後編
「アルバー? どーしたの?」
「え……あぁ、うん。」
声をかけられて、はっと顔を上げた。椅子に座ったアルバの前、小さなトランクが開いたままベッドの上に放られている。廊下から部屋をのぞき込んでいたクレエがずかずかと入ってきた。
「大丈夫? 週末、父さんとあっちに行くんでしょう? 荷物、あたしが詰めてあげよっか?」
「いらないよ、大丈夫。」
弟は首を横に振ったが、姉は既に実行に移っていて勝手にクローゼットを開けた。
週末は見学に行くだけだが、夏に学園を卒業したら、アルバは親戚の家で働くことになっている。向こうは食べ物を扱う店で業種は違うが、商いの修行だ。しばらく社会勉強をさせてもらってから、最終的にどんな店で働くか決めようと父母には言われている。実家がこのまま上手くいっていれば、従業員の一人として戻ってくる可能性もある。
ともかく、夏になればアルバはこの町からいなくなってしまう。そのことが寂しいのか、暖かくなるにつれてクレエも母もアルバに干渉するようになってきた。
年始のパーティ以来、自分の様子がおかしいことも原因の一つだろうけれど。
「ちゃんと自分でやるから、あっち行けよ。」
「えー? ほんとー?」
出されたジャケットを取り上げて、アルバは姉の背をぐいぐい押した。
かつんっと乾いた音が響いた。背中へ回った弟へ文句を言っていたクレエが、クローゼットからはみ出していた何かを蹴ったのだ。
手のひらサイズの箱がことんっと転がる。クレエが屈んで拾うのを、アルバは背中越しにのぞき込んだ。
「何これ? 何か入ってるの?」
「ああ、それは……、」
廃材でこさえたのか、木目どころか本体と蓋で色もちぐはぐな木製の小箱。クレエが振るところごろと少し重い音がした。弟の言葉を最後までに聞かずに、ためらいなく小箱を開ける。
かろん。それが転がる。
入っていたのはガラス玉だった。直径は3センチに満たず、薄曇りの空のような灰色をしている。透明度も高くない、凝った細工があるわけでもない、ただのガラス玉。
「何これ?」
繰り返してクレエは首をかしげた。アルバは苦笑する。
「昔、アイ姉にもらったんだよ。何だっけな、すっげぇ小さい頃、熱出した時だっけ?」
「ほぅ。お姉ちゃんにもらったものを、だいじーに箱に入れてたんだ?」
「ちげぇよ。アイ姉が入れたんだよ。なくさないようにって。」
「ふーん?」
納得がいっていないようでクレエは再び首をかしげる。それをつまんで目の高さに持ち上げた。くるりくるり、とひっくり返して眺める。
これをくれた日、アイビィも同じように陽に透かしていた。ベッドに身を起こしたアルバの隣に腰かけて。そうしてひとしきり見せてくれた後、悲しそうな顔をして小箱にしまったのだ。
さらに額より高く掲げた所で、クレエが感嘆の声を上げた。
「へー。これ、灰色じゃないんだ?」
アルバはクレエに並んでその手元を見上げた。窓から差す陽の光をガラス玉が透かす。水底に光が差したように視界いっぱいが淡い青にひたった。
ああ、似ている。遠く、空を見つめるあの青に。
そう思った瞬間、何かがアルバの頭をよぎった。今度こそその尾を捕らえることに成功する。
「あーっ!」
耳元で叫ばれて、クレエがびくぅっと跳ね上がった。
* *** *
5歳の頃、アルバは同年代の子が苦手だった。親兄姉についてパーティに行くと、同い年の少年三人がアルバに意地悪をするからだ。周りの子は遠巻きに見るだけで助けてはくれない。だから、パーティに行くのが嫌だったし、10歳になって学園に入るのも嫌だった。でも、それを両親や兄姉に言うことは出来なかった。
市場で花瓶を売っていた両親が店を持ったのは、クレエが生まれる少し前だったという。兄のトラモントが14歳、アイビィが11歳の頃、ようやく学費が工面出来たと両親は子ども達を学園に入れることにした。
学園に入学出来るのは10歳以上からで、多くは遅くとも12歳までに入る。アイビィには同い年の級友がいたが、トラモントは学級で唯一4歳も年上だった。そうなると、子どもの間でも大人の間でも話題に上りやすくなり、その弟妹も注目を浴びていた。
意地悪な三人は兄の同級生の弟達だ。あの三人が嫌いだと言えば、直ぐに理由は知られてしまうだろう。両親はきっと悲しむし、兄は自分のせいだと傷つくかもしれない。
