26 はいびすかるほてる
「何か、おこったんですか?」
「地球が終わりになる日が決まったんだ」
古語はよろりと歩き出した。春菜もあわててあとに続く。身体が一気に冷えてゆくようだ。
頭をふきとばされた島村もどきの横をぬけて階段をおりる。下を向いたとたんに転げ落ちそうになって、春菜は壁で体をささえた。
古語がそれに気づいてふりかえった。そして戻ってこようとしたが、春菜はそれを手で制した。
「自分の体は自分で持ち帰りましょう。お互いに」
「無理するな」
「無理したい」
春菜はちょっと笑って、震えそうな足をふみだした。しかし、二段降りてとまってしまった。古語が動こうとせずに、春菜を待っていたからだ。
「なぜ止まるんだ」
「どうして行かないんですか」
「おまえが転げて来そうだからな」
「だったら、どいていた方がいいのでは?」
「そういう意味じゃない」
わかっている。春菜が倒れたら受け止めようと思っているんだ。わかっている。だけど、なぜかそれが今、どうしようもなく怖い。古語に触れるのが怖い。
倒れこんで、それが古語の胸の中で、そしてどうする。少女マンガみたいに頬でも染めようか。まさか。
春菜は足をふみだした。ふみだして、古語をつきのけるように、降りていった。
古語は黙ってあとから降りてくる。
大人気ない。
自意識過剰。
恥ずかしい。
恥ずかしいと思った。古語に何と思われているんだろう。恥ずかしかった。
「火は消えたな」
中庭におりて歩きながら古語が言った。
「あの、知覚迷宮って言ってましたけど、ここには永久に誰も来られないってことになりませんか。迷宮を解いてくれる人が死んでしまったんなら」
「迷宮の効果はそろそろ時間切れだ。むしろわたしたちも急いで出ないと人が来てしまう」
「あ・・・そう、なの」
「? なんだその歯切れの悪い言い方は」
「だって、あなた上何も着てないから。そんな格好で町の中を歩くのはよくありませんよ」
「いきなり教師口調になるな」
と言った途端、古語の右手に白いシャツがあらわれた。
「えっ!」
「言っただろう。これは物置なんだ」
古語の言っているのは左手の腕時計のことだ。
「この中にはいろんなものが入っててな。これがあればおまえらみたいにカバンなんか持ち歩かずにすむ」
「ふうん、ドラえもんのポケットみたいですね」
「まぁそんなもんだ。四次元につながってるわけじゃないが」
古語はドラえもんに詳しかった。
「じゃあ私にももう一つ出してくれませんか? 血まみれで歩きたくないし」
「ああ・・・男ものだぞ」
ひょいと出してくれたYシャツをもらって、ちょっと考えた。着替えなければならないわけだけど・・・。古語は何も考えていない顔で春菜を見ている。そういえば古語から見ればこっちは猿なのだから、脱ごうが何しようが気にするはずはないのだ。むしろ私が気にすることの方がおかしい。やっぱり自意識過剰か。
春菜はおもいきりよくTシャツを脱いだ。が、古語がギクリとした。それがわかった。とたんに恥ずかしくなった。すばやくYシャツをはおって、ボタンを止めた。
古語が、何か言わなければと思っているようだった。春菜も、何か言わなければと思った。でなければこの緊張した空気がよけい重たくなってしまう。互いに何か言わなければと焦りながら、奇妙な時間が過ぎてしまった。
「どうしておまえたちの胸は左右にふくらんでいるんだ」
古語が聞いた。
「子どもにお乳を飲ませないといけないから」
ほっとして春菜は答えた。
「犬や猫の胸はふくらんでないんじゃないか」
「ふくらんでるけどあまり目立たないだけだと思いますよ」
今なら、乳房をつかまれたら、悲鳴をあげるかもしれない。
通りに出ると早朝だからタクシーばかりが走っている。古語はそれを一台止めて春菜を先に乗せ、自分もあとから乗りながら運転手に言った。
「はいびすかすほてる」
・・・・ホテル?
