5 コガタリの記憶
駐車場の車にやっとたどりついて、春菜はハンドルにつっぷした。
千佳になんて言おう。
高雄が自分で始末をつけるだろう可能性はゼロに近いし。面倒なことになったな。
「ああああ・・・」
顔をおこしてシートにもたれかかった。髪がべたべたする。
今日の授業に千佳が来るだろう。その時この話をするべきだろうか。
春菜はため息をついて決心した。
ほっとこう。
家出人捜しはともかく、色恋のもつれまで面倒みきれるもんか。
と、その時、駐車場のフェンスの向こうを、どこかで見た顔が通った。
古語裕作青年だ。住所が隣町の川南町になっていたけれど、電車で高鍋まで来て東校まで歩いているのだろう。バスに乗り遅れたんだろうか。駅から学校までかなり距離があるのに歩きじゃ大変だ。
春菜は急いで車をだして、古語に追いついた。
「古語さん!」
古語は車の中の春菜を認めて、とまどった表情を浮かべた。
「あ、朝霞、先生・・・」
「私も学校に戻るところだから乗ってください」
春菜は体をのばしてドアを開けた。
こういう時、内気な生徒は強いためらいを見せるものだが、この時の古語の表情は、春菜が声をかけなければよかったと後悔した程こわばっていた。
が、無理に乗らなくてもいいですよ、と春菜が言う前に、古語は嵐の中に跳びこむような思い切った表情で乗り込んできた。
もしかして車が苦手なんだろうか。
しばらく二人とも黙ったままだった。春菜が教師なのだから話しかけるべきなのだろうけれど、このものすごい緊張を前にとても口をきくどころじゃない。
やがて、古語の方が小声で言った。
「・・・りんごの香がしませんか」
「においつきのガソリン使ってるんです。今日はりんごにしてみました」
「へぇ」
古語は感心したようだった。春菜は自分が冗談に向いていないことを確信した。
また沈黙が続いた。今度は春菜が話しかけた。
「・・・警備の仕事はどんなことをするんですか?」
「ケイビ?」
「警備会社でしょ? 仕事」
「あ、あぁ、ケイビ。えぇ、そう」
「どこかの会社に行ってるとか」
「ああ、そう。どこかの会社に、行ってます」
「・・・・・」
春菜はチラッと古語を見た。古語は額にじっとりと汗をかいて、フロントガラスの一点を親の敵のようににらみつけている。
「あの、自動車嫌いなんじゃありませんか。だったら・・・」
「いえ!」
古語は突然春菜の方に顔を向けると、かすれた声で、言った。
「左腕、あとが残ってしまったんですね」
・・・・・・・・・・・・っ!
「十二年前の高千穂小学校の爆発事故でしょう。・・・やっぱり忘れてるんだな。僕は朝霞先生と小学校六年生の時同じクラスにいたんですよ」
ああ・・・。
体がふるえはじめた。恐ろしい寒気が背中からはいあがってくる。視界が急速に現実感を失い、アスファルトが浮き上がってきた。車をどこかにぶつけて止めたい衝動に耐え、春菜は歯をくいしばっていた。
この日が来た。とうとう来てしまった。
十二年間待ち続け、そして恐れてきたこの日がとうとう来たのだ。
「・・・覚えています」
と春菜は言った。古語は嬉しそうな顔をしなかった。
「覚えてる? 僕のこと本当に覚えてるんですか? 僕は転校が多いもので忘れられやすいんですよ。高千穂小学校にも一学期に転校して来て、三学期には出ていきました。ちょうどあの事故の二日前で、事故の事を聞いて驚きましたよ。・・・僕のこと本当に覚えてるんですか? いいんですよ。もう十二年前のことなんだから。覚えていたんなら最初に会った時そう言ったはずでしょう」
「はっきり・・・はっきり覚えてます」
「たとえばどんな事を? 別の子と間違えているのかもしれませんよ」
