四
大学に入って四度目、おそらく人生最後の長い夏休みも半分過ぎた。
古泉は県内の市立図書館に司書として就職することが決まった。合格通知は夏休みに名入った頃に届いた。
就職試験の勉強のために天水が写真部をやめたのが夏休み前の七月で、古泉も一緒にやめた。今の部長は夏川で、副部長が橋野だ。
天水の試験は夏休み明けにある。今日は勉強の息抜きになればと思い、古泉が天水を誘った。最近は会う度に「暑い暑い」と言って来るので、涼しい場所に行く予定だ。
行く場所はメールですでに伝えた。天水は行ったことがあるとのことだが、そこが「涼しい場所」という思い出はないとのことだった。
古泉はインターネットで調べてその場所のことを知った。行くのは初めてだ。
二人は駅前で待ち合わせて、そこからバスに乗った。目的地は隣町に入ってすぐの所にある。自転車でも行ける距離だが、山道で道が狭いうえに交通量が多いので危険だからやめた。
バスは彼女たちの最寄り駅を出発し、神社の前を通り、大学の正門の前を過ぎ、国道に合流してすぐ左折し、町の東側を流れる大きな川を渡った。
バス二台がすれ違えないのではないかと思えるトンネルを抜けると、森の中の山道となった。
道が狭くカーブが多いのでバスはゆっくり走っている。通路側に座った古泉が反対方向の車窓を眺めていると、なかなか大きな動物が目に入った。
「……あれ、鹿?」
あまり自身がなかったので、指を指して天水に尋ねた。動物から視線は外していない。
「え、どこ?」
「あそこ」
「ホントだ。鹿だね」
いい具合にカーブにさしかかったので数秒間鹿を眺められた。
「まさか市内に鹿がいるなんてねー。知らなかった」
突然だったので、二人とも写真に撮ることを忘れてしまっていた。
上り坂が終わったところにトンネルがあった。トンネルを抜けると下り坂になった。ここから隣の市に入る。
下り坂の傾斜が緩やかになった時、降りるバス停の名がアナウンスされた。
「ここだよね?」
「ん」
古泉はうなずいた。天水は降車ボタンを押す。停車のアナウンスが流れて、窓から日を受けて輝くダムの水が見えた時、バスは停まった。
料金を払ってバスを降りる。降りたのは彼女たちだけで、バスはゆっくりと走っていった。
道の反対側、ダムの手前に鳥居が立っている。そばにはいくつかの大きさの揃っていない石灯籠が並んでいて、一緒にわかりやすい大きさの案内板があった。
鳥居の先の道はしばらくダムに沿っていて、やがてダムにそそぐ小川の方に曲がっていき、石でできた鳥居が見えた。道の脇には車が十台ほど止められそうな駐車場があった。二台の乗用車が止まっている。
二つ目の鳥居の奥の道も、まだ小川に沿っている。澄んだ水の小川のせせらぎは涼しげで、森の中なので強い日差しは当たらないが、バスを降りてからずっと蝉時雨に囲まれている。
「暑い?」
天水に聞いてみた。
「暑い」
無駄に力強く頷いた。小川のせせらぎ程度では避暑にならないらしい。
少し進むと、小川にかかる石橋が見えた。石橋の向こうには階段があり、上ったところに社がある。社の手前から細い滝が流れ落ちていて、その水が小川をつくっている。
古泉が先に短い石橋に足を踏み出した。すると、背後からシャッター音が聞こえた。振り向くと、天水が少し道を戻ってカメラを構えていた。もう一度シャッター音がした。
天水は小走りで石橋を渡り、古泉の横に並んだ。
「いい感じの構図だったもんで」
言い訳するように言った。
「左様で」
階段を上ると右側に社があり、その左に小さな池がある。社の右側には屋根付きの休憩所、その右にはさらに森の中に入っていく小道がある。池の前には二人の先客がいて、水をポリタンクに入れていた。
岩の間から木の樋をつたって水が池にそそがれていて、その池から流れる水がさっきの滝となって小川へ落ちている。綺麗だなー、と思って流れを眺めていると、
「はい」
天水がプラスチックのコップを差し出した。
「ありがとう」
受けとって、順番を待った。
たいして待たないうちに二人組は容器を一杯にして、彼女たちに会釈をしてから、重そうに持って帰って行った。
二人は池の縁にしゃがんで、樋から流れる水をコップで受けた。乾杯して、飲む。
「この一杯のために水分を持ってこなかった甲斐があった」
一気に飲み干して天水が言った。
「今まで飲んだ、どの水道水よりもおいしい」
と古泉が感想をもらした。
「いや、水道水と比べられても」
「そういうこともあるさ」
「せめてミネラルウォーターとかと比較しようよ」
「あまり飲んだことない」
「そっか。じゃあ仕方ないね」
「ん」
もう一杯コップに水を入れて、社の右側にある休憩スペースに腰を下ろした。しばらく休憩していると、正面を人が横切った。森の中へと続く道から帰ってきたようだった。
「そろそろ行こう」
「うん」
天水は元気よくこたえた。
そこからは山道だった。道は狭いが一本道で、ある程度は整備されているらしく歩きづらいというほどではない。
古泉が先を歩いた。気のせいか、先ほどまでよりも蝉の声が遠くに聞こえる。鳥の声もたまに聞こえるが、耳に届いてくるのは木々の穏やかなざわめきばかりだ。喧噪とは遠い。
「私さ、ここに来たのは結構小さいときのことだったと思う。正直よく憶えてないんだけどね」
歩きながら天水が言った。
「何歳頃?」
「うーん、小学校に入る前だと思う。さっき池のところにしゃがんだとき、なんか見覚えがある気がしたんだ」
「この先は?」
「ぜんっぜん記憶にない」
「なら、よかった」
「よかった?」
「サプライズ的に」
「じゃあ、楽しみにさせてもらいますか」
短い上り下りを繰り返して道は続いた。
「古泉は、さ。私と一緒に写真部やめてよかったの?」
わずかな沈黙のあとに天水が言った。
「……天水こそ、学祭くらいまではやめないと思ってた」
歩きながら、振り返らずに言った。
「今やれることはやっておきたいからね。もし内定できなくても写真部のせいにされたくないし」
「うん」
「部活のある曜日にカレンダーを見るとちょっと淋しくなることもあるよ。でもね、今も楽しいんだ。構ってくれる誰かさんたちのおかげで」
「天水って恥ずかしいことを割と口に出すよね」
足を止めて振り向いて言った。
「古泉はもっと言葉にした方がいいとおもうよ。私はね」
「……私も楽しい、よ」
少しうつむき加減になってしまった。
「前言撤回。やっぱたまにのほうが破壊力あるわ。このままでいこう」
「わかった」
前を向くと、数十メートル先に木の階段が見えた。あまり長くはない階段の先に目的地がある。そこには、人一人がやっと入れるほどの洞穴と立て札があるだけだった。
「先歩いて」
天水に言った。
「押さないでよー」
天水は笑いながら古泉の前に行った。
「先に行った方が、お得なはず」
「帰りは古泉が前ね」
「しかたない」
階段を上りきったとき、正面から風を感じた。森の中を吹いていたものとは違う、涼しいと言うより冷たい風が、洞穴から間断なく吹いてくる。洞穴の横ん@立て札には「風穴」の文字。
「涼しい! 私ここに住む!」
「蚊がすごそうだけど、どうぞご自由に」
少しの間洞穴の前で話してから、神社を後にした。来たときと同じバスに乗って、海を見に行った。