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前編


 直径3センチ弱のガラス玉。薄曇りの空を固めたみたいな灰色だ。少女の指につままれたそれを、少年がじっと見つめる。

 窓から差す陽光にかざすと、光を集めて水色に透き通った。

 部屋を満たす淡い青に誘われて、少年は布団をはね除けるように身を乗り出す。


「わぁ、きれいっ。きれいだな、アイねえっ。」


 はしゃぐ少年に姉は苦笑をこぼす。小さな手にそっとガラス玉を握らせた。


「くれるのっ?」


 ぱぁっと顔を輝かせた少年は、顔を上げて、はっと我に返った。握った手を姉へ突き出す。


「……いらない。」

「どうしてですか?」

「だって、アイねえ、かなしそう。」


 きゅっと唇を引き結んで、姉は首を横に振った。


「これは、貴方のものなんですよ。貴方の宝物なんです。だから、絶対、なくしちゃダメですよ。」


 ***


 なめらかなタイルが敷き詰められたホールに、ゆるく弧を描くように楽団が並んでいる。彼らが奏でる曲とじゃれるように、人々はくるくると回る。

 今日はある大商人の末娘の誕生日だ。商家が開くパーティであれば、取引先や同業者が多く招かれるのが普通だが、六人の孫を溺愛する大旦那様は、孫達の交友関係を中心に客を呼ぶことを許していた。10代後半の少年少女が、跳ねるようなステップでフリルやジャケットを翻している。


 一団の一角に一組の男女がいた。少年は15歳ほど、女性は20代に上がったばかり。赤みがかった茶髪と、目尻のつり上がった顔立ちがよく似ていることから、姉弟だと直ぐに知れる。

 少年がつないでいる方の手をすいっとすくい上げると、二人は組んでいた腕を解いた。姉は片足を軽く後ろへ滑らせて、つないだままの手をくぐるように回転してみせる。一回、二回、夕日を映した雲のような淡いオレンジのドレスが、風を含んで柔らかく広がる。

 姉弟は向かい直って再び腕を組む。姉がふふっと笑う。少年、アルバが首をかしげる。


「何? 楽しそうだな、アイ姉。」

「ええ。アルバ君と踊るの久しぶりですから。」

「久しぶりって、アイ姉の婚約パーティからそんなに経ってないはずだけど。」


 不思議そうにするアルバへまた、アイビィは笑みをこぼす。

 つなぐ手をくっと肩より後ろに引く。アルバが左足も引くのに合わせて、アイビィは右足を踏む込む。ぴたりと張り付けたように二人は足を運ぶ。両面に色を付けた板を翻して遊ぶように、オレンジのドレスとクリームのジャケットがくるくる回る。

 アイビィの踊りは習った以上の振り付けはない型通りのものだ。洗練されているというわけでもない。学園を卒業したものなら誰でも出来る、目立たない踊り。それでも、いつもふんわりと笑みを浮かべ、ターンする度に上手くいったことを喜ぶように笑みを深くする様は、社交としては悪くない。