車は東校の裏門を通りぬけ、駐車場に乗り入れた。春菜はエンジンを切ってシートにもたれかかり動悸をおさえた。
「覚えてます。コガタリ君は、宇宙空間を一人で旅してる時、重力の強い所に近づきすぎて吸い込まれそうになったんですよね」
古語は低く笑った。
「そんなことを言いましたかねぇ。マンガばっかり読んでたんでしょうね」
「それから・・・コガタリ君の顔を覚えてます。私より背が低くて、色白の丸顔で、瞳が大きくて・・・」
「あぁ、ずいぶん変わったでしょう。あれから十二年ですからね」
古語はまた笑った。笑うと小さい歯が見える。春菜は言った。
「そして、親指にも、他の指と同じように、関節が二つありました」
古語はびくっと指先をふるわせた。古語の指は、ごく尋常な、関節の一つしかない、指だ。
「あ、指、そう・・・そういえば、子どもの頃は・・・。でも、成長して・・・」
成長して、二つあった間接が一つになるわけはない。古語は口を開けたまま言葉を出さなくなった。
春菜も黙っていた。
二人とも車から降りようとはしなかった。緊張が膨れ上がってガラスを割りそうだった。
やがて、春菜が口を開いた。
「何て言うか・・・あなたに会えて嬉しいんです」
古語はほっとしたように笑った。
「僕も・・・偶然ってあるもんですね」
「あの事故の時、私、コガタリ君に助けられたんです」
「えぇ? 僕はその時いなかったのに・・・」
笑い出そうとする古語をおさえつけるように、春菜は言葉を続けた。
「私、コガタリ君があの事故の時からいなくなってしまってとても悲しかった。私達を助けたせいで星に戻らなくちゃならなくなったんだって、そう思って。私、左腕のやけどがひどかったから、ちょっとの間入院してたんだけど、退院して学校に行ったら、もうコガタリ君はいなくなってました」
「え、それは違いますよ。僕は事故の前からもういなかったんです。事故の時はもう次の学校にいましたから」
しかし春菜はその古語の言葉を無視した。
「だから私みんなに聞いたんです。コガタリ君はどうしたのって。そしたらみんな、コガタリ君って誰って言いました」
古語の顔色が変わった。そして曖昧に笑った。
「ひどいな、それは・・・。でも僕は、どこでもあまり印象持ってもらえなくて・・・」
「机もありませんでした。出席簿にも名前がのってませんでした。先生も変な顔で私を見ました。私の家より上には一件も家なんてありませんでした。コガタリ君はすっかり消えてしまっていたんです。私もなんだかコガタリ君のことすごい勢いで忘れてしまってて、下の名前を思い出そうとしてもどうしても思い出せなくって。
コガタリ君は、いじめにあっていた私が頭の中で作りあげた架空の友達だったんだそうです。先生も両親も病院の先生もそう言って、私は一時、心の治療の為に病院に入っていたんです。私は退院する為に、コガタリ君は幻だったと言いました。嘘をついたんです。絶対にこれは嘘で、コガタリ君はいたんだと私は信じていました。私が炎に焼かれた記憶と、コガタリ君が助けてくれた記憶を証明するこのやけどがあるんですから。
・・・そして家に戻ったら父が位牌になってました。運転あやまって谷に落ちたらしいんですが、母が、私には知らせなかったんです。私がよけい変になるかもと思ったらしいです。母は一人でお葬式したんです。
私はそれからコガタリ君の話をするのはやめました。でも、待ってたんです。誰かがやってくるのを。誰か、あれは幻じゃなかったんだって教えてくれる人が、コガタリ君はちゃんと存在していたんだって言ってくれる人が来るのを。たとえば私にコガタリ君の記憶が残ってるのに気づいて記憶を消しに来るかもしれないって、思って。
それで、あなたは誰? コガタリ君はどこにいるんですか?」