アルバはぎゅっと口をへの字にして耐えていた。
***
ある日、パーティ会場の片隅で、アルバははぐれてしまったクレエを呪っていた。アルバを壁に追い詰めて件の三人がニヤニヤと笑っている。
曰く、お前はダンスも習ったことがないんだろう、なのにダンスパーティにいるなんて、コーガンムチはなはだしい、とのことだった。コーガンムチって何だろう。けなされているらしいことは分かる。
ここでアルバはうかつだった。ダンスくらい習わなくても踊れる、と言ってしまったのだ。ウソは言っていない。庶民はダンスなんて習わないが、みんな祭りやホームパーティで踊っている。しかし、楽しく音楽に乗れれば良いそれらと、社交の一つとして型が決まっている上流階級のダンスは別物なのだ。
三人組はアルバが見栄を張っていると思って、ニヤリと口角を上げた。両側から抱えるようにしてアルバをフロアへ引っ張り出す。
「ほら、だれかさそってみろよ。」
どんっと背中を押し出されてアルバはよろけた。目の前ではふわふわクルクルとドレスが翻って回っている。オルゴールの中に迷い込んだみたいだ。アルバはおろおろと辺りを見回した。
お姉ちゃんかお兄ちゃんがいてくれれば!
「さっさとしろ!」
三人分の強い力で押されて、アルバは吹っ飛ぶように転んだ。視界が青一面になり、ぼふんっと柔らかい布に埋もれる。
「きゃっ?」
「なにっ?」
踊っていた、二人組の少女が悲鳴を上げた。アルバよりずっと年上で兄と同じくらいに見える。片方は金色の髪を結い上げており、もう一方は黒い髪を二本に編んで左右に垂らしている。アルバは、黒髪の少女のドレスにすがりついていた。
ガラスにほんのり青を混ぜたような水色の瞳が、アルバの顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫ですか?」
「ちょっとー、気をつけなさいよね。」
「ご、ごめんなさい、オレ……っ。」
オレが悪いんじゃないのに。
じわり、とアルバの目に涙が浮かぶ。
黒髪の少女はアルバの後方、ダンスフロアを囲む人混みへふいっと目を向けた。きゅっと唇を引き結ぶと、アルバの腕をつかんで抱え上げるようにして立たせた。隣の少女へ振り返る。
「すみません、良いですか?」
「ふーん……まあ、良いわよ。」
金髪の少女も同じ方へ目を向けると、じとりと半眼になった。ぽんぽんとアルバの頭をなでてフロアを出てしまう。アルバはうろたえた。
「なに……?」
「すみません、ちょっと付き合ってくださいね。」
少女は先程までの困り顔を一転させて、ふわりと笑みを浮かべた。差し出された白い手を、アルバは思わず取ってしまう。音楽が切り替わる。それに合わせて少女はつないだ手をくんっと引いた。ぐるりっと彼女を軸にアルバが一回転する。
「わっわっわっ。」
「右手と左手はそのまま。足は左右交互に、言う通り動かしてください。」
前、前、後ろ、後ろ。足をもつれさせるアルバを支えながら、少女がささやく。
つないだ左手と彼女の腕にすがる右手に、緊張からぎゅうぎゅう力がこもる。足下を見ようとアルバはあごを引いた。そっと声が降りてくる。
「ダメですよ。顔は上げていてください。足、踏んじゃっても良いですから。」
アルバを支える左腕にぐっと力がこもって、つないでいる手を引っ張られる。彼女が足を斜め前へ踏み出すと、そこを基点にくるりっと二人は回った。そのまま、くるくると回り出す。
驚いて顔を上げたアルバへ、少女がそっとほほ笑む。視線をちらっと横に流した。三人組が目を見張ってこちらを見ている。
「あの子達はね、足下ばかり見ているから人にぶつかるんです。貴方はそんな風になってはダメですよ。」
くるりくるり、世界が回る。奇麗に編まれた黒髪も踊るように揺れて、青いスカートと白いフリルが波打って広がる。一緒に、回っているのは自分だ。今、自分もオルゴールの一部だ。ふふっと彼女が笑う。
「そう、そんな風に笑っていてください。今日はお祝いなんですから、楽しく踊れたらそれで満点ですよ。」
曲が終わる。少女がにこりと笑みを深くする。
澄んだ川面のような淡い青が、やわらかく細められた。