「ずーっとアルバ君に相手をしてもらっていましたから。間が空くと何だか懐かしくなります。」

「そういうものかな。」


 アルバは苦笑する。アイビィがつま先を軸にくるりと回る。


「アイビィ。」


 男の声が、やわらかく姉を呼んだ。声の方、栗色の髪をなでつけた青年を見つけて姉がほほ笑む。そのほほがうっすらと赤くなるのをアルバは見た。

 曲の変わり目でアルバは手を解いた。ぱっと横に出たアイビィの白い手を青年が取る。アイビィはアルバへ振り返って笑みを見せてから、くるくると遠ざかっていった。

 見送るアルバの胸へ、ぴょんっと少女が飛び込んできた。赤みがかった髪をアップに結い上げた少女は、姉や弟とそろいのつり目をニヤニヤと細める。


「何々? お姉ちゃん取られてさびしーの?」

「うるさいぞクレ姉。」


 髪を乱そうと伸びてきた右手を、アルバはがしりと捕まえた。そのままぐんっと乱暴に引いたが、下の姉、クレエは意に介さず、跳ねるようなステップでついてくる。


「あたしもアルバも、お兄ちゃんやお姉ちゃんが傍にいるのが当たり前だったもんねー。二人に大事な人が出来ちゃうと、欠けちゃったみたいでさびしーよね。」

「……俺は別に。」

「またまたぁ。」


 クレエがけたけたと笑う。アルバは顔をしかめた。

 おっとりした長女と、一人でもかしましい次女、この差はどこでついたのだろう。


「クレエちゃーん!」


 三人で輪になっている少女達に呼ばれて、クレエはぐいと弟を引っ張った。しかし、アルバは手を解いてしまう。


「アルバ、行かないの?」


 小さい頃ならいざ知らず、思春期の弟に姉の友人と4対1に挑めというのかこの姉は。


「俺は良いよ。」

「えー?」


 クレエは不満そうにほほを膨らませたが、もう一度呼ばれると諦めて三人の下へ駆けていった。アルバはため息をつくと、人の間を縫ってフロアの端へと出た。


「……アルバー……」


 音楽に紛れて自分の名を聞いた気がして、アルバは顔を上げた。シャンデリアのきらめきにちょっと目を細める。二階の吹き抜けからこちらを見下ろす、少年二人を見つける。大きく手を振る彼らに振り返して、アルバは階段へ向かった。


 歓談スペースになっている二階に上がると、友人達は手すりに背を預けたまま出迎えてくれた。一人がチキンを盛った皿を抱えていたので、一つ失敬する。


「あ! こら!」


 取り返そうと伸びてきた手を避けて、アルバそれにかぶりついた。


「ああ。スパイスの効いた甘辛さがが染み渡る。」

「勝手に取るな!」


 これ以上取られまいと少年は腕で皿をかばう。アルバは気にせずムシャムシャとかじる。もう一人はクスクスと笑いながら、果汁の注がれたグラスを傾けた。


「相変わらず、アルバはお姉さん達としか踊らないね。」

「そんなことねぇよ。」

「いやいや、上から見てたけど、完全にそうだっただろ。」

「アイビィさんが婚約して、ようやく姉離れ出来たかと思ったのにねー。」

「うるせーな。」


 アルバは唇をゆがめた。


 兄姉が学園を卒業した頃、家の商売はさらに上向いた。途端に、長女のアイビィに言い寄る男が増えた。そいつらをアルバが必死で蹴散らしていたことを、騒ぎが収まってからも友人達はからかってくる。

 自分は弟として当然のことをしたとアルバは思っている。姉は眉を八の字にして困っていたし、父だって釣り書きをはね除けていた。それに、アルバが小さい頃、アイビィは金目当ての男につきまとわれて泣いていたことがあるのだ。もう二度と、そんな男はアイビィにもクレエにも近づけてはならない。


「つーか、ジョーこそ婚約者とはもう踊ったのかよ?」


 話の向きを曲げると、チキンを抱えた少年がぎくりと身を固くした。もぐもぐと一口そしゃくして、ごくんと飲み込む。


「……まだ。」

「何やってんだよ。まさか壁の華させてるんじゃないだろうな。」

「女子で踊ってるからそれは平気。」

「この間足踏んじゃったの、まだ気にしてるんだよねー。」

「だぁぁぁっ! うるせーっ!」


 ジョーがかっと耳まで赤くなる。骨を握ったままの手を振り回した。


「アルバもケビンも今すぐ見合いしろ! 俺と同じ苦しみを味わえ!」


 暴れる骨から距離を取ってケビンが苦笑した。


「うちは今、妹で忙しいからねぇ。」


 貧富に関係なく、男性はある程度仕事の基盤が出来てから結婚を考えるのに対し、学園に通う女性の大半は卒業の前後に婚約する。そして、男女問わず家柄、資産、器量の総合ポイントが高ければ高いほど縁談は膨れていく。

