17 プライド
「先生だそうですね」
診察の後、千佳に知られないよう医者に呼ばれた時から嫌な予感はしたのだ。本人に言えないことなんてろくなことじゃない。
「はい。東高に勤めております」
「誰が生徒か先生か、ですねぇ」
「は?」
春菜の年が若いことをからかったらしい。
「東校なら島村先生がいるでしょ。あの人はしょっちゅう生徒さんつれてここに来るんですよ」
知っている。あまりうるさく言わずに堕胎させてくれる医者なのだ。しかも腕がいい。
「はい。島村せん・・・島村から先生は名医で失敗の無い方だとうかがって・・・」
「失敗はありますよ」
医者は妙なところでりきんだ。
「世間じゃ堕胎手術を簡単に考えとるが、わたしだっていまだに怖いよ。百人に一人は死ぬね。子どもの産めない体になったりね。手術は成功しましたが患者は死にましたってね、そういうことにするから問題にはならんけど、こんな命を落としやすい手術もないとよ。まぁどっちにしろ命一つつぶしはするがねぇ」
「・・・・・」
変な医者だ。さすが島村先生と懇意なだけはある。
堕胎は医者でも嫌だろう。だが、男にやり逃げされて妊娠し、茫然自失、自暴自棄の女子生徒に教師がしてあげられることは、できるだけ早く堕胎できるよう手をつくしてあげることだけなのだ。
「ま、そんなことはどうでもいい。先生にちょっと相談やけどね。実はまずいことがあるのよね。受精卵が子宮に着床しとらんのやわ」
「え?」
「着床ってわかるや?」
受精卵が子宮に落ち着くことを着床という。
「はい」
「そう、えらいえらい。実はね、受精卵が輸卵管で止まっとるのやわ。そこで分裂をはじめちゃったもんだから、このままだともうじき輸卵管が破裂するね」
笑顔さえ浮かべて説明する医者の顔を、春菜はまじまじと見つめた。
「つまり、子宮外妊娠ですか?」
「そ、難しい言葉をよく知ってるじゃないの」
『ブラックジャック』で読んだことがある。確かアイドルが大出血をおこして死ぬ目にあったはずだ。ピノコや新聞記者がシキューガイニンシン! シキューガイニンシン! と大騒ぎをしてたあれか!
「手術は難しいよ。それこそ、手術は成功しても患者は死ぬってことになりかねない。あらかじめその覚悟はしていてもらいます」
医者の顔から笑みが消えた。きっと今までに何度も、必死の努力もむなしく若い命が消えて、家族からののしられることがあったんだろう。
「それから金のことやがね。普通の場合は三ヵ月なら7、8万ですむんだけど、まぁだいたい二十万かかるよ。入院費は別にして。お金の方は大丈夫なの?」
医者はまるでブラックジャックのような事を呟いた。
「大丈夫です。手術の前にお支払いします」
医者はニヤリと笑った。
「だから失敗しても安心しろか? あんたも結構皮肉だねぇ」
別にそういうつもりではなかったので困ってしまったが、この際なんでもいいから助けてほしいのだ。
「手術は二日後、日曜になりますよ。準備がいるからね、いろいろ。生徒さんは今日から入院させてください」
「え、日曜?」
「ん、なんかいかんの? デートの予定が入ってるならデートに行きなさいよ。手術はこっちでやっとくから」
「・・・・・」
春菜の顔色に目をやって、医者は初めて真顔になった。
「どうしたの? 具合でも悪いのね」
忘れていた。どうして忘れてなんかいられたんだろう。ニャン吉の言葉を。
日曜の夜八時。おまえは八つ裂きにされる。
「日曜・・・何時頃になりますか」
「さあねぇ。何件もつまっとるんで、夕方ぐらいかな?」
それなら間に合う。
お願いしますと頭を下げ、千佳の病室に顔を出し、また明日来ると約束して病院を出た。病院に来る前に千佳のアパートに寄ってきたので入院の準備はできていた。
それから学校に向かったら、ぎりぎりで授業に間に合った。古語が獣の瞳で教壇の春菜を見つめた。
爬虫類め・・・。
春菜は心の中で差別用語を口にしながら、それでもいつもの涼しい顔で授業をした。
作ったノートそのままにすすめはしたが、ちっとも気が入らない。Kの自殺の理由が何であろうと知ったことじゃない。好きなだけ明治の精神に殉死してくれればいいんだ。どうせ自殺するんだったら私のかわりに八つ裂きになってくれればいいのに。
大好きな夏目漱石をののしりながら授業を終え、走るように教室を出ようとしたが、その前に古語がぬっと立ちふさがった。
「職員室には行くな」
低い、春菜にしか聞こえない程の声だが、それでも生徒たちが注目している気配がする。春菜はぐっと古語をにらみつけた。
こんなところでささやきあっていたらどんな誤解をうけるかわかったものじゃない。島村先生の例もあるし。
春菜はわざとはっきりした声で言った。
「職員室に行かないと教材がありません」
古語はわずかにひるんだが、やはり小声で言った。
「今持ってるじゃないか。そのまま次の授業に行くんだ」
「今度は三年生ですから、教科書が違うんです。そこをどいてください」
「・・・じゃあわたしも行こう」
古語は先に立って歩き出した。
「職員室が何だって言うんですか」
「島村だ。あの男と話をするな」
「島村先生? なぜ?」
「おまえはあの男に気を許しすぎている。奴とは話をするな。あの男の命が惜しいんだろう?」
「話しません」