それを見上げているうちにアルバはくるんっと一回転させられた。手を放されて、ととっとふらつく。そこに一回り大きな影が飛びついてきた。人混みから飛び出してきたクレエだ。
「アルバすごーい! いつのまに、そんな おどれるようになったのっ?」
「いや、あの、」
首が絞まる勢いで抱きしめられつつ、アルバは何とか振り返る。少女と目が合うと、彼女はほほ笑んで手を振った。隣に金髪の少女が戻ってきている。
次の曲が始まると、クレエの体が離れた。両手をつかまれて、ぐいんっと乱暴に振り回される。クレエはご機嫌だ。アルバは転ばないようにするのでやっとだった。
二曲目はとてもダンスと呼べるものではなかったが、三人組はとっくにいなくなっていて、アルバを馬鹿にすることはなかった。少女も、いつの間にかいなくなっていた。
***
アルバはパーティに行くのが楽しみになった。あれ以来、姉と踊っていると歳の近い子が声をかけてくれるようになったのだ。
男の子も女の子も入り乱れて、手をつないでぐるぐる回る。それだけだが、かなり楽しい。もう大きい兄姉がいる子が、教えてもらったと言ってダンスの型を披露してくれる。それを見よう見まねで繰り返すのも面白い。
アルバが一人でいることがなくなったからだろう、あの三人組は遠くから見ているだけで、近づいてこなくなった。
ある日、友人達とぐるぐる踊っていたアルバは、二つに編まれた黒髪がぴょこんっと揺れるのを見た。あの時の少女だ。
今日は見知らぬ少年と踊っている。彼女は少年から数歩離れてぺこんとお辞儀をした。横から他の少年が手を差し出すが、ゆるりと首を横に振ってきびすを返した。
アルバは友人達に向き直る。
「ごめん、またね!」
つないでいた手を解いて彼女の背を追いかけた。
少女はガラス戸を抜けて庭に出る。灯りに照らされる花々に目も向けず、回廊をスタスタ進む。会場での人壁と、歩幅の差のせいで開いた距離をアルバは必死で駆ける。花壇に囲まれた広場に出ると、その真ん中に大きな噴水があった。
ドーム状に吹き上がった水が、辺りから届く光にきらりきらりと光っている。少女はその裏に回ってふちにすとんと腰を下ろした。
「おねえちゃん!」
駆けるスピードを上げて呼ぶと、少女がぱっと振り返った。水色の目がまあるくなっている。
「この前の……、」
「オレ、アルバ!」
「はい。こんばんは、アルバ君。」
にこりとほほ笑まれて、アルバは満足げに一度ふふんっと鼻を鳴らす。少女の隣に腰かけた。
「おねえちゃんは? おねえちゃんのなまえは?」
「クラウディアといいます。」
「クラウディア!」
教えられた名前を染み込ませるように、うんうんとうなずく。
「あのね、オレいま、めっちゃおどってるよ。すっげぇ、たのしいっ。まんてん?」
「ええ。花丸ですね。」
クラウディアがふふっと笑って指先で丸を描いた。アルバもほほを赤く染めてへへっと笑った。
ふと、ホールからわっと盛り上がる声が聞こえてアルバは振り返った。彼女がダンスを断っていたことを思い出す。
「もう、おどんなくていいの?」
「……ちょっと疲れちゃいまして。」
「だいじょうぶ?」
「少し休んだら元気になります。」
「ふーむ?」
そういえば、誘っていた少年の周りには他にも数人いた。あの人達みんなが彼女と踊りたいのなら確かに疲れてしまうだろう。なぜか大人は二人ずつで踊るのだ。
「おねえちゃん、にんきものだね。」
「私が人気者なわけじゃないですよ。」
クラウディアが口元に笑みを乗せる。笑っている、はずだ。なのに苦しそうに見える。伏せられた瞳から、その水色があふれそうに見える。
「……あのひとたち、いじわるするの?」
もしかして、お姉ちゃんの友達ではなくていじめっ子なのかも。
心配になってアルバは身を乗り出した。クラウディアはきょとんとしてから、慌てて首を横に振った。
「違います、違いますよ。」
「でも……っ。」
「大丈夫です。悪い人達じゃありません。みんな優しい人ですし。ただ……。」
クラウディアが言葉を切った。ためらって視線を横に流す。じぃっと見つめるアルバへ戻して眉を八の字にした。
「私のことが、好きなわけじゃありません。うちの……お店に興味があるんです。」
「おみせ?」