 ケビンの家のように、そこそこもうかっている商家に美人の娘が生まれれば、親は早いうちから求婚者をさばくのに追われるため、自然と男兄弟はほったらかしにされる。

 アルバは指で挟んだ骨をぷらぷらと振った。どこに捨てれば良いのだろう。


「うちは自由恋愛主義だしなぁ。」


 結婚当時は店すら持っていなかった両親はもちろん、現在婚約者がいる兄も姉も見合い未経験者だ。


「おのれー!」


 ジョーの顔が赤みを増す。ケビンがなだめにかかる。アルバはため息をついた。


「そうビビることないだろ。今日は誕生日パーティなんだ、楽しんで踊れればそれだけで満点なんだよ。」

「へぇ。良いこと言うね。」

「アイ姉の受け売りだけどな。」


 感心するケビンに応えて、アルバは手すりから身を乗り出した。件の婚約者を探す。

 他の女子とならすまし顔で踊るくせに、ジョーがこんなにも及び腰になるのは婚約者のことを憎からず思っているからだ。見合いをしたいとは思わないけれど、そんな相手に出会えたことは少しだけうらやましい。

 最高学年に上がったとはいえ、まだ学生であるジョーに婚約者がいるのは貴族の一人息子だからだ。

 対して、アルバは市場から出発した花瓶屋の一代目の、第四子。健康で商才もある兄のおかげで予備としての価値もない。己で探らなくては明日の居場所もない身だ。

 アルバのような立場の者に、わざわざ大事な娘を託そうと思う親がいるはずがない。


 ***


 そのはずなのに。

 アルバは逃がしていた視線をちらっと上げた。ぱちり、水面をすくい上げたような澄んだ水色と目が合う。向かいの女性がにこりとほほ笑んだ。知らずほほが熱くなる。


 豊かな黒髪が首の横でゆるりと一つにまとめられて、肩から胸へこぼれている。シャツは首が詰められていて、銀ボタンが二つ留められていた。露出も装飾も抑えられた格好は年齢によるものだろうか。いや、10年前でも彼女が鎖骨を露わにしてネックレスを提げいる様子は想像しにくい。伏し目がちなやわらかい表情を見て、アルバはそう思い直した。

 彼女はクラウディア。いくつもの細工物工房を抱える大きな商店、”スワロウ工房”の娘で、アルバと丁度10歳離れた25歳だ。今は女学園でダンスを教えているという。こうして向かい合うと、銀ボタンの細工が精巧なことも、ドレスの仕立てと布地が一級品であることもよく分かる。


 アルバと父、クラウディアとその父親、そして中年の男女が一組。一行はフラワーガーデンが見えるラウンジでお茶を囲んでいた。ここは仲人を務める夫婦の屋敷だ。

 そう、仲人である。これはいわゆるお見合いだ。

 おっさん三人がはっはっはっと笑い、女性二人がおほほうふふと続くのを、アルバは遠くに感じていた。ここには「良いから、良いから」と兄によって連行されてきたのだ。父に異議を唱える暇もなかった。

 何でだ。何でこんなことになっているんだ。

 思考の沼に片手を突っ込んで、答えの出ない問いをぐるぐるとかき回す。


「おじさま、今お庭にグラジオラスが咲いているんですね。」


 これまでおっさん共の話に応えるだけだったクラウディアが、初めて自主的に口を開いた。


「先程話にも出た、弟考案の襟留め、あの花がモチーフなんです。拝見してきてもよろしいですか?」

「ええ。今が見頃なんですよ、ぜひご覧になってください。」

「ありがとうございます。アルバさんもいらっしゃいませんか?」

「へ?」


 やわらかな声が突然こちらに向いて、思わず間の抜けた声が出た。つられて間抜けな顔をさらしているはずだと気がついて、慌てて顔を引き締める。


「え、ええ。ご一緒させていただきます。」


 うわずりながら立ち上がった。


 ***


 道しるべ代わりの敷石をたどっていくらか行くと、隣のクラウディアがふぅと息をついた。アルバを見上げる。


「付き合わせてしまってごめんなさい。じっとしているのに疲れてしまいまして。」

「いや、俺もしんどかったので助かりました。」


 クラウディアに聞かれていなければ良いのだが、先程立ち上がった時にゴキッという音がした。彼女も似たような状態だったのだろうか。ちらりと様子をうかがうが、背筋を伸ばし指先までそろえた立ち姿には疲れなど一切見えない。さすが女学園の教師を務めているだけある。

