4 教師のおしごと
次の日、木曜日。午後三時。
春菜は山崎真由美のアパートをたずねるために車を走らせていた。生徒にはそれぞれ自宅近辺の地図を書かせているのだが、それを見ると駅裏近辺のアパートらしく、これならすぐに見つかるだろう。
駅裏駐車場に車をとめて、林立するアパートの名前を一つ一つ見て行く。
ハイツ・カミニート、ここだ。階段をあがって、201号室のドアチャイムを押した。昼間働いている生徒が多いので、居ないかもしれないと思っていたのだが、出て来る気配がする。カチッと鍵をあけて山崎真由美がドアを右手で開けた。眉毛を極端に抜きまくって普段はペンシルで形よく書いているのだが、今は何も書いていないせいでちょっとメガネザルのように見える。
「あ、先生。どしたと?」
「今日仕事お休みですか。昨日学校も休んでたけど具合が悪いんじゃありませんか」
「大丈夫。なん、先生わざわざ見にきたと?」
「えっと、それもあるんですが。・・・ちょっと聞きたいことがあって」
「なに?」
「高雄君のことなんだけど、最近何かおかしいところありませんでした? どっか行きたいと言ってたとか、落ち込んでたとか」
真由美は春菜の顔をまじまじと見つめた。
「なんで?」
「実は、まだ内緒にしていて欲しいんですが、高雄君がいなくなったらしいんですよ。何か心あたりありませんか」
真由美はまた、春菜の顔をじーっと見つめた。そして言った。
「ある」
「えっ! ほんとに?」
さすが島村先生!
「どこにいるんですか?」
真由美はつっかえたものを吐き出すように言った。
「ここ」
その時、玄関兼台所を仕切っていたドアが開いた。そして、白いランニングシャツ一枚で顔を出したのは、今起きたばかりのような顔をした松尾高雄本人だった。
「やー、先生。元気?」
春菜は、あまり元気ではなかった。
六畳のワンルームにあげてもらって、しきっぱなしの布団の上で高雄と向き合い、春菜はしばらく黙っていた。
さて、これはいかなることなのであろうか。
高雄の方は、ぼんやりした顔でそっぽむいているばかり。
「はいジュース」
と真由美がコップにりんごジュースをついで握らせてくれた。りんごジュースは嫌いだった。
真由美が二人の横に座って、春菜をうながした。
「せんせ、何か言わんと」
「はぁ・・・。だけど状況がよくわからなくって。泣くべきか笑うべきか怒るべきか・・・」
「怒る怒る」
「ああ、やっぱり?」
「うん」
真由美はひっひっひっひっ、と笑った。
「真由美さん、そういう笑い方は品が無いですよ」
と言ったらよけい笑った。苦しそうに涙をうかべるまで笑って、おさまった。
春菜はぐったりして、真由美が笑うのを見ていた。高雄は気まずいのだろう、体をゆらしながら布団を見ている。
つまり高雄は駅にいたわけじゃなくて、駅の近くにいた、わけだ。真由美の住所を見てすぐに気づくべきだった。島村先生は気がついて、それで教えてくれたんだ。
さて、私はどしたらいんだろう。
「・・・千佳さんは知ってるんですか、このこと」
「知らんやろね」
高雄がようやく口を開いた。それが妙にお気楽そうで、春菜はここにいたってやっとムッとすべきだと気づいた。
「千佳さんは心配してましたよ。それで私のところに相談に来たんです」
「はぁん・・・」
高雄は気の無い顔で首の後ろをかいた。
「高雄君、これからどうするんですか」
「どうするって? 何を?」
「千佳さんを」
「俺も苦しいったい。だけどやっぱ人間気持ちに嘘ついたらいかんやろ。嘘の気持ちでつきあっとったら千佳にもすごいひどいことしとることになると思うとばいね」
春菜はりんごジュースを畳の上に置いた。そしてちらっと右横にある枕を見た。大きな枕だ。それから言った。