「ええ。うちのお店はそこそこ大きいんです。私と結婚したらお金が手に入るし、もしかしたらお店の主になれるかもしれません。」
「なれるの?」
「どうでしょう。私と弟、どちらが店を継ぐのか両親はまだ決めていません。でも、祖母、母と続けて女性が継いだので、多くの人が私が継ぐのだと勘違いしているみたいです。……二人が継いだのは、二人にやる気と才能があったからなのに。」
アルバには彼女の話が半分くらいしか分からない。首をかしげた。
「おねえちゃんは、おみせしたくないの?」
「そうですね、弟に任せたいと思っています。あの子さえ良ければ、ですが。」
クラウディアはため息をついた。
「父様は、継ぐ継がないは別として、卒業までには相手を見つけろって言うんです。私と財産を守ってくれる人をって。……でも、どういう人が守ってくれる人なんでしょうか。」
後ろへ回した両手を支えにクラウディアはぐっと胸を反らした。その水色の目できらきらと金銀が散る濃紺を見上げる。
「財産に興味がある人なら、たくさんいますけど。……母様と父様が一所懸命守ってきたものだもの、取られちゃうくらいなら、全部レイニーに任せたいです。私が暮らしていく分は自分で稼げば良いです。どうしても結婚しなくちゃいけないなら、一緒に支えていける人が良いです。……お金も家柄も要らない、お互いがいればそれで良いって、そう言ってくれる人が。」
噴水の水粒がきらきら光っている。彼女の瞳も透き通ってきらめいていた。寂しそうなその水色は、夜空よりもっと遠くを見つめている。あの金銀の向こうに行ってしまいそうだ。
アルバは苦しくなってくしゃりと顔をゆがめた。その視線に気がついてクラウディアがはっと我に返る。こちらを振り返って心配そうに顔をのぞき込んできた。
「すみません。変な話を……、」
「オレがケッコンしてやろうか。」
つるりと言葉が出た。言ってしまってから素晴らしい考えだと思った。水色の目がまあるくなってぱちぱちと瞬いている。
「そんなに あいつらイヤなら、オレとケッコンしよう! オレんち、けっこうおおきいから、ひとりくらい ふえたってへいきだし。おかねは あったほうがうれしーけど、でも、へいきっ。こないだ、じーちゃんが おこづかいくれたから、オレいま ふごうだもん!」
アルバがぐっと拳を握りしめると、クラウディアがぶふっと吹き出した。くすくす笑う。
「それは、頼もしいですね?」
「だろ? オレとケッコンしよう! オレがまもってあげる!」
彼女がほほ笑む。白いほほをぽろりと涙が伝った。アルバはぎょっと目を丸くした。
「ど、どうしたのっ?」
慌てるアルバをなだめるように、白い手がアルバの手に触れる。黒い髪がゆったりと左右に振られた。
「すみません。うれしくて。……ありがとうございます。」
まだ雫がぽろぽろとこぼれている。それでもにこりと笑みを向けられて、アルバはほっと息をついた。同時にぽぽっと胸が暖かくなってくすぐったくなった。クラウディアの手を握る。
「じゃあ、やくそくな。コンヤクだ!」
「はい。」
高ぶる気持ちのままつないだ手をぶんぶんと上下に振っていると、遠くから少年の声がした。何回か目で「姉さん」という言葉が聞き取れた。クラウディアが振り返る。
「弟が探しているみたいです。失礼しますね、アルバ君。」
「うんっ。またね、ディーア!」
立ち上がった彼女へそう呼びかけると、クラウディアはぱちりと目を瞬かせた後ほほ笑んだ。アルバへ手を振ってきびすを返す。
入れ違いに14歳ほどの少年が近づいてきた。アルバと同じ赤みがかった茶髪にハネグセがある。
「アルバー、お前こんなとこいたのか。心配しただろ。」
少年はアルバの前に立つとむにむぎと丸いほほを引っ張った。それを放ったままアルバは少年を見上げた。
「にいちゃん、オレ、コンヤクした!」
「はあ?」
むにむぎが止まる。
「オレ、いまのおねえちゃんとケッコンするんだ!」
「今のって、今の? スワロウ工房のお嬢さんと? ……ウソだろ。」
兄は振り返って一瞬動揺を見せたが、直ぐに真顔になった。アルバはむっと眉をつり上げた。
「ウソじゃない!」
「バカ! すねはやめろ、すねは!」