 前方へ視線を戻して、アルバはぐっと詰まった。

 トの字になった道を真っ直ぐ行った先に、紫の花が並んで揺れている。そこまで行く途中で左手側に大きな池があった。水草が浮く水は澄んでいて、金と赤の魚がひらっと身を翻す様がよく見えた。


 通りたくない。


 アルバは池や川が苦手だ。水辺に立つと気分が悪くなる。小さい頃、いじめっ子に突き飛ばされて池に落ちたのが原因だ。その後は風邪を引き、なかなか引かない熱のために三日ほど寝込んだという。その辺りのことはほとんど覚えていないが。

 どうしよう。水が怖いなんて言いたくない。かといって訳も話さず場所を入れ替えて、右側に移ったら不審に思われるだろう。

 行くしか、ないのか。ぐっと唇を引き結んで腹に力を込める。

 と、目の端からふいっと黒い頭が消えた。驚いて振り返るとクラウディアは道を曲がっていた。右は右で白と黄色の花が咲き乱れている。


「襟留め、今作っているものは花の部分が白い石で出来ているんですが、黄色でもかわいいでしょうね。」

「あ、そうですね。」


 ガラスも扱っている花瓶屋として、もっと気の利いた返答があるはずなのだが、水から離れられた安堵が先に立って上手く言葉が継げない。アルバはさわさわと揺れる花を見た。

 真っ直ぐ伸びた茎に花が縦に並んで咲いている様子は、串に刺さっているみたいで面白いとは思う。しかし、クラウディアの鼻先まで高さがあるそれらが群生し、時折揺れると迫力があった。

 かわいい、かわいいかなぁ。いや、襟留めのデザインはこのような茂みではなくて、一本か二本なのだろうけど。

 クラウディアが足を止める。ふわりと笑みを浮かべて、黄色いラッパ状の花をのぞき込んでいる。花の列を見渡したアルバは脇にベンチを見つけた。三人掛けには狭く二人掛けには広い。クラウディアに勧めるかどうか悩む。自分達は座っているのに疲れて庭に出てきたのだから。


「驚いたでしょう?」

「え?」

「こんなおばさんを紹介されるなんて思わなかったでしょう?」


 肩越しに振り返ったクラウディアはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。一泊遅れてアルバは首を横に振る。


「いや、いやいやいや、アイ姉、じゃなかった、姉とそんなに歳変わりませんよね?」


 クラウディアがくすくすと笑う。花に向き直ると白い指で三角にとがった花びらをつついた。


「父は焦っているんです。私の同級生が次々と結婚して、年下のアイビィさんも婚約なさったでしょう? 私はいつまで独り身なのかと嘆くようになってしまいまして。」

「心配せずとも、クラウディアさんなら引く手あまたでしょうに。」

「卒業して10年近くも独り身なのに?」


 えーと。アルバが言葉を探してパクパクと口を開閉していると、クラウディアがふふっと笑みをこぼした。


「私が悪いんですよ。結婚する気なんて、これっぽっちもないんです。父も、私が教師になるのを認めてくれた時点で、諦めてくれたと思っていたんですけどね。」


 クラウディアが顔を上げる。花の向こう、遠く空を見つめているようだった。


「慌てて片付けなくたって、もうすぐいなくなるのに。」


 花を見ていた時と同じく彼女は笑みを浮かべている。それなのに、その横顔はひどく寂しそうだった。何かがアルバの中でひらめくが、ひらりと逃げてしまって捕まえることが出来なかった。


