14 結婚してくれないか
昼近くに、春菜は目覚めて、昨日のことが夢ではなかったことを確認し、少し泣いた。
布団をあげてジーンズに着替える。なんせ夜間高校だから出勤にはたっぷり時間がある。昨日ご飯をしかけるのを忘れたので食事はトーストだ。食欲が全くないけれど、食べなければ授業ができない。
ああ・・・なんでこんな時に授業のことなんて考えてるんだぁああああ。
春菜はぱたんと畳に大の字になった。
子供の頃、正義の味方になりたかった。正義の味方になって、悪い奴と戦ったり、どうして私の体は他人と違うんだろう、と泣いてみたりしたかった。
男の子は、正義の味方には男しかなれないんだと言って馬鹿にした。
ゴレンジャーのモモレンジャーは女性だった。だけど春菜がなりたかったのは、そういう女性もなれる正義の味方じゃない。誰よりも強い、誰からも頼りにされる、唯一のスーパーヒーローだ。たとえばウルトラマンのような。
大人になるころには、きっと女でも正義の味方になれる新しい時代が来ると信じていた。まだ時間はたっぷりあるから、たっぷり・・。そして、地球を守るんだ。
弱いものいじめは嫌い。困ってる人は助ける。正義の味方なんだから。
そう思わなくなったのはいつからだろう。コガタリ君と一緒にのけものにされてる時だって、ウルトラマンになりたいと思っていた。あの頃にはもう人はウルトラマンにはなれないと知ってはいたけれど。
ピンポーン!
チャイムが鳴って、春菜の心臓が縮み上がった。
古語?
ピンポーン! もう一度。
春菜はしかたなく立ち上がると、チェーンをつけたままドアを開けた。
島村先生だった。
「やあ・・・」
春菜はあわててチェーンをはずしてドアを開けた。背広を着た島村が、あいまいな笑みを浮かべて立っていた。
「先生・・・」
「ケガは大丈夫か?」
にじんでくる涙を唇をかみしめてこらえた。しかし島村がそれに気づかないわけがない。
「・・・お茶でももらえないか? もしよかったら」
「・・・はい。どうぞ」
台所があってすぐの六畳しかない狭い部屋だ。
「・・・コーヒー入れますね」
と言ってもインスタント。寝る時にはたたむテーブルをひきだして、その上にコーヒーのカップを置いた。
「お砂糖は?」
「いや・・・」
沈黙が落ちた。正座して座っていた島村は突然思い出したように部屋の中をひとまわり見回すと、
「とてもいい部屋だね」
と言った。
思わず春菜はふきだした。
「安アパートの、何もない部屋ですよ」
「いや、何もないところが、いいよ」
「それほめてるつもりですか」
「絶賛だ」
春菜はまた笑った。島村はほっとしたようだった。
「昨日のあれ、驚いたな。千佳が言ってたが、あれ君のかわいがってた猫がケガしたのを心配して集まったんだって? そんなことがありえるのかねぇ。君も見たんだろ? 休憩室の外に集まってたの」
「はぁ」
「今日の新聞にも載ったよ。まぁ新聞記者が来た時にゃもう猫はいなかったからたいした記事にはならんかったが。君のことも載ったよ」
春菜はギクリとした。
「なんて・・・」
「いや、女性教諭がこの騒ぎにまきこまれて一ヵ月の重症ってさ。新聞ってのはなんでもおおげさに書くもんだな」
「・・・・・」
人類の終末! 原因は高鍋東高等学校の朝霞春菜教諭!
なんて新聞に載ってるのを想像してしまった。そうだったらマスコミが殺到していてここでのんびりしてられるはずがなかった。島村先生が来てくれるはずがなかった。
「昨日あのあと警察も来たよ。学校のプールの水やら空気やらあちこちの庭木の葉やらとっていってさ、俺たちもやたらいろいろ聞かれたよ。気分が悪くなったり、逆に気持ちよくなったりしなかったか、とか、生徒の中に目が痛いなんて言ったりした者はいなかったか、なんてな。何か猫の集まる薬品で誰かがいたずらしたんじゃないかってとこかな。警察のやることは細かいねぇ」
いくら細かくったって原因のわかる日はこないだろう。
島村はぐっとコーヒーを飲んだ。そしてじっとそのコーヒーをにらみつけた。まるで毒でも入っているかのように。
「先生? コーヒー変でした?」
「・・・・・」
顔をあげた島村の目にギクリとした。あきらかに、何か重大なことを言おうとしている顔だった。
何か知ってる? 疑ってる?
