16 不倫は文化ではありません
「千佳!」
千佳は立ちどまった。そしてそっとふりかえって、にこっとした。大きな目がちっとも動いていないので、かえって悲しげに見えた。
「千佳、どうしたんだ? 朝霞先生に話か?」
春菜は島村を見た。
島村は千佳が高雄に捨てられたということを知っている。そのことで春菜に話をしに来たのだと知っている。そして知らないふりをしている。
「千佳さん。とにかく入って、中に」
春菜は千佳が帰ってしまわないようにかけよって手を取った。
「朝霞さん、教頭には生徒指導で遅れると言っておくからゆっくり話をするといいよ。古語さん、やっぱり君は俺が送るよ。行こう」
島村は古語の腕をつかんだ。地球人なんかにひっぱられる古語ではなかったろうが、さからって事を荒だてるわけにもいかないと判断したのだろう、むっつりとしたまま島村につれられて階段をおりて行った。
「さ、入って入って」
島村のことが心配だけど、島村は千佳のことを春菜にたくしたのだ。今はその期待に応えなければならない。
真由美のことを知ってしまったんだろうか。ひやりとしながら、春菜はドアをあけて千佳を中に入れた。
「え〜と、コーヒーでいいですか?」
千佳はテーブルの上に倒れたコーヒーカップを見た。
「どっちが来とったん?」
「え?」
「今の二人。どっちかが来てたんやろ?」
「ああ・・・島村先生が」
「やっぱり!」
千佳は顔をゆがめて座りもしない。
「昨日私がケガしたんで様子を見に来てくれただけだけど(ホントは違うけど)、島村先生が来たらなにかいけなかったんですか」
千佳はじっと春菜を見上げて、 ― 千佳は小さな子だった ― 首をふった。
「別に・・・」
「島村先生に相談してもいいって言いましたよね?」
「だから別にって言いよるばい! しつこいこと言わんで!」
「・・・・・」
春菜は黙ってコーヒーカップを下げると、洗って新しいコーヒーを淹れてだした。
「・・・なんか怒ってるんですか?」
「怒っとらん!」
千佳は一口コーヒーを飲んで、
「すっげぇまずい」
「インスタントですから」
「淹れ方が悪いんやけん」
「その可能性もあります」
「・・・先生、あたしのこと馬鹿にしとう?」
「は?」
「馬鹿にしとるやろ」
「・・・・・」
なんだろう。
春菜は考えた。何をこんなに、目に涙を浮かべて怒っているんだろう。昨日真由美の家に行ったのがまずかったのかな。あのあと高雄が千佳のところに行って、結局別れ話しでまとまってしまったとか。
が、千佳は言ったのだ。
「先生、生理がこん」
「・・・・・?」
「もう二ヵ月・・・」
千佳は挑むように春菜を見つめている。
生理がこない?
という意味を理解するのにたっぷり二秒かかった。理解して、それが地球生命の滅亡と比べてあまりにもくだらないのでがっくりした。
どうせ地球の全生命は滅びるのだから、その子供はほったらかしても生まれてきません。
が、そこで春菜は内心はたと立ち止まった。地球はいつ滅びるんだろう。そういえば時期を聞くのを忘れていた。
二ヵ月生理がこないということは妊娠三ヵ月目に入っているということだ。ということはあと半年人類が滅びなければ赤ん坊が生まれてきてしまう。
あと数年のうちにふっとぶのだ、ということだったらもっと大変だ。そりゃあ地球的には数年は一瞬だろうけれど、赤ん坊は生まれて成長してしまうだろう。となると正式に結婚もしていない、それも今や別の女と暮らし始めている男の子を生んでしまうことになるわけだ。
面倒なことになったなぁ。
どうせ死ぬのだから堕ろせとも言えないし、滅亡の日まで育ててやったらどうかとも言えないし。
「千佳さん。まず、妊娠してるかどうかをはっきりさせましょう。病院に行くんです」
しかし千佳は首を横にふった。
「病院が怖いんですか?」
首を横にふった。
「はっきりわかるのが怖いんですか」
うなづいた。
「千佳さん。世の中でこれ程にできるだけ早く調べなければならないことはないんです。赤ん坊はほっておくとどんどん大きくなって、あなたのおなかを押しあげるんですから」
[赤ん坊]という言葉を聞いて、千佳は眉をひそめた。
「産むにせよ堕ろすにせよ、決断は早くしないといけないんです」
「産まん」
妙にはっきりと千佳は言った。
春菜は内心ほっとした。それなら話は早い。
「だったらなおのことすぐ病院に行かないと。堕ろすならできるだけ早い方がいいんです。とにかく今日病院に行って今日堕ろす、というわけじゃないんですから、とりあえず本当に妊娠しているのかどうか調べるためだけでも病院行きましょう」
「すぐ堕ろす」
千佳は断定的に言った。
「今のうちに堕ろすとよ。高雄が帰ってこんうちに」
春菜はハッとした。高雄が帰ってこないうちに堕ろす?
