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20 スーパーヒーロー

  無意識のうちに国道十号線を北上していた。南下すると鹿児島につくが、鹿児島より南はもうない。逃げ場の多い北へ向かおうと無意識が命令したらしい。

 ポーチの財布には二万円程入っていたはずだ。とすると、軽だしガソリン代は十分にある。 異星人たって地球人に正体知られるわけにいかないんだったら、円盤飛ばしておっかけてくるわけにいかないし、犬だの猫だのの姿では車にはかなわないだろう。

 だいたい、ニャン吉は私がどこに逃げても無駄だなんて言ったけど、ただのおどしかもしれないじゃないか。逃げればいいんだ。地球最後の日まで、逃げる。

 山の中にでも? 

 今頃病院じゃ大騒ぎだろう。お母さんはどう思ってるだろう。

 走行距離の数字が一つずつふえていくのを祈る思いで数える。それだけ高鍋から遠ざかる。一キロ、一キロ・・・。

 六十キロ走って日向についた。岩礁がんしょうの広がる海が見える。宮崎の真っ青な海。空よりもはるかに青い。そして白い砂浜。十月だってのにまだサーフィンしてる人たちがいる。こんなに寒いのに・・・。

 寒い・・・。

 違う、まだ十月。こんなに寒いはずない。体がだめになってるんだ。私の体がだめになって、寒いんだ。

 シートに預けているはずの体がもっと倒れたいとわがままを言う。

 倒れたい。寒い。眠りたい。

 ハンドルを握る指が石のようにかたまってひらかない。しびれている。

 しかし春菜は走った。アクセルをふむ。逃げたい。意識がある限り、体が動く限り、できるだけ遠くへ、逃げてやる。アクセルをふむ限り車は動く。ぶつかりさえしなければ、動かしてやる。

 さらに四十キロ走って、延岡。ここをすぎたら大分に入る。時間は午後二時五十二分。今日中に鳴門大橋を渡れる。本州に入れば、きっと隠れられる。逃げられる。


 地球最後の日まで。


 その時、車内に[鉄腕アトムのテーマ]が鳴り響いた。

「・・・・・?」

一瞬何のことやらわからなかった春菜は、バッグの中の携帯電話が無事だということに気づいた。

 ゾクリとした。

 誰から? 

 絶望に目の前の色がみんな紫色にかわってゆく。


 ドコニニゲテモムダダ。ドコニニゲテモムダダ。


 電話の向こうの声が同じ言葉をささやくとしたら。

 いや、古語だったら? すぐに戻ってこなかったらおまえの母親も生徒も教師たちも殺す。なんて聞き飽きた言葉をくりかえし・・。

 春菜は唇をぎりっとかんだ。


    空を越えてラララ星のかなた。

   行くぞアトム ジェットの限り

    心優しラララ科学の子

    十万馬力だ鉄腕アトム


 谷川俊太郎たにがわしゅんたろうが作ったんだよって、現代詩の授業の時教えたっけ。

 あきらめない。犬死にしない。黙って殺されてたまるもんか。負けない!

 春菜は車を走らせたまま携帯電話を取りだした。

「アサカハルナです」


― ・・・先生・・・。


 車は、ちょうど延岡の市街を走っていた。旭化成の工場が東にも西にも見える。

千佳ちかさん?」

松尾千佳だ。


― ・・・先生・・・。あたしのこと怒っとる?


 春菜の精神はもう教師でいようとしてはいなかった。春菜は今ただの人間だった。電話を切ろうとした。切らなかったのは、いったん肩と頬の間にはさんだ電話に手をのばすのが今の体力ではひどく苦痛だったからにすぎない。


― 昨日来てくれんかったわ。あたし待っとった。ほんとに待っとったとに。

   ・・・先生、どしたと? なんで何も言わんと。


しかし春菜には何かを言ってやる気はまったくない。


―  先生、もうすぐ手術なとよ。あたし怖いと。怖いとよ。

    おなか切るんだって。先生知ってたんやろ。

    なんで教えてくれんかったと。嘘つきやわ。

    医者の先生が、朝霞先生にも来てもらえって言っとる。

    でなきゃ親に来てもらえって。やかい来てよ先生。

    ねぇ、親呼べってどういうこと? あたし死ぬかもしれんってこと?

    なんであたし死なんといかんと。なんであたしだけ死んで高雄は平気なと。

    高雄の精子であたしが死ぬってなんやそれ。

    先生、お医者の先生が親か先生に来てもらえって言いよるとやかいね。

    来んとか言わんやろね。あたし親おらんとばい。

    お父さんお母さんとケンカして出てってさ。

    お母さんは、あたしがおると再婚できんかいって、一人で出てった。

    あたし一人でどうすっとよ。十八って大人なと? 

    一人でなんとかせんといかんと?   

    甘えとるのはあたしなと? もっと小さくてもがんばっとる子がおるってさ。

    やけん、生まれたばかりで捨てられる子がうじゃうじゃおったってあたしが一人ぼっちなのはなんも変わらんわ。

    あたし腹切るったいね。

    あたしが悪いと? あたしのせい?

    お医者の先生が怒るとよ。無責任なことするから、こんな目にあうんやって。

    なんか毛とかそられて。

    先生、怖いと。あたし、注射もたくさんしてさ。

    なんで手術の前に注射すっと?

    これなんなと? 先生嘘ついたわ。なんでもないって。

    死んだら先生のせいやわ。恨むかいね。先生、絶対許さんかい! 

    ・・・先生、なんで黙っとると? どこおっと今? 