「そろそろ戻りましょうか。」


 そう声をかけられるまで動くことが出来なかった。目を離した隙に彼女が消えてしまいそうで。


 ***


 肘掛けにジャケットを放ってソファで休んでいると、友人宅から帰ってきたらしいクレエが駆け寄ってきた。


「どうどう? クラウディア先生、きれいだったでしょー?」


 まるで自慢するように誇らしげだ。


「知ってんの?」

「もちろん。あたし、先生にダンス習ったんだもん。」


 クレエは行儀悪く後ろからソファの背もたれにのしかかった。横から顔をのぞき込んでくる。


「で、で、先生どうだった?」

「どうって言われても。……アイ姉とちょっと似てる?」


 しゃべり方とか、ふんわりした笑みとか。

 クレエがニヤニヤと笑みを浮かべる。


「ほほーう? つまり、気に入ったと?」

「はあ? 何でそうなるんだよ。」

「だって、アルバってばお姉ちゃん大好きじゃーん。」

「ちげーよ!」


 むっとしてクレエをにらむが、姉はニヤニヤを引っ込めない。アルバはぷいっと顔を背けた。ふと、クラウディアの言葉を思い出した。クレエはとっくに学園を卒業しているが、後輩とも仲が良いから何か知っているかもしれない。


「クラウディアさんって、どこか行っちゃうのか?」

「うん?」

「今日、そんな感じのこと言ってたんだけど。」


 ぱちぱちと目を瞬かせてから、クレエは悲しげに眉尻を下げた。


「あの話、本当だったんだ。うん。新しく出来る学校に呼ばれてるんだって。トルナドだって聞いたよ。」

「……遠いな。」


 ここからずっと東に行った町だ。父の友人がいる町でなければ名前も覚えられないほど、アルバもクレエも縁遠い。

 クラウディアは父親が焦っていると言っていたが、それは娘をこの町に引き留めたいからかもしれない。


「クレエちゃん、ショールをほっぽっちゃダメですよ。」


 ひよこ色の布を腕に掛けてアイビィが部屋に入ってきた。クレエが弾かれたように立ち上がる。


「わ、ごめーんお姉ちゃん!」


 慌ててアイビィからひよこ色を受け取り自室へと駆ける。

 夏だからショールで済んだが、クレエは他に関心ごとがあるとその辺に抜け殻を残す癖がある。よほどアルバから先生の話が聞きたかったらしい。

 ため息をついたアルバは視線を感じて顔を上げた。追って横を向くと、アイビィが所在無げに身を縮めていた。困ったように眉を寄せてこちらを見つめている。


「? どうしたんだよ、姉さん。」

「ディーア先輩……、クラウディア先輩に会ったんですよね?」


 アルバは目を瞬かせた。確かにクラウディアはアイビィの先輩にあたるが、アイビィの入学が遅かったことも手伝って、在学期間は一年しか重なっていないはずだ。


「クラウディアさんと親しかったの?」

「親しいというか、お世話になったんですよ。学園になじめなかった頃に、何度か話を聞いていただいたんです。……ところで、」


 アイビィが心持ち距離を詰めてくる。


「先輩、何かおっしゃってましたか?」

「いや……?」


 アルバは首をかしげる。特別にアイビィの話をした記憶はない。アルバをじぃっと見つめてから姉は悲しそうに目を伏せた。


「……変なこと聞いてごめんなさい。」


 ふいっときびすを返す。しょんぼりと肩を落としたまま部屋を出て行ってしまった。


 ***


 クラウディアが何か言ったのか、はたまた何も言わなかったのか、二人の縁談はそれきり続かなかった。

 しかし、学園を中心に交友関係が重なるのだろう、パーティではよく顔を合わせた。話をしたことで学生気分がよみがえったのか、クレエがクラウディアを見つけては突撃していくのだ。アルバも姉を追いかけて挨拶をする。