昨日真由美が、千佳には好きな男がいるのだと言った。
正しいのは高雄の方だったのか! しまった。殴ってしまった。かわいそうな高雄。
「高雄君の子どもじゃないってことですか」
とたんに千佳は目をむいた。
「何言いよっと! 高雄の子に決まっとるが! あたし高雄以外のもんとセックスしたことないとばい!」
「あ・・・」
春菜は赤くなった。しかし高雄を殴ったのはやっぱり間違ってなかったらしい。
「ごめんなさい」
「先生あたしのことなんて思とったと!」
「ごめん、ほんとごめん。千佳さんが高雄君を裏切るわけないのに」
千佳は突然口をつぐんだ。そしてうつむいた。
「? どうしたんですか?」
「・・・・・」
「千佳さん?」
春菜は千佳がもう一度顔をあげるのを待った。
冷え切ったコーヒーを飲んだ。
それにしても、生きとし生けるものがすべて絶滅しようというときに私たちはいったい何をいたしておるのであろうか。小さな生まれてもいない命を殺す殺さないで大騒ぎ。
「先生あたしのこと軽蔑するわ」
突然顔をあげて千佳が言った。
「しません」
春菜は反射的に断言した。
「なんで聞きもせんうちからそんなこと言えっと!」
千佳はヒステリックに叫んだ。
「言えるんです」
春菜はひやりとするほど言い切った。千佳のヒステリーは水をかけられたようにおさまった。かわりに大きな瞳で春菜をまじまじと見つめた。
「なんで?」
「私がとても悪いことをしているからです。それは本当に悪いことで、千佳さんが一生をかけて精一杯人から軽蔑されるように悪いことをしても決して追いつかない、それほどに罪の深いことなんです」
「・・・先生、何したの?」
「いずれわかります。きっと、嫌でもわかります。その時に、千佳さんが何をしていようと決して私が軽蔑することなんかありえなかったんだとわかるでしょう」
そして私を軽蔑し、恨み、憎むだろう。
千佳は不審そうに春菜を見つめていたが、やがて目をふせて、しょんぼりと話し始めた。
「・・・・あたし、あたしね、高雄んこともう好きやないとたい。あたし、ほかに好きな人がおるったい。
それで高雄は出て行ったんよ。高雄が出ていく前にそれでけんかしたんやから。
あたしがみんな悪いと。わかっとる。高雄がかわいそうや。あたしのためにみんな捨ててきて。
やけん、人を好きになるってどうしようもないが。高雄を嫌いになったわけやなか。ずっと、あたしは高雄が好きなんや好きなんやって心の中で言い続けて、それ以外のこと思わんようにしようと思とった。やけんたい、わかっとると、誰が好きなのか。高雄じゃないことちゃんと自分でわかっとると。
それで、もうたまらんなって、もうどうしようもなくなって、高雄と寝るの嫌って言ったと。それで高雄、出て行ったとよ。誰が好きとか言わんかったけど、高雄気づいとると思う。先生もわかるやろ?
あたし、島村せんせが好きなとよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
目まいがしてきた。
ついさっき、千佳の座っている同じ場所で、島村が春菜に結婚を申し込んだのだ。
「島村せんせが好き。どうもならん。せんせに会えてよかった。島村せんせがおってくれるだけで、あたしもう、生きてられる」
「・・・・・」
「島村せんせには死んでも言えん。
あたしと高雄んこと一番よくわかってくれたの島村せんせなとよ? なとにあたしが高雄じゃない別な人好きになったて知ったら、島村せんせ、あたしのこと軽蔑する。やけど、朝霞先生、あたし、高雄の子ども産めん。わかるやろ? 好きじゃない人の子ども産んだからいかんとよ」
春菜はうなずいた。
「先生、島村せんせのこと好き?」
突然だった。
「え?」
ポーカーフェイス! 春菜は自分に命令した。
「どうして・・・」
「好きやろ。島村せんせは朝霞先生のこと好きやもん。あたしわかるとよ。好きな人のことわかってしまうとよ。だからあたし朝霞先生のこと好かん」
あっと春菜は声をあげた。
「なんか千佳さんって私のこと嫌ってるなって思ってたけど、そのせいだったんですか」
千佳はうなずいた。
「・・・やけんね、朝霞先生が島村先生と仲良くてもしょうがないとよ。あたしどうせ島村せんせには言えんとやから。あたしの気持ち言ったら、あたしたちのこと信じてくれた島村せんせ裏切ることになってしまうから。だから朝霞先生、島村せんせのこと好きなら勝手にしていいとよ」
島村先生のプロポーズ断っといてよかった。春菜は運命に感謝した。
「私には好きな人がいるんですよ」
「ほんと?」
千佳がぱっと目をあげた。
「本当です。ずっとずっと好きなんです。どうしても忘れられなかった」
「告白せんと?」
「できないんです。私もちょっとわけがあって、永久に言えないんです」
「ふうん・・・」
千佳は黙り込んだ。
不倫だと思ってるような気がする・・・。 春菜は苦笑して立ち上がった。
「病院行きましょう」