3 猫はニャン吉 犬はワン太郎
始業式までの五日間を、春菜がどんな思いで待ったか!
コガタリユウサク。
あのコガタリ君の名前はなんだったろう。懸命に思い出そうとした。しかし思い出せない。ユウサクだったと言い切れるだけの記憶がない。しかしコガタリという名字は珍しいし、それに同じ年だ。コガタリユウサクがあのコガタリ君だという可能性は捨て切れない。
でもまさか。・・・まさか!
「朝霞さんどした?」
とうとう島村に声をかけられてしまった。
「はい?」
「みけんにたてじわ入ってるよ。珍しいんじゃない?」
「はぁ、そうですか・・・」
「よければ相談にのるけど」
「いえ・・・」
なんと言えるだろう。コガタリユウサクは私の昔の友達かもしれません。ずっとずっと会いたかったんです。それなのにコガタリユウサクがあのコガタリ君かもしれないことが怖いんです。怖くてたまらないんです。
なぜ? と島村は聞くだろう。しかし答えることができない。
「風邪ひいて頭が痛いんです」
「休憩室で寝たら」
「はぁ・・・」
春菜はそれ以上何か聞かれるのを恐れて休憩室へ向かった。しかし横にはならず、イスに座って組んだ両手の上に額をのせた。そしてまた考え始めた。コガタリ君の名前はなんだったか。今までに何度も何度も繰り返してきた作業をもう一度。出会った時から、すべての会話をたどり、口にしたことがあるはずの名前を思い出そうとする。
思い出せない。でもなぜ。
始業の日がきた。春菜はいつもより一時間早く起きて、一番いいスーツを着た。めったにしない化粧もした。
うわっ、せんせー今日どうしたの。きれー。と会う生徒ごとに声をかけられながら職員室にたどりつき、席でじっと両手を組んで、編入生を迎えに校長室まで行くよう連絡が来るのを待った。
炎の中から現われたコガタリ君。
だけど、あなたは宇宙に帰ったんだよね?
「担任の先生は校長室に生徒を迎えに来てください」
教頭が職員室まで連絡に来た。春菜の心臓がはねた。はねて肋骨を持ち上げる。
春菜は立ち上がろうとしてめまいに襲われた。目の前が紫色になる。机に手をついた。
行くんだ。
校長室は階段をおりてすぐ左にある。ドアはとっくに開いている。ほかの担任たちと一緒に春菜も中に入った。校長室の中には二十数人の生徒らしい男女が立っている。
コガタリ君!
コガタリ君であってほしい、のか。あってほしくない、のか。春菜は生徒達から顔をそむけた。そむけてまた見る。見てまたそむける。
何やってんだ私は。しっかりしろ。
「2のBの担任の朝霞春菜先生です」
教頭が紹介している。担任の紹介がすべて終わって、生徒たちは、教えられた自分たちのクラスの担任へと歩き出した。
女性二人が春菜の前で立ち止まった。
そして男性が二人。
一人は百六十五センチの春菜と同じくらいの身長で、もう一人は十センチほど高い。ふたりともそれほど際立って背が低くはない。男性なのだから中学校に入ってから伸びるのは普通かもしれない。
春菜は二人の顔をじっと見つめた。
背の低い方は、丸い眼鏡をかけていてぽっちゃりしている。似ていると言えば似ている。背の高い方は、どこか眠そうな目つきで、目の色は黒いというより茶色い。
「鈴木さんと、日高さん・・・」
女の子二人は、名前を呼ばれるとおじぎをしてかえした。
「高山君と・・・」
男性の片方、背の低い方が、やはりおじぎをした。残りの背の高い方が、古語裕作だった。
春菜は息をはいた。似てない。
「私が担任になる朝霞春菜です」
古語裕作には何の反応もなかった。
違った・・・。
コガタリ君ならきっと、私の名前を覚えていてくれるはずだ。
違ったんだ。
別人だったとわかって私はほっとしたんだろうかがっかりしたんだろうか。
春菜は四人をクラスへ連れていった。
古語氏は低くて柔らかい声で自己紹介をしたが、その中に高千穂町という言葉はなかった。
日常が始まった。
それは、生徒が盗んだバイクで暴走し捕まったのを警察にひきとりに行ったり家出を探しまわったり親が自殺したと言うので葬式の手伝いをしてやったり当人が事故にあったので輸血しに行ったりという日常なのだが、結局のところそれは他人のトラブルで、主役はいつも春菜ではなかった。
古語氏は何事もなく授業を受けていた。春菜も特に話しかけはしなかった。コガタリさん、と呼びかけたくなかったので。
水曜日。
一時間目の始まる前に、春菜は中庭に出て猫に餌をやっていた。あまり大きくないオレンジ色の猫で、どうやらこの東高校をねじろにしているらしい。