春菜は覚悟を決めた。
そして島村は言った。
「結婚してくれないか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
決めた覚悟がバタッと倒れた。突然ベクトルの違う言葉を聞いた春菜の思考はいったん立ち止まって[人類の滅亡]から[個人の恋愛感情]へと全速でかけもどりはじめた。
「花か指輪でもあった方がよかったかもしれないが・・・。一晩中考えて、もう一瞬も待てなかった」
「ちょっと待ってください」
春菜はコーヒーをがぶっと飲んだ。これは何かの間違いだ。
「だって、私なんか、どうして・・・」
「私なんか、という言い方はするもんじゃない」
「私、話し方も冷たいし、あんまり表情もないし・・・」
「いいや。君はあたたかい。表情だって豊かだよ。俺にはわかる。君はいつも、自分より他人が幸せになるように考えながら生きている。それは細心の注意をはらってね。そんなことのできる人はめったにいないよ」
春菜は心からあっけにとられた。
「先生・・・、それ、誤解です」
「誤解じゃないよ」
島村は言うだけ言ったらほっとしたのか静かにコーヒーを飲んだ。
「君はお人好しすぎて自分がお人好しだと思いもしないんだ」
「・・・・・」
何か誤解されてる、と思う。恥ずかしい。申し訳ない。でも、ああ、私、弱い人間だ。ちょっと嬉しいから。
「答えてほしい。俺と結婚してくれるか」
ああ、もったいないなぁ。
春菜はしみじみと島村をながめた。こんなにすばらしい人に、こんなにすばらしいことを言ってもらったのに。また涙がにじみそうになってくる。
「・・・そうできたらどんなにいいか」
島村の体が震えたような気がした。春菜も手足が冷たくなってきた。
「だけど先生は何も知らないんです。先生は、すぐ、私にそんなことを言ってくれたことを後悔するでしょう」
島村はごくりと息をのんだ。
「誰か、他に決めた奴がいるのか」
「そうじゃないんです。私の、私だけの問題なんです。たぶん、そう遠くないうちにわかってしまいます。その時きっと先生は私を憎むようになるんです」
「何を言ってるんだ?」
島村の唇の色が無くなってきた。
春菜はその島村の唇を見ていた。頭がじんじんとしびれていた。
「先生、私はどうすれば・・・私、悪い人間なんです。悪人・・・罪があるんです」
「・・・・・朝霞さん、何か、宗教団体に入ってるか?」
違う。
「まぬけなこと言ってるというのは自分でもわかってます。だけど事実だからしょうがないんです。先生、もっと早く言ってくれてたら・・・」
もっと早く・・・という言葉を、島村は誤解したようだった。
「やっぱり古語裕作が原因なんだな」
びくっ、と春菜の体がふるえた。
「やはりそうか・・・。だとすると・・・」
島村はちょっと考えてわずかに眉根をひそめた。
「つまり、君と古語君は夫婦なんじゃないのか。学生時代結婚していたとか。しかし結婚生活の間に君は古語君の恐ろしい性癖に気づき逃げ出してきた。ところが古語君もずっと君を捜し続けていて、とうとうここで働いているのを見つけ追いかけてきた、とか。なるほどそれでわかった。いやぁおかしいと思ったんだ。一週間前会ったばかりにしてはいやに古語君が君に影響力を持っているし、それにしちゃ君の様子が古語君から逃げたがっているようだったし」
するどい・・・。けど、
「・・・・・全然違います」
「・・・あれ?」
本当のことを話したらどうなるだろう。
≪本当のことを話した場合≫
1 信用されない。その上島村先生が古語に殺される。
2 信用してくれて、一緒にどうしたらいいか考えてくれる。
そして古語に殺される。
3 信用してくれて、春菜を憎む。そして古語に殺される。
だめだ。
春菜は目をつぶった。