しようとする。

 深く頭を下げて、約一時間近くも待たせてしまったしかも初対面の人を、沙耶は多寡をくくっていた自分の軽率さを恥じた。せめて兄妹揃って遅れてこいよなどと責め文句を喉につかえさせてもいた。

「まあまあ気にしないでよお」

 おおらかな伸びのある声色に安堵した沙耶が上目遣いをするとそこにはロングヘアーを後ろでくくった青いワンピースの女性が立っていた。電撃の走った沙耶の思考回路が瞬時に導きだした仮説は、後に正しかったと判明する。つまり知寿が指していたのはクラッチバッグの男ではなかったのだ。というところまで心が整理される前に沙耶はだだっ広い後部座席にのせられて、美人のお兄さんの運転するハイエースは大通りを出て高速のインターを目指す。床の低いハイエースから高見の助手席を見やると知寿が寝ていた。沈黙の車内は蝉の声さえ聞こえない。心臓がきゅうとなる沙耶とお兄さんの間に横たわる静寂が予感させるものは何一つなかった。








(続)

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