136話 師弟 9/15
北の空では、あの禍々しい黒い影が、不穏な空気を感じ取っていた。
あの時に感じていた芳しい花の香。それが、どんどんと遠ざかってしまう。
あの気配。もう手に入る日は無いと思っていた、霊薬の気配。あの気配が遠のいていくのだ。
長年求めて、やっと手に届きそうなところに感じる蜜の匂いなのだ。逃すわけにはいかない。
もしや勘付いた……?
いや、そんなはずはない。
たとえ勘付いていたとしても、このスイの国はもうワシの手中も同じこと。
…… 待て。
これは御殿に向かっているのではないか……
何て都合がいい事か。
影はそう自分に言い聞かせるが、気持ちは焦る。
焦がれた物が手に入る喜びと、説明のしようのない焦燥感。
隠しようのない苛立ちを稲妻に代え、地上に漆黒の剣を落としまくった。
影が通るまでは青く凪いでいた海も、うねり千切れ、まるで真っ黒の指のような波が蠢く嵐の海になり果てた。
山原は黒い炎に焼かれ、追われた動物たちが逃げ惑う。
「トイフェルさま……! 止めクィミソーレー! 海も山原も動物も人もトイフェルさまのものヤイビーン! 全部トイフェルさまの財産やっさぁ……! 」
ブルブル震えるコロニーから、毛玉が一人立ち上がり、勇気を出して声を上げた。
「……お前、ワシに意見するのか。」
凍るような冷たい声。
影が、髪の隙間から声の主に視線を放つ。
「ヒィ! 」
勇気ある毛玉は震え上がり、コロニーの奥深くに隠れようと潜りだした。
「無能で惰弱…… まぁ、良い。お前らは雷が苦手なのだったな。」
呆れたようにトイフェルがそういうと、雷がぴたりと止んだ。
雷が止んだことを認識すると、毛玉たちはコロニーを解き、トイフェルの元に集まってきた。
本当のところ、この人型の影のようなものがトイフェルの本体なのか、はたまた帆船がそうなのか、もしかして、この海面に映る帆船の影が本体なのか、誰にも分らない。
「フン、胡乱な。」
髪の隙間からトイフェルの白い口元が不快に歪んだ。
「……おい、今ワシにたて付いたお前。」
トイフェルが、先ほどの毛玉、もとい、キジムナーを指さした。
「ひぃぃぃ、ワッサイビーン! 許してクィミソーレー……! 」
そういうと、目をつけられたキジムナーが一目散に、帆船から逃げて飛び出そうとした。
「逃げるな。……ハハハハ! お前、ちょうどいい。」
「へ? 」
「お前、先に御殿へ行き、達成の鍵の乙女を捕えてこい。それで先ほどの事は水に流してやろう。」
「……達成の鍵の乙女ヤイビーガ? 」
キジムナーは、聞き覚えが無い言葉に首を傾げた。
「聞こえたなら、さっさと行け! 」
トイフェルは指をそのキジムナーに向け、小さな稲妻を飛ばした。
「ヒィィィィィ! 」
びっくりした毛玉は飛び上がると、そのまま一目散で御殿へと飛んで行った。
「おい、お前らも、何をぐずぐすしている! 稲妻は止んだのだ。早く民家に行き、家畜や食料を集めてこい! 」
そういうと、適当に毛玉めがけて、何発か稲妻を飛ばした。
キジムナーたちは小さな悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らしたように船から飛び立っていった。
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クィミソーレー / ください
ヤイビン / ~です
ですか / ヤイビーガ




