15 嘘つきはどろぼうのはじまり
ガシャッ!
と音がした。ハッと目を開くと、テーブルの上にコーヒーが流れていた。島村がコーヒーカップを取り落としたのだ。
「あ、すぐ・・・」
ふきます、と言おうとして、島村の様子がおかしいのに気づいた。
「先生?」
島村の指先がふるえている。けいれんのように。額から汗がふきだし顔色が真っ青だ。そうだ、たしかこの間も休憩室で・・・。
「先生!」
春菜はテーブルをおしのけて島村の手を取った。
「どうなさったんですか」
島村は震えながら小さく首を横にふった。
「だ、だいじょ、ぶだ。こおり、こおりを」
春菜は急いで立ち上がって冷蔵庫から氷をビニール袋に入れて持ってきた。島村はそれを受け取ると、ガシャッッと胸におしあてた。
・・・・・・心臓?
「すぐおさまる」
島村は言った。そしてほとんど氷を抱くようにした。抱いて、背中を丸めた。春菜はその背中をさすった。必死で。
やがて、島村はほーっ、と深い息をはいた。そして頭をあげ、額の汗をぬぐった。目が充血している。
「悪い・・・。時々こうなるんだ。・・・たいしたことはないんだが」
「頭をぶつけたって・・・」
「ありゃ嘘だ。・・・君には知られたくなくってねぇ。変な持病があるような奴とは結婚なんかしたかないだろ」
島村は、島村らしくない唇をゆがめた笑い方をした。そのとたん、春菜の感情が一息に島村に向かって流れ込んだ。
快活で生徒のためにはどんな犠牲も労力もおしまない島村先生。こんなすばらしい、力強い人が、人知れず苦しみを抱えて耐えていたんだ。ああ、一生この人のそばにいて発作のおこるたびに背中をさすってあげたい。助けてあげたい。力になりたい。それなのに・・・!
この人の一生を私がつぶす。
ガチャリ! ドアが開いた。春菜はさっきカギをかけなかったのに気づいたが、気づいたときはもう遅い。
古語が立っていた。
古語の瞳が春菜と島村をひたっと見据えた。すうっと表情がなくなり、殺気があふれた。 春菜は真っ青になった。
「何も言ってません!」
立ち上がりながら叫んだ。
「何も言ってないから! やめてください!」
「何を何も言ってないんだ?」
島村も立ち上がった。
「君たちはやっぱり何かあるんだな? 朝霞さん、ごまかすこたぁないよ。はっきり言ってくれ、その方がいい」
「あんたがなぜここにいるんだ?」
古語はけわしい顔で島村をにらみつけた。今にも唇から牙がのぞきそうで、春菜はぞっとした。
島村先生は助けなければ。なんとしても。
春菜は知っている。古語の位置からは見えないけれど、キッチンのまな板の上に、菜っ切り包丁が乗っているのだ。あまり人が切れそうな包丁でもないけれど無いよりはましだ。
「島村先生・・・」
春菜はささやいた。
「逃げてください。窓から」
「え?」
春菜はキッチンに突進した。わずかに二歩。小さなキッチンだ。包丁をつかみ、両手で古語の前に突きつけた。古語はひどく不機嫌な顔をしたが、思ったとおり刃物に対する警戒の色はまるでない。なんたって傷がすぐなおる体だから。隙をついて切りつけられれば、時間かせぎぐらいできるかも。
「・・・なんだそれは」
「これであなたを切りつけます」
「・・・おまえにそんなことができるもんか」
その時、後ろから島村が春菜の腕をつかんだ。
「朝霞さん! やめろ!」
春菜の腕をねじりあげて包丁を取り上げてしまった。
「落ちつけ! 朝霞さんらしくないだろ!」
人の気も知らんと・・・。春菜はがっくりした。
「どうしてあんたがここにいるんだ」
古語は島村を憎悪の目でにらんだ。春菜は古語から島村をかばうように立った。しかし島村の方はすっかりこの状況を誤解して、春菜をおしのけて春菜と古語の間に立とうとするのだ。
「古語君! 君も落ちつけ! 君たちは話し合うべきだ」
ああ、もう、どうしよう。
そして、古語がさらに予想外の台詞を言い放った。春菜をにらみつけながら。
「女の部屋には男は入れないんじゃなかったのか。おまえは昨日嘘をついたのか」
「え?」
そんなことはすっかり忘れていた春菜はぽかんとした。
「昨日おまえはそう言ったろう。女の部屋には男を入れないのがしきたりだと。なぜその男がここにいるんだ。おまえの言ったことは嘘だったのか」
春菜は古語の目を見た。そして、真剣なものが体を通ってゆくのを感じた。
この宇宙人は傷ついている。私から嘘をつかれたと思って傷ついている。
辺境の星の、それもその星を滅ぼすかもしれない人間の言葉をあっさりと信じたのだ。
この人の住む星では、誰も嘘をつかないんだ。人を疑うことなど考えもしない人たちが住んでいる星が、この宇宙のどこかにあるんだ。
いや、地球だって「嘘」は罪悪である文化の星だ。この宇宙人に負けたくない。
「嘘じゃない」
と言ったのは島村だった。
「むしろ女性一人だけの部屋に考えなく入ってきた俺の方がどうかしてたんだ。ちょっと気が動転してたんだな」
島村は古語を慰めるように言った。古語を一種神経症か、もしくははっきり精神病だと思ったのかもしれない。
古語の眉根がたちまち広がってきた。嘘でなければそれでいいらしい。
他の種族に変化しているせいか、内心と表情が直結してしまっているらしく、喜怒哀楽がわかりやすい。
春菜はほっとした。どうやら島村先生に手出しするつもりもないらしい。
「すぐ出るよ。ああ、俺と朝霞先生は学校に行く時間だな。どうする? 古語さん。君も一緒に行くか? 乗せていこうか?」
古語を沓脱ぎから押し出すように自分も外に出ながら島村が言った。どこかおかしい古語と興奮した春菜を二人きりにしたらまずいと思っているらしい。
しかし春菜はなんとか島村だけを行かせる言い訳はないかと考えて後について外に出た。島村と古語を車の中で二人きりにしたら何があるかわからない。古語には地球人を殺すことも許されているのだから。
その時、松尾千佳が階段をあがってきたのだ。千佳に気づいたのは春菜ではなかった。島村だった。三人を見て反射的に逃げようとした千佳の背中に島村が呼びかけた。
「千佳!」