七
冬休みの前日に卒業論文を提出して、年が明けて、卒論の口頭試問が終わった。卒業式まで大学に行く必要はない。
二月中旬、古泉蓮は引っ越しの準備をしていた。
電話をしたら引っ越し業者の人が部屋を見に来て、数日後にたくさんのダンボールと布団を入れる袋が届いた。数日かけて少しずつ荷物を入れていった。部屋が寂しくなるにつれてダンボールが積み重なっていった。天水に少し手伝ってもらい、期日前に終わった。
引っ越しに際してしておくことが紹介されているウェブサイトを見て、古泉は転出届をまだ出していないことに気付いた。
荷物引き取りの三日前、古泉は歩いて市役所に向かった。通学路の途中にあるが市役所に入ったことは数回しかない。この町に引っ越して来た時、住民票を取りに来たとき、ゴミ収集日のカレンダーを取りに来たとき、くらいだ。
おそらく、もう来ることもないだろう。そう思って市役所を見上げてから、中に入った。
正面の受付の人が笑顔でお辞儀をしたので、会釈をしてから、
「あの、転出届はどこに行けばいいですか?」
おかしな日本語を発してしまったことに、言ってから気付いた。が、受付の女性は気にする様子もない。古泉から見て右側を手で示して、
「あちらの角の手前が住民課の窓口です。そちらの『住民課』のボタンを押して、番号が呼ばれるまでお待ちください」
長椅子が並んだエントランスの端にある機械の方に手を動かして言った。
「ありがとうございます」
お辞儀をすると返してくれた。
言われたとおりにボタンを押した。椅子に座って周りを眺めていると、先輩の瑳内を見つけた。さっき指し示された角の手前辺りにいる。
番号を呼ばれた。住民課と書かれた札が天井からさがっているところまで歩いた。瑳内がいた。
「へいらっしゃい。今日はどんなご用件で?」
とりあえず番号が書かれた整理券を渡した。
「て、転出届をください」
きわめて冷静に、古泉はこたえた。
「かしこまりました。転出届一丁、今日は生きのいいのが入ってるよ」
周りもそれなりに騒がしく、瑳内は他の人に聞こえるかどうかという声量だった。古泉はバイトをしていたときは「知り合いにはあらたまった対応をしなくていい」と教わったが、市役所でこれはいいのだろうか。
「何屋ですか」
「魚屋さん的な?」
「ここは?」
「市役所です」
「はい」
瑳内に促されて椅子に座った。真面目に転出届の書き方と、引っ越し先での手続きを説明された。記入は数分で終わった。
「ああ、古泉、今夜ヒマ?」
書き終わった時に瑳内が聞いた。
「特に予定はないですよ」
引っ越しの荷物の整理はあとは当日で間に合う。
「じゃあ卒業記念と言うことでお姉さんがディナーをごちそうしよう」
「いいんですか?」
「実家暮らしの社会人の懐をなめるなよー」
「フルコース的なもので」
「社会人三年目の公務員の懐に負担を強いてはならない」
「冗談です」
「とりあえず、仕事終わったらメールするから食べたいものでも考えといて。それと、天水も来れるか聞いておいて」
「わかりました。ありがとうございます」
「また後で」
「はい」
古泉は市役所をあとにした。これで引っ越しの準備はほとんど終わってしまった。
天水にメールを送り、市役所の前の道まで出た。家とは反対側の大学のある方に目を向けてから振り向いた。進む先に大きな楠がある。
横断歩道を渡って楠の下まで来た。見上げていると天水から返信が届いた。彼女も夕食に来られるようだ。
楠に背を向けた。少し遠回りして家まで帰った。