72話 魚釣島の清明 8/16
メイシアは船に乗っていた。
といっても、あの不思議な透明な空飛ぶ船ではない。手漕ぎの小さな木造の船。メイシアが昨晩寝ていたあの船だ。
「森榮! もっと頑張れー! 」
船尾に設置された櫓を漕いで船は前進するのだが、それを自分が漕ぐと朝から息まいていた森榮が、序盤でバテ始めていた。
「アギジャビヨー! こんなに大変だなんて思わなかったさぁ! 」
ぶるぶる汗をかきながら、森榮が櫓杵と櫓柄を握り、前へ後ろへ漕いでいる。
「なに、弱音をぃうんさぁ。メイシアにいいところ見しゆんさぁ? 」
「アッゲ! ネーネー、何ぃうん……! 」
「あのぉー……私が交代しようか? 」
「あーー、大丈夫。コイツが、いつも海に出るのを嫌がって手伝わないのがワッサンドー。」
そういうと、ナギィは一つため息をついて、
「……アッシェ、仕方ないさぁ。森榮、ネーネーと代わって。」
それを聞いた森榮が待ってましたと言わんばかりに、開放感から大きな声をあげながらその場に倒れ込んだ。
「ほら、邪魔。あっち行って」
ナギィに足で櫓の前から追い出され、四つん這いでメイシアの横に来た。
「汗びしょだね、お疲れさま。」
メイシアに声をかけられて、焦った森榮は「こんなん、何でもないさぁ」と傍でも聞き取れないくらいの小声でつぶやき、ぷいっと海の方を向いた。
「こら、森榮。こっち見て! いい機会だから、ちゃんと船の漕ぎ方を見ておくんだよ。」
「ったく、ネーネーは人使いが荒いさぁ……アガッ! 」
もちろん、森榮の坊主頭にナギィのゲンコツが落ちた。
「は? なんか言った? まだヤーは何にもしていないでしょ? 」
「つーーーー。凶暴 女…… 」
「……もう一発行こうか? 」
ナギィが拳を握った。
「あはははははは! 」
突然、こらえきれずにメイシアがお腹を抱えて笑い出した。
面食らった二人がメイシアを不思議そうに眺めた。
「ああ、ごめん。本当仲がいいんだなぁと思って。」
「メイシア、こんなのは仲がいいって言わないさぁ。ほんと、森榮はヤナワラバーで手を焼いて…… 」
「ネーネーは、手が早いのがいけない。そんなだから男女って言われるさぁ! アガッ! 」
「あはは、ほら、仲がいい。」
「「だーかーらぁーーー」」
「あはははは……。いいのいいの。私、二人みたいな姉妹……じゃないけど、姉妹みたいな二人を知っているよ。二人も全く同じことを言っていたなぁ。私は姉弟がいないからそういうの、うらやましい。」
「……メイシア、なんか、辛い事思い出させた? 」
「違うの。大丈夫。本当に面白かったし、うらやましいと思ったんだよ。」
「……それならイーヤシガ……なんか、言いたいことがあったら、ちゃんと言ってね。」
「うん。ありがとう。」
「……ワンも、ごめん、」
森榮がまた、何を言っているかわからないくらいの小さな声で、ぼそっとつぶやいた。
「ん? 」
「何でもない! 」
「森榮、ちゃんとこっち見て。船は体全体で漕ぐの。ヤーは腕だけで漕ごうとするから、すぐにバテてしまう。ほら、こうするさぁ! 」
ナギィが櫓を持ち、漕ぎ始めた。
腕はほとんど固定したままで、伸び縮みはするものの、それは身体全体の重心を前後に動かす時のバネのように見えた。
「島の人たちはサバニを使うけど、私達は乗る時一人だし、力も弱いからコレを覚えないといけないよ。」
ナギィが漕ぐと、森榮の時よりも櫓が奏でるギィという音のストロークが長く、ゆったりと一定で、聞いていて心地が良かった。
島を見据えたナギィがニッと笑った。
「ウリカラ、歌えばもっと島が近くなる。」
そういうと、ナギィが櫓の軋む音に合わせて、いい声で歌いだした。
「サー安里屋ぬークヤーマに ヨー
サー ユイユイ
あん美らさ 生りばしヨー
マタハーリヌ チンダラ カヌシャーマーヨー
サー目差主ぬ請ゆだらヨー
サー ユイユイ
当たりょ親ぬ 望むたヨー
マタハーリヌ チンダラ カヌシャーマーヨー
サー目差主や私否ヨー
サー ユイユイ
当たりょ親や 是りゃゆむヨー
マタハーリヌ チンダラ カヌシャーマーヨー……」
愁いを帯びたメロディーを、櫓の音と波の音が優しく慰めているような響きだった。
さっきまでの姉弟のドタバタの空気が、ナギィの歌声で一転、ただ藍い世界に、船がポツンと揺られている。ただそれだけ。
不思議な世界。
藍の空間を、浮いた船は歌に合わせて揺られ、進んでいく。
「……ナギィの声って不思議。それに、ナギィにかかったら、何でも楽器になってしまうのね。」
メイシアが今まで聞いたことが無い不思議なこぶし。聞いたことのない不思議な言葉。今までただの音だと思っていた櫓の音も、櫂が水を掻く音すら伴奏になる不思議。
でも、それだけじゃない。
確かにナギィの声には不思議な魅力があった。
一瞬にして、周りの空気の粒を整列させるような、空間そのものを一番正しい状態へ戻してしまうような。そんな声だった。
メイシアの心も、ナギィの声と十六夜の海の音に整えられるようだった。
船は引き波の裾を広げながら、まっすぐ魚釣島に向かって進んで行った。
歌:安里屋ゆんた(沖縄民謡)