「高雄君と千佳さんは二人でかけおちして宮崎まで来たんでしょう?」
「一人でかけおちできる奴はすげぇわね」
高雄はせせら笑った。
「・・・それなのにあなたは千佳さんを捨てるんですか。何のためのかけおちだったんですか」
「かけおちってほどじゃなかばい」
「じゃあ何」
高雄はしばらく考えていたが、
「かけおちかな、やっぱ。でもそういう、なんての、言葉がさ、古いっていうか、べたべたっていうか、かっこよくなかったいね。好かんわ。なんかかけおちって言葉使うと責任あるような感じやがよ」
責任ないとでも思っているのか! とどなりつけたいのをこらえて、
「千佳さん連れ出して宮崎まで来て、一年ちょいで別の女を好きになりました。はいじゃあ別れますって、何ですかそれは」
「なん? 先生まさか俺が悪いって思っとるんじゃなかたいね? 俺が連れ出したんじゃなかばい。千佳も賛成したばってんが」
「こういうことは男に責任があるんです。あなたには勲章かもしれませんが、千佳さんは傷ものになるんですよ」
ひーひっひっ、と真由美がまた笑いだした。
「先生、古ぅ。なにそれ」
高雄もげえと舌を出した。
「今男女同権やろ。学校の先生がなに言いよるの。千佳は強いて。やっていくって。あ、それからさ。俺学校辞めるわ。やっぱ身をひくのは俺の方じゃん? 千佳の幸せを思うとさ。それくらいは俺の責任かなって思うとよね。先生来てくれてよかった。俺と真由美のこと千佳に言っといてよ。やっぱほら、こういうことははっきり言ってやった方がよかばい。その方がさっぱりするし、いつまでも俺を待ってたりしたらかわいそうやろ」
春菜はちょっとの間黙っていた。そして言った。
「そう。高雄君学校辞めるんですね」
「うん、やっぱ男やかいね、責任とらんとね」
高雄は英雄的に顔をあげた。
その瞬間、春菜は高雄の頬をなぐりつけていた。枕で殴ろうと思っていたが、枕に手をのばすだけの心の余裕がなかった。
反動で高雄は布団に手をつき、真由美の顔から笑みが消えた。
「なにすると!」
どなったのは真由美だった。
「あんたに何の権利があって高雄殴っと! あんたそれでも教師や!」
「高雄君が生徒じゃないなら、人間と人間として、殴る」
春菜は立ち上がり、ひどく不当なことをされたような被害者的怒りを含んで見上げる真由美の目を見下ろした。刺すように冷ややかに。
真由美の怒りよりも春菜の怒りの方が強かった。真由美は思わず言い訳を口にした。
「う、裏切られたのは高雄やわ! 千佳には好きな男がおるんやから!」
「・・・誰を」
「知らんけど、おるらしいって! 仕事から帰った時えらい楽しそうやって!」
「・・・それだけで?」
春菜の怒りが殺気にかわった。真由美が必死に叫んだ。
「おるの! 高雄はうちに来る前から言いよったもん、千佳が高雄の方見てないって。捨てられたのは高雄やわ。あたしは高雄をなぐさめただけなんよ。なんであんたに口だされんといかんと」
「・・・千佳さんに本当に別に好きな人ができたとして、千佳さんが高雄君を捨てて別な男と暮らし始めたりしましたか。千佳さんは高雄君を裏切りませんでしたよ」
突然、顔にひやっとしたものがかかった。それは髪を濡らし、あごからしたたり落ち、シャツを濡らした。
牛乳?
いや・・・違う。高雄がりんごジュースをぶっかけたのだった。
「帰れぇ。ざけとんじゃなか」
うめくように言った。恨めしげに頬をおさえている。
真由美が笑いながらもう一杯のりんごジュースを春菜にかけた。春菜は目をつぶりさえしなかった。りんごジュースはこのにおいが嫌なんだ。
「帰りやん。あんた、関係ねぇて」
春菜は二人の間を通り抜けると、そっとドアを開けて外に出た。