足を振り上げると、兄は慌てて逃げた。手をつないでホールへ戻る間にアルバは経緯を話したが、兄ははいはいと適当な相づちを打っていた。
***
6歳になったばかりの、冬のある日。
かととんっと床に何かが落ちた。ころころと転がってアルバのつま先に当たる。灰色のガラス玉だ。
部屋の中では、アイビィとクレエが母の作った人形で遊んでいた。ガラス玉はままごと用のティーカップを取り出した際に、おもちゃ箱からこぼれ落ちたらしい。
アルバはそれをひょいと拾い上げた。アイビィが慌てた声を上げる。
「アルバ君、それお菓子じゃありませんよ。」
「たべないよ!」
小さい子扱いされてアルバは膨れた。くりくりと指先でガラス玉を転がす。何の気なしに窓へ向けて掲げた。透けた光に大きな目を見張る。
「アイねえっ! アイねえっ! これちょーだいっ!」
「? 良いですけど……。」
「どーしたの?」
興奮してぴょこんぴょこん跳ねる末っ子に、姉二人は首をかしげる。アルバは二人の傍へ駆けていって、ほらっとガラス玉を掲げてみせた。
陽の光に透き通って水色に光る。アルバの指先も淡く染まる。
「ほら、このいろ、ディーアのめといっしょだ!」
「……だれ?」
クレエはさらに首をかしげた。アルバはへへんっと胸を反らす。
「オレのおよめさん!」
「え? アルバ、ケッコンしたのっ?」
今度は驚きの声を上げる姉に構わず、アルバは再びぴょこぴょこ跳ねる。
「これ、ディーアにみせてやろう! オレのたからものだ!」
「じゃあ、宝箱が必要ですね。」
アイビィはおもちゃ箱から小さな木箱を取り出した。そこに入っていた布製のブローチを人形の胸に付けると、空いた箱をアルバにくれた。
***
アルバは大きなホールに来ていた。庭に大きな噴水がある、あのホールだ。
クレエは兄と、アイビィは友人と踊っている。アルバは兄姉から離れながら辺りを見回した。きっとどこかにクラウディアがいるはずだ。そう思って目を凝らすのに見つけることが出来ない。
もしかしてまた噴水に行ったのかも。アルバはとたたっと駆け出すとガラス戸をくぐった。急いで回廊を抜けるが、噴水には誰もいなかった。水の粒が月を照り返してきらきら光っているだけだ。
アルバはほほを膨らませると、ポケットから例のガラス玉を取り出した。目元へ掲げ体を反らせて月を見上げる。
ガラス玉は銀の光を集めて内側から光っていた。澄んだ水面をぎゅっと固めてまあるくしたようだ。この方がずっと、陽の光に当てた時よりもクラウディの瞳に似ている。
アルバはにへへっと笑った。
「おい。なにやってんだよ。」
鋭い声にアルバは振り返った。思わず「げ。」とつぶやく。回廊を背にあの三人組が並んでいた。もうずっと姿を見ていなかったのに、急になんだ。
アルバは口をへの字に曲げた。ニヤニヤ笑いながら三人が近寄ってくる。
「おまえ、それ、なにもってるんだ?」
さっと手を握りこんで隠す。ポケットにしまおうとしたが間に合わなかった。がしっと腕をつかまれてガラス玉を奪われてしまう。取り返そうとしたが、間に入った二人に阻まれた。
「かえせ!」
「なんだこれ?」
「おまえらには、かんけいないだろ! かえせよ!」
彼らの目はガラス玉より、怒るアルバへ向けられている。愉快そうにゆがんだ。アルバが一人を押しのけると、ガラス玉を持っていた少年がニヤリと唇の端をつり上げた。
「そら、かえしてやるよ!」
伸ばしたアルバの手をかすめて、さっと腕が上げられる。ガラス玉が高く放られて、月の光を透かした。水色にきらめく。弧を描く瞬きを追ってアルバはのけ反った。
きらり、きらり、淡い青が吹き上がる水のドームを超える。アルバは体をひねってさらに追いかけた。ふちに足を掛けて、両手を掛けて、体を持ち上げて、跳ぶ。
手を伸ばして伸ばして、光をつかむ。その勢いでアルバは前転した。
ばしゃんっ。
両足が水面をたたく。染み込んでくる冷たさにしびれて、両手を握りしめたままアルバは動けない。月の光が注いで、世界が淡い青に包まれている。
何かが飛び込んできて、世界が揺れる。泡の粒が銀色に輝いて、視界を覆った。
熱い。苦しい。このまま蒸し焼きにされそうだ。逃れたいのに、手に力が入らなくて布団すらはね除けることが出来ない。
――アルバ君っ! しっかりしてください!