そんな覚悟はとっくにできている。誰にも頼らない。
古語はうなずいた。
「そうか、ならいいが、監視はするぞ」
春菜は軽く驚いて古語を見上げた。
ちょっと待って。そんなに簡単に信じるわけ。
古語は安心したように歩いて行く。この男の星じゃ本当に誰も嘘をつかないんだ。もしかして地球にやってきてモーゼに十戒を教えたのは古語の星の人だったのかも、と思いかけて、古語が[汝殺すなかれ]を目一杯破っていることを思い出した。嘘つかなくっても平気で人を殺すんじゃろくな星民じゃないな。
途端に古語が振り返ったので春菜はギクリとした。まさかテレパシーなんか使うんだったらどうしよう。
「おまえ、さっき家に居なかったな。どこにいた」
「うちに電話したんですか」
「いいや。おまえのところに電話しても出るのは留守番電話だ」
「留守電? そんなものつけてませんけど」
「ああ、わたしが細工したんだ。電話線を切っただけでは電話局がなおしにきてしまうからな。外からおまえの家にかけると留守番電話になる。おまえが外にかけようとしても絶対にかからない」
「・・・・・」
怒りが腹の中を駆け巡って、消えた。
怒ったところで何ができるというのか。
「じゃあどうして私が居ないことがわかったんですか。盗聴機でもしかけてあるんですか」
めいっぱいの皮肉のつもりだったが古語には通じない。
「いや。家まで行ったんだ」
「え? 島村先生と学校に来たんでしょ?」
「来たさ。しかたないだろう。来てから島村と離れてまた戻ったら誰も居なかった。すれ違ったのかと思ってまた学校に来たがおまえは居なかった。ならどこかに行ってたということじゃないか」
そりゃあまたごていねいに。
「どこにいた? 言え」
「言えません」
春菜はあっさりと言った。古語がたじろぐほどにあっさりと。
「言え、と言ってるんだ」
「これは人類の滅亡とは何の関わりも無いことです。あえて言うなら人類の滅亡の四十五億分の一ぐらいの関わりしかないことなんです。他人のプライバシーを犯すことになりますから、言えません」
古語は変な顔をした。
「ぷらいばしぃとは何だ」
「・・・はい?」
「日本語にしろ」
「だから、それは、ある人が人に知られたくないと思ってるデリケートなことだから、私が他人にもらすわけにはいかないんです」
「でりけぇと?」
古語はまた顔をしかめた。
「なんだそれは」
「なんだって・・・デリケートはデリケートでしょ」
「・・・・・」
古語は顔をしかめたまま何か考えているようだったが、やがて小さく舌打ちした。
「外来語だな。日本語にしろ」
「・・・・・」
「日本語にしろ!」
デリケートって日本語でなんだろう。
「・・・繊細、かな」
「なぜ最初からそう言わないんだ!」
「それが日本語の不思議なところ」
古語はイライラと渡り廊下を歩いて、職員室についた。
古語はどうやら純粋な日本語、正確に言うなら和語と漢語しかわからないらしい。
おそらく地球に来ていた宇宙人たちは、日本語、英語、中国語、などを別々に集めストックしたのだろう。
古語が地球の言葉を見事に話すのは地球に来てから勉強したわけじゃなくて、例えば地球の日本語データベース、のようなものがあって、古語の脳味噌に移し込むことができるのかもしれない。だから古語の頭には日本語しか入っていないわけだ。
ということは、英語で話せば古語にはわからない!
古語は職員室に入ろうとはしなかった。さすがに職員室の中に生徒の立場の自分が入るのは不自然で目立ちすぎると考えたのだろう。
春菜だけが、職員室の中に入って行く。
春菜の隣の席には島村が座っている。
春菜は近づいて行く。
島村が春菜に気づく。
ふりむく。
そして、待っている顔をした。春菜が何か言うのを、古語のこと千佳のこといろいろなことを説明するのを、待っている、顔だ。どれほどの面倒を持ち込んでも、島村は面倒だとは思わないだろう。
春菜は英語は苦手ではない。いや、そんなに流暢にしゃべれなくたって構わない。
ヘルプ・ミー。アイム イン トラブル。それだけでいい。小声でそれだけ。島村はきっとなんとかしてくれるだろう。
助けて! 助けて! ヘルプ! ヘルプ!
春菜は机に戻ると、島村と視線をあわせず、自分のイスに座りもせずに、教材を取り替えた。そして島村に一つ頭を下げて、職員室の外へ歩いた。
島村が見送っているのが気配でわかる。
言えなかった。言わないほうがいいと感じてしまった。
何故。
二人だけで話せる機会を作ってほしい、と言うだけでもよかったのに。せめて古語は元夫なんかじゃない、とだけでも言えればよかったのに。
島村先生を巻き込みたくなかったから?
いくらなんでも島村先生の手におえない問題だから?
職員室から出た。古語もすぐ後ろをついて歩き出した。そしてひそっとささやいた。
「約束を守ったな。」
「 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
ああ・・・・・。
話さない、と言ったから話したくなかったんだ。悔しかったんだ。古語に嘘をつくのが悔しかったんだ。
地球人が古語の星の人間とくらべて下劣な卑怯者だと思われたくなかった。古語にさげすまれたくなかった。
私、助からないだろうな。
春菜は思った。