 本当に、挨拶だけだ。先生を慕う10歳そこらの淑女達を、姉とそろって蹴散らす気にはなれない。邪魔にならないように直ぐ退散するようにしている。

 踊ってきたらどうだ、と兄に何度かつつかれたが、その度にアルバは顔をしかめた。


 ***


 年明けに学生主催の新年会が毎年ある。会場は学園のダンスホールで、それぞれの兄弟を招待することが出来る。

 アルバも兄姉三人を呼んでいた。姉妹でそろいに仕立てた黄色のドレスを翻し、クレエは機嫌良く弟の手を引く。


「もうアルバも卒業かー。来年は参加出来ないねー。」

「出たければ出れば良いだろ? ウィリアムさんも来てるんだし。」


 アイビィの婚約者であるウィリアムは妹が一人いるが、その妹も既に卒業しているのでもうただの部外者だ。しかし、アイビィに付き添って参加していた。先程までアルバもいた歓談席、ダンスフロアをぐるりと囲むそこから、友人と踊るアイビィをにこにこと見守っている。


 そうして辺りへと目を向けていたアルバは、クラウディアを見つけた。学生が教師や講師を招待することは珍しくないから、彼女も慕っている誰かに呼ばれたのだろう。声をかける少女達へ、クラウディアはその水色の目を細めて笑みを見せる。

 細身の青年が、横から彼女の手をすくった。黒い髪に、青い瞳。一度挨拶をしたことがある、彼女の弟のレイニーだ。

 くるくる、くるくると花が川面を流れるように二人は回り出す。前を横切った幼いカップルを避けた拍子に、レイニーが体勢を崩す。それをぐっと引っ張ってクラウディアが引き戻す。姉になんと言っているのか、レイニーが苦笑を浮かべた。クラウディアはくすくすと笑っている。その笑みにからかいはない。

 ひらり、と花が目の前を吹かれていくように、また何かがアルバの胸を過ぎた。


 ぐいっと腕を引かれてアルバははっとした。ぐるりっと脚を軸に回転するクレエを慌てて支える。


「アルバ? どうしたの?」

「あ、いや、ジョーがいたから。」

「へぇ。そっち行く?」

「いや、婚約者さんと一緒だったから。」

「そっか。それは邪魔しちゃ悪いね。」


 奏でられる曲がお気に入りのものに変わったからだろう、クレエのステップが跳ね上がる。アルバもそれに合わせて跳ねた。くるくる、くるくると際限なく回り続ける。クレエと踊るといつもリードを取られる。アルバは苦笑した。


「クレ姉は踊るの好きだな。」

「アンタだって好きでしょ。いつも楽しそうじゃない。」

「そう見えてるなら、俺達二人共、満点だな。」

「あら。男子の方でもそう教えるんだ?」

「え?」


 へぇーと感心しているらしいクレエに、アルバは驚いた顔を向けた。


「男子の方?」

「違うの? 私は授業で教わったんだけど。」

「アイ姉が言ってたんじゃなくて?」

「そうなの? お姉ちゃんもそう習ったのかな。私はクラウディア先生に言われたんだけど。」


 クレエが今度はアルバを振り回すように回転した。よろめきながらもアルバは何とか足を運ぶ。

 女学園では同じようにダンスを教えていて、アイビィが習ったことをアルバに教えた。何も不思議なことはない、そのはずなのに。クラウディアが口にしていた、ということがどうにも心の内に引っ掛かる。

 それは、どうして?


「あ、お姉ちゃん!」


 アイビィ達とすれ違い、クレエがぱっと顔を輝かせる。アルバが手を放すと、ひらりっとドレスを翻してアイビィの下へ飛び込んだ。くすくすと笑うアイビィと、にかっと笑ったその友人に受け止められて、ぐるんっと回る。

 歓談席へ向いて、アルバははっと目を見開いた。兄とウィリアムがいない。二人共どこに行ったのだろう。踊りの輪から抜けてきょろきょろと辺りを見回す。

 ここの歓談席は話をすることよりも踊りを見物することの方がメインだ。だから、みんなフロアの方へ向いている。時々輪を抜けたり入ったりとにぎやかだ。今も、妹に呼ばれて苦笑混じりに少年が立ち上がった。