大変だ。”お姉ちゃん”が泣いている。きっと、あいつらにいじめられたんだ。
「……おねーちゃん……。」
ガサガサした声が出た。喉が痛い。
「アルバ君? 大丈夫ですか?」
優しい声が自分を呼んだ。アイビィがベッドに椅子を寄せて腰かけていた。手をもそもそと布団から出すと、握ってくれる。アルバは握り返した。
「だいじょうぶ。おれが、まもる。」
落ちたのは、池じゃなかったのに。いじめっ子が突き飛ばしたのは、あの時じゃなかったのに。
真っ先に駆けつけて、助け起こしてくれたのは彼女だったのに。
全部全部、脳をゆでるほどの高熱に溶けてしまった。
* *** *
薄暗い小部屋で、アルバは膝を抱えるようにして体を縮めていた。
ドアもカーテンも閉まっているのだからこれ以上隠れる必要なんてないのだが、何となく身の置き場がないからだ。腰かけた長椅子のクッションが柔らかいことにすら罪悪感を覚える。その度にやはり立っていようかと思い直すのだが、狭いのだし、どれくらい時間がかかるか分からないのだし、と思考が元の場所に戻ってくる。
何度目かの思考マラソン中に人の声が近づいてきた。ドアに遮られて内容は不明瞭だが、若い女性と中年の男性のものだ。アルバはびしっと背筋を伸ばした。
だらだらと汗が垂れてくる。
ガチャリ、ドアが開く。陽に暖められた空気が入ってくる。差した光のまぶしさに一瞬、アルバは目をつぶった。
水色の目が、ぱちぱちと瞬いた。
クラウディアは長袖のブラウスと青いスカートに身を包んでいた。装飾はロープタイを留める銀細工と前髪を押さえるピンくらいだ。手に小さなポーチを提げている。大きな荷物は既に”馬車”に積んであった。
水色の目を上下させてしかとアルバの存在を確認すると、クラウディアはすっすっと後ろに下がった。視線を上下左右とせわしなく巡らせる。
馬車。スワロウ工房のマークの入った我が家の馬車。いつも商品を運んでくれる馬と馭者が引いてくれるはずの馬車。自分を新しい職場と住居へ運んでくれるはずの馬車。
車体のマークと、馭者の顔と、馬の毛色を二巡確認すると、クラウディアの視線はようやくアルバへと戻ってきた。
「どうして、アルバさんが……?」
「あの、レイニーさんに頼み込んで……。」
馬車に忍び込んでおりました。
あの頃のことを思い出して、まず胸に湧いたのは、彼女を、ディーアを追いかけなくてはいけない、という焦燥だった。
両親に親戚に父の友人にと、あちこちを拝み倒してアルバがようやく準備を整えた頃にはもう夏になっていた。アルバは学園を卒業し、クラウディアが家を発つ日が迫っていた。もう一つついでに兄を拝み、レイニーに連絡を取った結果がこれだ。
姉も準備で忙しいからギリギリでないと話は出来ないだろう、と。姉からはもう話すことはないから、前もって約束しても理由をつけて逃げるだろう、と。だから当日姉が乗る馬車の中で待っていろ、と。
レイニーはにこりと、外見だけならクラウディアとよく似た笑みを浮かべてそう言った。
待っている間に、絶対に他の方法があったはずだと思い直したりもしたが、もうこの際どうでも良い。目を見張って言葉をなくしているクラウディアの様子は、完全に不審者に行き合った女性のそれだが気にしてはいけない。
アルバは長椅子から立ち上がると馬車の板の間に膝をついて、外にいるクラウディアの目をのぞき込んだ。
「クラウディアさん、俺も連れて行ってください。」
「え?」
再び水色が瞬く。アルバは膝に添えた手をぎゅっと握りしめる。
「ちゃんと、仕事も住む場所も決めてきました。えっと、親父の古くからの友人がトルナドで焼き物の工房をやってまして、販売人といいますか、そういう仕事で雇ってもらうことになりました。クラウディアさんのやっかいにはなりません。」