たいして猫好きでもない春菜がなんで毎日この猫に餌をやるはめに陥ったのかと言うと、おそらく最初見かけた時あまりにもやせていたからだろう。
春菜は気が弱い。誰かが何かが可哀相な状態に耐えられない。
このオレンジ色の猫がぺったりくっついた腹の皮をぶらさげて目の前を横切るのを見たとたん、この猫は今日死ぬ! と思い込んでしまった。猫が飢えているのを見ていながらほったらかしたためにこの猫は今日死ぬ。私のせいで死ぬ。
春菜は職員室に駆け上がった。そして弁当をつかむとすぐまた駆け下りた。弁当をぶらさげたまま校内中を走り回ったあげく、とうとう椿の下に寝ているオレンジ猫を発見した。
猫は近づいてくる春菜を見て逃げようとした。逃げる構えをとったままこっちを伺う例の猫ポーズだ。春菜はそれ以上近づくのはやめて、弁当を開けると卵焼きとウィンナーと焼き魚を置いた。そして立ち去った。
とりあえず猫が食べ物を食べるチャンスは与えたのだ。あとは猫がそれを食べようと食べずに死のうとそれは知ったことではない。 春菜は安心して、その日はもう猫のことは忘れてしまった。
次の日見に行くと、食べ物はなくなっていた。そしてオレンジ猫がまた同じところにいて春菜の顔を見てニイッとないた。春菜が毎日自分のお弁当の他に何か猫の餌になりそうなものを持ってくるようになったのはそれからのことだ。
今では春菜が中庭に出るのと同時にオレンジ猫がどこからか現れる。ところが春菜に餌をもらっているのをどう思っているのか決して体に触らせようとせず、春菜が3メートルは離れないと餌のところまで近づこうとしない。処女に違いない。と春菜は思っているのだが、それでもこの猫は自分を待っているんだと思えることは悪いことではなかった。
が、この日、猫が魚の骨を半分噛み砕いたところで、もう一人の登場人物が現われて声をあげた。
「あ、ニャン吉!」
ビクッとひげをふるわせた猫はひとっとびにすっとんで、灌木の向こうに走って行ってしまった。
「やだぁ。嫌われとるみたい」
千佳だ。白いほっぺたが夕日に赤い。
その顔を一目見て、何かあったなと春菜は気づいた。
「先生、お弁当の残りぐらいちゃんと持って帰ったら。ニャン吉にやったらいかんばい学校に住みつくやろ」
「あの猫ニャン吉っていうんですか。知りませんでした」
「なぁん、猫はニャン吉に決まっとろう。犬はワン太郎。うさぎはピョン吉。ハムスターはハムハム。きちもずはもず吉」
きちもず?
「島村せんせおらす?」
「いらっしゃいますよ。職員室に」
「うん。行こっかな」
と言いながら千佳は隣にしゃがんでしまった。驚いた。千佳には嫌われているような気がしていたのに、これはどうした風の吹き回しか。
店をくびになったんだろうか。そう言えば今日は比較的地味めのワンピースなんか着てるしなぁ。
「朝霞先生、あんたあたしの担任やがね」
「そのようですね」
「担任は生徒助けるの仕事やがね」
「そうでしょうね」
「じゃ、あたしを助けんといかんばい」
「・・・何かあったんですか」
「あったから相談しよるとやろ。にぶいわ」
「なるほど。じゃあ、何があったんですか」
「ここじゃ話できん」
「そう。じゃ休憩室に行きましょう」
休憩室は人がいないもんだから時折相談室に早変わりする。
春菜は休憩室の真ん中に設置してある丸テーブルの向こう側に千佳を座らせて話を待った。
「高雄が帰ってこんと」
と、千佳は突然言った。千佳のかけおちの相手、現在の内縁の夫だ。
「ずっと帰って来んとよ。バイクもないし」
そういえば後期が始まってずっと授業に出てきていない。千佳の方が出てきているので、仕事の都合だろうとぐらいにしか考えていなかったのだが。
「いつからいなくなったんですか?」
「休みん時から。試験終わって二日目ぐらいから」
だとするともう二週間近く行方不明だということになる。
大変だ。
バイク事故のニュースは? わからない。新聞を調べた方がいいだろうか。
「高雄君、名前とか住所がわかるようなもの身に付けてました?」
「ううん、全然」
「学校から警察に聞いてみましょうか」
と言ったが千佳は首を横にふった。
「無事なことは無事やと思う。けいちゃんが駅で見たって言ってたから」
「けいちゃん? って誰でしたっけ」
「店の人」
知らんわい。
「それいつごろ?」
「最近」
「はっきり思い出せませんか? 重要なことですよ」
「昨日」
昨日?