 それを追うようにしてアルバはフロアを振り返った。案外踊っているのかもと思ったのだが、そちらにも姿はない。アルバは歓談席を泳ぐように進む。


 すいっとつややかな黒髪が視界をよぎった。ゆるく編まれた髪が尾を引くように揺れるのを思わず追う。クラウディアが庭へつながるガラス戸をくぐろうとしていた。


「クラウディアさん。」

「あら、アルバさん。こんばんは。」


 クラウディアはにこりとほほ笑むとドレスの裾をつまんでお辞儀をした。

 アルバはもう一度フロアを振り返った。先程彼女を見かけた場所では、レイニーが学生達とじゃれている。わざわざ抜けて庭に行くなんて、誰かと待ち合わせだろうか。


「……どうしたんですか? あちらはもう良いんですか?」

「ちょっと人に酔ったので、外の空気でも吸いたいと思いまして。噴水まで行こうかと。」

「噴水……。」


 ホールの庭には大きな噴水がある。生徒に人気のスポットだが、アルバは近寄らないようにしている。噴水の底が足場よりずっと下に作ってあって、見た目より深いのだ。アルバにとっては怖い場所である。しかし。

 アルバはちらりとガラスの向こうを見た。

 もう陽が落ちている。庭にもぽつぽつと灯りがあるにはあるが、それは装飾の役割が強く室内灯ほど明るくない。学園の敷地内で教師を襲う不届き者がいるとは思えないが、クラウディアを一人で送り出すのは何だか落ち着かなかった。


「俺も、丁度外行きたくて。ご一緒しても良いですか?」

「え? でも……。」


 クラウディアは戸惑うように言葉を濁すと、目を伏せた。彼女から拒絶の言葉が出る前に、アルバは先行して外に出た。


「今日は晴れていて、星がよく見えますね。」


 努めて明るく言うと、クラウディアも隣に並んで、きれいですね、と言ってくれた。アルバはほっと息をついた。


 ***


 庭を横目に回廊を進む。灯りにぼんやりと浮かぶ花を、クラウディアがにこにこと眺めている。

 いくらか行かないうちに柱の陰から跳ねた髪がのぞいているのを見つけた。濃紺に沈んでただの茶色に見えるが、その髪質もぼそぼそと聞こえる声も兄のものだ。

 こんな所にいたのか。


「あに……、」

「アルバとクラウディア嬢ってどうなったんだ?」


 兄へ呼びかけようとクラウディアより前へ出た足が、そこで止まる。

 先のウィリアムの声に、兄のトラモントが応える。


「あー、ダメっぽいなぁ。もう時間切れだし。」

「そうか、残念だったな。スワロウ工房と縁戚になれれば、貴族相手の仕事とかもっと入りそうだったのに。」


 そのウィリアムの言葉が、かっと頭に血を上らせた。それなのに、いやに胸の内は冷えている。

 なるほど。てっきり飲み過ぎて夜風にでも当たりに出たのかと思ったが、こういう話をしたかったのか。確かに、歓談席でするわけにはいかないだろう。クラウディアを慕う姉達、特にクレエの耳に入ったら大騒ぎすること必至だ。


「兄貴。ウィリアムさん。」


 ザカザカとわざと足音をたててアルバは二人の前に躍り出た。兄はびくっと肩を跳ねさせ、義兄予定はぎょっと目を見張った。


「あ、アルバ……。」

「今の話、何?」

「いや、アルバ、あのな、」

「うち今、金に困ってるわけ? だから、見合いを勧めたの?」


 兄がぶんぶんと首を横に振る。

 では、どうしてそんな話をしているのだ。もしかして、困っているのはウィリアムの方なのか。兄も、その友人であるウィリアムも、アイビィが傷ついていたのを見ていたはずなのに。