「はあ。」
まだ驚いているのかクラウディアの反応は薄い。開け放ったままのドアの横から、中年の馭者が口を開いた。
「お嬢様。お嬢様が嫌がったら即つまみ出すようにと、坊ちゃまから承っているんですが。」
「えぇっ? ちょっと、待ってくださいっ。」
馭者の言葉にさらに驚いてクラウディアは声を上げた。アルバへ向き直る。眉は八の字で彼女はまだ顔に困惑を浮かべていた。
「あの、アルバさんはきちんと自分でお仕事を定めて、トルナドに行かれるんですよね? 私に許可を取ったり、何かお願いしたりする必要はないと思うんですが……。」
「そうじゃなくて、俺はクラウディアさんについて行くって言ってるんだ!」
アルバは身を乗り出す。
「ただ同じ町に行くんじゃない。クラウディアさんの傍に……、」
「あの約束ならもう無効ですよ?」
アルバはひゅっと息をのんだ。クラウディアの声はやわらかいが、使われた言葉の冷たさがアルバの胸をえぐった。
「やっぱり、思い出してしまったんですね。」
アルバの様子にうなずいてクラウディアは苦笑した。
「10年近く、誰も口にしなかったんです。もうとっくに効力はありません。貴方が縛られる必要はありません。」
馬車から引っ張り出すためだろう、クラウディアが一歩二歩と下がる。
うつむいて伏せられた彼女の瞳が、足下を見ているわけではないことがアルバには分かった。あの約束の日のように、見合いの日のように、透き通って遠くを見ている。
消えてしまう。自分の前から。
アルバはぐっとジャケットの胸元を握りしめた。ポケットの中には丸くて固い感触がある。
クレエは当時のことを覚えていなかったが、上の二人は、アルバがよく”お嫁さん”の名を口にしていたことを覚えていた。どうして教えてくれなかったのかと問い詰めると、二人共、黙っているようにクラウディアに頼まれていたと教えてくれた。
覚えのない約束のことなんて聞いても気分が良くないだろう、それに約束を押しつけるみたいで嫌だから、とそう言っていたと。
アイビィは頼まれた通り口をつぐんだ。それでも、放り出されたガラス玉を拾ってくれた。アルバの手に再び握らせてくれた。忘れてしまった、アルバの宝物を。
ほとんど外へ乗り出すようにして、アルバは細い手首を捕らえた。水色が、再びアルバを映す。
「なら、もう一度約束しよう! 今は頼りないかもしれないけど、でも、二人で暮らしていけるよう頑張るから。寄り添って、支えて、俺がいればそれで良いって、俺がいて良かったって、そう思ってもらえるような男になるから! だから、俺と結婚しよう!」
白い手がアルバの手に重なる。
「……貴方は、それで幸せになれるんですか?」
唇も声も震えていた。逃がすまいとアルバは指先に力を込めた。
「ディーアがいれば、それで良い。」
水色が瞬く。クラウディアがほほ笑むとぽろりと白いほほを涙が伝った。ぎょっとしてアルバは手を放す。
「ご、ごめん! 痛かったっ?」
クラウディアがふるふると首を横に振る。顔を上げてしっかりと笑みを見せてくれた。
「すみません。うれしくて。」
きょとん、と目を瞬かせてからアルバもへにゃりと笑った。
小さい頃は分からなかったその言葉の意味が今はよく分かる。胸の奥が熱い。満ちていくそれが目元までこみ上げそうだった。
自分のそれはぐっと耐えて、後から後からあふれてくるクラウディアの涙を拭う。
……向かい合う二人の横にはまだ馭者が立っている。
出発が遅れしまうと、いったいいつ言えば良いのか。馭者は助けを求めて一度屋敷へ視線をやった。二階の窓、こちらを見守っていたらしい人影が、部屋の奥に消えるのが見えた。
再び二人を見る。そして、苦笑いでため息をついた。
END