「じゃあ事故じゃないんですね。駅ってことはどこかから戻ってきたのか、それとも行くところか・・・」
「違う! けいちゃんが見たって言ったのが昨日で、けいちゃんはこないだ見たって言った」
「・・・・こないだっていつ」
「わからんそんなこと!」
言うなり、千佳は子どもじみた大声をあげて泣きはじめてしまった。
面倒だなぁ。
生徒が家出した場合は最悪の状況を想定して行動せよと言うけれど、最悪ってなんだろ、やっぱし自殺かな。そもそもこれって家出なんだろうか。
こういう時頼りになるのは島村先生なんだけど・・・。
「島村先生にはないしょなんですね」
と言ったら、意外にも、別に、と答えが返ってきた。
「だって、本当は島村先生の所に行きたかったんじゃないんですか? だけど言えないからしかたなく私にしたんでしょ?」
入学する時力になってもらった手前、高雄がいなくなって学校に来てないとはとても言えない、とか。
「違う。勝手に決めんで」
千佳はひどく不機嫌な顔をした。
「会えんだけ。今島村せんせに会えんと」
「どうして?」
「あんたには関係ないやろ!」
千佳は涙をぬぐって、あーっ、と息をはいた。自分でもどうしていいか分からない、という感じだ。
「あたし今日はもう帰る。授業休む」
「わかりました。何かわかったらすぐ連絡しますから」
「うん」
と立ち上がりかけて、千佳は、
「先生、うち、いい子やと思う?」
と聞いた。
「はぁ?」
どうしてそんなことを。
「いい子だと思いますよ」
「嘘ばっか」
「少なくとも悪い人間じゃありませんね」
「悪い人間だったらどうすっと」
「・・・・・」
なんだなんだ。
「それはつまり、千佳さんが何か悪いことをして、それが原因で高雄君が出ていった、ということですか?」
千佳の顔色が青黒くなった。
「全然違う! もう、あんたバカやわ!」
千佳はドアをガシャーン! と閉めて出ていってしまった。
春菜はしばらくシンとしていたが、頭を振って気を奮い立たせた。高雄を探さないと。
職員室に戻って島村先生に相談しよう、と、立ち上がったとたん、ドアが開いた。ドアを開けた人間は春菜には気づかなかった。大きな手で額をおさえ、体をくの字に折りまげていたので。
「島村先生! どうしたんですか!」
島村は春菜の声を聞いてびくんと顔をあげたが、春菜はその顔を見てぞっとした。いつも快活な島村が真っ青で、ひどく汗をかいている。どこか具合が悪いのだ。ひどく。
島村は慌てたようだったが、すぐにニッと笑って見せた。
「いやぁ、ぼけっとしてて渡り廊下の鉄柱に額をぶつけてな。痛ぇのなんの。その辺にしっぷか何かないか」
その声がひどくふるえている。
もしかして脳内出血してるかも。
「病院に行ったほうがいいですよ。私、車運転します」
「いやいや。明日の朝自分で行くよ」
「本当に? こういうパターンで次の日の朝家族が起こしに行ったら布団の中で死んでたってよく聞きますよ」
「大丈夫。俺一人暮らしだから」
島村は倒れるようにイスにつかまるとゆっくりと座り込んだ。春菜は冷蔵庫から氷をとりだし、タオルにくるんでわたした。島村はそれを額にのせて天井を向いた。
「それで、朝霞さんはなんでここに? 電気もつけないで驚いたじゃないか」
「いえ、ちょっと・・・」
と言いかけてあることに思い当たった。
「もしかして千佳さんとぶつかったんじゃないですか?」
「千佳?」
島村は氷タオルをとって春菜を見た。その表情で、この考えは間違いだったことがわかった。
「そうか、千佳と話してたのか。何かあったんだな。ああ、仕事クビになったんだろう。しょうがねぇなあいつは」
「そうじゃなくて、高雄君がいなくなったらしいんですよ」
「いなくなった?」
島村の眉が持ち上がった。
「いつからだ」
「もう二週間近くなります」
「熊本よりの北海道に帰ってるんじゃねぇの? ・・・いやそれなら千佳が知らんのは変か」
「四・五日前に駅で見た人がいるらしいんです。でもバイクもなくなってるって。あ、そうだ、駅にバイクがないかどうか調べた方がいいんでしょうか」
「待て待て・・・」
島村はもう一度氷タオルを額の上にのせた。そして、腹の上に両手を組んで、またじっと天井を向いた。
「・・・駅か」
そして、黙り込んでしまった。何か考えてるらしいので、春菜も黙ってしっぷ薬を探した。やがて、そのままの姿勢で島村が言った。「こういうのは、案外友達が知ってたりするもんなんだ。俺の知ってるかぎりではそれらしい事故もなかったしな。クラスに山崎真由美ってのがいるだろ。あれが町内に住んでんだが、千佳と高雄の両方と仲良かったろ。明日授業の前に行ってみるといい。それで何か知らないか聞いてみたら」
「聞き込み調査ですね。あ、それなら山崎さんは国語とってるから、今日私の授業に出てたら聞いてみますね」
「・・・・・」
島村はそれには答えなかった。
「朝霞さん、一限目授業入ってるんじゃないのか」
「あ、はい。でも先生大丈夫ですか。しっぷも見つからないし」
「いいんだ。氷があれば十分。もう少し休めばこぶもひっこむだろ。高雄についちゃ俺も心あたり探してみるから」
「すみません。・・・誰か呼んでこなくていいですか」
「いい。一人の方がいい」
春菜は休憩室を出た。ただ頭をぶつけただけにしては島村の様子がおかしいと思わなくもなかったが、春菜は島村を信じすぎていて、その言葉を疑うなんてことは考えてもみなかったのだ。
山崎真由美は授業に出てきていなかった。