 アルバはぎろりとウィリアムをにらんだ。ふつふつと怒りが沸いてくる。


「ウィリアムさんがそんなこと考える人だとは思いませんでした。もしかして、アイ姉との婚約も何か裏があるんですか?」

「そんなわけないだろ!」


 激高してウィリアムが叫ぶ。頭に血が上ったアルバには、図星を指されて赤くなったように見えた。


「アイ姉を利用するつもりなら許さない!」

「だから、アルバ、違うんだってっ。」


 薪をくべられたみたいに頭がカッカッと燃えている。うろたえている兄へキッと視線を移す。


「俺だって、俺の相手は俺が決める! 俺も、”彼女”も、利用なんてさせない! 傷つけるなら絶対に許さない!」


 守るって約束した。俺が守るって、そう言った。


 ……誰と? ……誰に?


 ふっと湧いた疑問にアルバの思考が急停止する。自分は今、誰のために怒っているのだろう。何がこんなに苦しいのだろう。

 すいっと横で風が動いた。固く握りしめていたアルバの手へ、やわらかい手が触れる。その姿を認めて兄が青ざめる。ぎこちなく振り返るアルバを、水色の目が見つめていた。クラウディアがふわりとほほ笑む。


「アルバさん、落ち着いて考えてください。アルバさんのお父様は、我が子に気持ちの通わない結婚をさせるような方ですか?」

「……違う。」


 姉達への縁談を申し込まれた時はいつも、受けるかどうかまず当人に確認していたはずだ。


「では、お兄様は?」

「……。」


 アルバは思わず押し黙った。先日の見合いが強行されたのは、兄のせいだろう。

 クラウディアが苦笑する。


「私とのことは、すみませんでした。父が無理を言って、貴方を紹介してもらったんです。トラモントさん達は悪くないんですよ。」


 それでですね、とクラウディアは続ける。


「さっきの話も大丈夫なんですよ、アルバさん。トラモントさんもウィリアムさんも、仮定の話をしていただけなんです。そうだったら、こうだったのにねって。こうするつもりだったって、計画を立てていたんじゃないんです。そうですよね?」


 クラウディアに話と視線を振られ、二人がこくこくとうなずく。

 彼女はアルバの手を両手でそぉっと包んだ。


「お兄様もご両親も、誰も、貴方を利用しようなんて思っていません。貴方の大事な人を傷つけたりしません。貴方と同じくらい、大事にしてくれます。だから、大丈夫なんですよ。」


 手と同じやわらかくあたたかい声に、すぅっと熱いものが抜け落ちた。こくりとうなずくと、そっと手が離れた。アルバが何か応えようと口を開くと、タカタカとフロアの方から足音が近づいてきた。

 現れたのはつややかな黒髪の青年、レイニーだ。


「いたいた姉さん! 勝手にどっか行かないでよ。生徒さん達探してたよ?」

「あら、ごめんなさい。」

「ほら、戻るよ。あ、トラモントさん、ウィリアムさん、こんばんは。」


 今気がついた、という顔をしてレイニーは二人へ頭を下げた。姉へ手を差し出す。その手を取ってクラウディアはアルバへほほ笑んだ。


「私達はここで失礼しますね。……さようなら、アルバさん。」


 弟のエスコートでクラウディアは回廊の奥へ消える。

 アルバはぼんやりと二人の背中を見送った。本来なら紳士らしく礼を返す所だ。しかし、思いがけず与えられたショックで体が硬直していた。

 ありふれた別れの言葉が、アルバの胸を刺したのだ。


 行ってしまう。ディーアが、行ってしまう。


 自身の内から湧いた嘆きに驚いていると、横で兄が動いた。ひさしに遮られた空を仰いで片手で顔を覆っている。


「兄貴、」

「ごめん、アルバ。」


 兄弟の声が重なる。弱々しい声で兄は続けた。


「クラウディアさんの相手を探してるって聞いた時、チャンスだと思ったんだ。丁度良いきっかけだって。きっと上手くいくって。だってお前はあんなに……。」


 声として発したのかどうか、最後はもごもごと口が動いただけで聞き取れなかった。

 それきり、兄の口からクラウディアの名が出てくることはなかった。


 ***

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