    先生・・・助けて。手術六時からって。もう二時間ちょっとばい。


 春菜はまっすぐに顔を上げた。携帯電話は支えを失ってカラカラと座席の下に転がっていった。







 五時四十五分。

 喜多きた産婦人科。

 千佳は手術用のベッドにうつされた。はだかんぼにストーンとした服着せられて、なんだかかまぼこになったようだった。看護婦がかまぼこを見る目で見ているような気がした。

 いいわ、うちが死んだら、高雄も安心して真由美とくっつけるし。どうせ今も真由美んとこおるとやろ。

 なんで。堕胎だたいって簡単やなかったと。何度も何度も堕ろす人っておらすばい。なんでうちだけこんなんなっと。

 千佳は悲しかった。悲しくて悲しくてたまらないのに涙は出ない。かまぼこは涙を流したりしないのだから。

 手術室は一階にある。ベッドに寝たまま運ばれて、やっぱりそのままエレベーターに乗せられた。大きなエレベーターだ。

 二人の看護婦はまるきり口をきかない。エレベーターの扉が閉まり、下降をはじめた時、千佳は耐えられなくなった。

 「朝霞先生来とらん?」

もちろん千佳をかまぼこだなんて思ってるわけもない看護婦さんは、優しく教えてくれた。

「あ、あなたの担任の先生でしょ? あの若い女の先生。学校に電話してみたらおとつい交通事故おこして町内の山藤やまふじ外科に入院したらしいのよ」

「・・・交通事故!」

千佳は目を見はった。

「それで、大丈夫なと」

「うん。もう松尾さんの入院費も手術料も払ってくれてるからなんにも心配いらないのよ」

そう言って看護婦はにっこりと笑った。

「そうじゃなくて! ケガは? 死ぬと?」

「命に別状はないようだけど、まだ意識は戻ってなかったんじゃないかな。たぶん松尾さんの方が先に退院するだろうからお見舞に行くといいわ」

「意識が戻ってない?」

でも、さっき確かに電話に出たのに。

 あれは誰だった? 

 エレベーターが一階につき、扉が開いた。薄暗い廊下には灯りもつけられておらず、寒々しい中をベッドの動くカラカラという音だけが響く。

 千佳は恐ろしい寂しさを感じた。

 朝霞先生が死んだらどうしよう。あたし一人ぼっちだ。朝霞先生が死ぬのと、あたしが死ぬのと、どっちが寂しいだろう。

 その時、廊下の一番向こう、玄関のガラスの開き戸がキイッと開く音がした。

「止まって!」

千佳は叫んだ。

「先生やわ!」

「ええ? まさか・・・」

看護婦はベッドを止めずに苦笑してガラス戸の方をふりかえった。

 看護婦の足が止まった。ベッドも止まった。

 入ってきたのは、確かに朝霞春菜あさかはるなに違いなかった。薄暗い中をゆっくりと歩いてくる春菜が何かこの世のものではないように見え、看護婦は思わず一歩あとずさった。

 春菜はベッドの上の千佳を見おろした。

「ちょっと用事があって昨日はこれなかったんですよ。ごめんなさい。これから手術?」

「・・・・・」

千佳は何も言わずに右手を差し出した。春菜はその手を両手で握りしめようとして、痛みに顔をゆがめ、右手だけで握った。

 春菜の額の右側は、打撲のために紫色に変色してしまっていた。紫というより黒かった。顔色も真っ青で亡霊のようだった。看護婦は思わず春菜の足もとを見たほどだ。

 が、春菜はいつもどおりの平静な表情で言った。

「何も怖がることはありません。島村先生がここの医者は腕がいいって言ってたんです。島村先生のこと信じているんでしょう。怖がったら島村先生を疑っていることになります」

千佳はうなづいた。

 信じていた。春菜を。

 信じる。何もかもを。神様も。

 涙があふれて流れた。自分の涙を生まれて初めてあたたかいと思った。嬉しかった。嬉しくて涙が流せるって、こんな幸せなことが、この世界にはあったんだ。

 春菜は青白い顔色で、しかし妙に力強く続けた。

「あのね、千佳さん。私、どうしても抜けられない用があって、千佳さんの手術が終わった時ここにはいないと思うんです。麻酔ますいめた時私がいなくても、一人ぼっちだと思っわないでください。私はずっと千佳さんのことを思っているから、忘れないでください」

 千佳はこくこくうなづいた。


 「もう時間ですから」

看護婦が言った。ベッドが手術室に入ろうとする時千佳が言った。

「先生・・・! あたし、怖くないわ」

ベッドは手術室に入って行った。

 がくっ、とひざが折れて、春菜はその場に手をついた。寝転んでしまいそうになるのをかろうじてこらえて、ぐっと足に力を入れて立ち上がる。


 ありがとう千佳さん。


 私なんかを必要としてくれてありがとう。呼んでくれてありがとう。おかげで私、無駄死むだじにじゃなくなったんだよ。

 変な話だが、千佳に「助けて」と言われた瞬間、八つ裂きになって死ぬ覚悟が決まった。誰かにいてほしいと言われ、生きた意義があったのなら、死ぬ前に役割をはたせたのなら、もう死んでもいい。

 今の春菜には息をすいこむことさえおっくうだ。ここで倒れて眠ってしまいたい。眠っているうちに、異星人たちが来て八つ裂きにしてくれるだろう。気持ちよく、あとかたもなく。

・・・異星人が襲ってくる?

 春菜は今点灯したばかりの、[手術中]の赤いサインに背を向けた。

 この病院の中にトラブルを持ち込むわけにはいかない。


 せめて、地球最後の日まで。


 春菜は薄闇の中に出ていった。

 春菜の選んだのは、東高校だった。






 

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