春菜は思わず片眉を上げて古語の顔を見た。
「そこでおまえを待っている人間がいる。会うんだ」
「あ・・・」
春菜は赤くなった。何考えてるんだ私は。地球が滅びる日が決まったって言われて、変な疑いを持つなんて。だいたい古語がホテルで何するって。人種も違うのに。
運転手は不思議そうな顔でバックミラーをちらちらのぞいている。
夜明けに若い男女。憔悴しきった表情だがしかしホテル帰りでもなさそうで、何やらほこりまみれ黄色まみれになっている。これで不審をさそわなければむしろ不思議なぐらいだ。
それでも運転手は好奇心を押さえきり、二人は警察署ではなくちゃんとハイビスカスホテルについた。眼前には日向灘が開けている。
タクシーがその銀色に華麗なフロントドアに横付けされた時、春菜はそこに、黒いスーツを着た島村先生が立っているのを見た。
ふうむ・・・。
人間というものは、ものごとが自分の理解の範囲を越えていると腹がたってくるもので、この時の春菜もそうだった。
だいたいさっきニセモノの島村先生を撃退したばかりだというのにまたも島村先生が出てくるというのは芸がなさすぎやしないか。
ダブルの黒スーツの島村先生は、何やら髪もきっちりなでつけて、古語と春菜の乗ったタクシーを迎えた。
春菜は古語と視線をあわせ、古語もまた驚いているのに気づいた。
古語は春菜に降りないよう手で合図すると、銃を手にして車から降りた。
「どこの星の者だ。その変化はよせ。あまり受けない」
島村は寂しそうに笑った。
「これは俺のオリジナルだよ。俺の偽物が出たのかい?」
「よせ」
古語は銃をつきつけた。
「島村が春菜に結婚を申し込んだ時に持って行ったのは薔薇の花か、それともダイヤの指輪か」
島村はわずかにうろたえて春菜を責めるように見た。
「朝霞さん! こいつに話したのか! なんなんだ薔薇だのダイヤだの」
春菜は車から降りた。そして、島村をまじまじと見つめた。
「・・・島村先生?」
「おう」
古語は春菜を見た。
「本物?」
「たぶん」
「おい、待て、じゃあどうしてこいつがここに・・・」
それを島村が手で制した。
「悪かったな古語君。君が地球人じゃないことは実は知ってたんだ。君の上司は二年前にわが国首脳陣に朝霞春菜のために地球が終わりになるってことを知らせてくれていてね。それから我々は共同で対策をたててきた。俺は防衛省の人間だが、すぐさま高鍋定時に赴任した。朝霞春菜・・・君を近くから見守るために・・・。いや、そうじゃないな。・・・君を監視するために」
島村は寂しそうに笑った。
「先輩面して近づいたんだ。怒ってくれていい」
怒ってくれていい。と島村は言った。
春菜の目に、涙があふれてきた。
「じゃ、先生は知ってたんですね。知ってても、それでもあんなに,親切にしてくれたんですか」
島村は目を見張った。そして、春菜の顔をのぞきこんだ。
包みこむような微笑みを浮かべて。
「朝霞さん、まさか、それだけで俺を許そうっての?」
熱い塊が春菜の頬を流れ落ちた。本当のことを知れば、どれほど私を憎み、恨むかと思っていたのに。
この人はどうして私が許せるんだろう。
「朝霞さん」
島村が両腕で春菜をつつんだ。涙のせいか、島村にふれているせいか、全身が鳥はだがたつほどしびれている。その権利があるのなら、抱きついて泣きたかった。
島村は春菜の髪と背中をゆっくりなでている。慰めるように。
「おい、迎えに来たんじゃないのか」
イライラする古語の声が聞こえた。
「部屋で待ってるんだろうが。行くぞ」
島村は春菜の背中をぽんぽんと二回たたいてはなした。春菜はシャツのそででぐいっと顔をふいた。
がんばれる。
「古語さんが、誰かが私を待ってるって言ってたんですが、島村先生のことじゃないんですよね。誰なんですか」
「俺を派遣して君を監視させた人間だよ」
「あ! 待って。さっき古語が地球人じゃないって知ってたって言いましたよね。島村先生は古語が私の別れた夫なんかじゃなくて異星人だってこともちゃんとわかってたんですね!」
ちょっと腹がたってきたぞ。
「いやぁあの時は分かってなかったよ。本気で焦ってた」
島村はあっさり否定した。
「朝霞さんに近づく妙な男がいると国に報告したら、それは宇宙人側からの監視だと知らされたんだよ」
ああ、なるほど・・・。
待って、本気で焦ったって・・・。
「行くぞ」
古語が歩き出した。春菜と島村もあわてて続く。
三人はエレベーターに乗り込んだ。春菜は島村に聞いた。
「ある人って誰なんですか」
「朝霞さんもよく知ってる人だよ」
春菜の胸が高鳴った。
まさか・・・。
「・・・コガタリ君?」
古語が小さくせきばらいした。
「いいや。地球人だ」
春菜はあやうく失望のため息をつきそうになった。
「コガタリ君に会いたい」
小声でつぶやいたが、誰も答えなかった。