第06話 ねこ耳の少女と不思議な鏡 (3)
「……えっ?」
自分の立つ大地を、ミアは唖然として見下ろした。
そして、先ほど出てきた建物を愕然とした表情で見上げる。
14階建ての高層マンション。
一体全体、なにがどうなっているんだとミアは瞳孔を細くした。
巨大過ぎる建物。王都に聳えるセレスティア城とて、ここまでの大きさではない。
しかも見渡せば、辺りには他にも何軒か似たような大きさの建物が点在していた。
遠くに見えた30階建てのオフィスビルに、いよいよミアの身体が固まる。
「言っただろう。ここが僕の生まれ故郷だ。君たちの世界から見れば、異世界に当たる」
「異……世界?」
偏也がゆっくりと歩きだし、ミアは慌てて背中を追った。
くらくらとする頭で辺りを見回しているミアに、偏也はあくまで淡々と説明する。
「見ての通り、僕の世界は君たちの世界よりも些か文明が進んでいる。僕が向こうの世界で成功しているのも、そんなところが理由だ」
言われても、ミアはただ頷くしか出来ない。地面がなにやら固いことに気がついて、ミアは足下を見つめる。先ほども思ったが、土ではない。石のようだが、こんなにも大きな継ぎ目のない石畳は初めて見た。
しかも、夜なのに明るい。歩道に取り付けられた街灯を眺める。揺らめく炎の街灯ではない。電気が持つ、強力な文明の光だ。
「って、にゃああああッ!?」
そのとき、一台の車が二人の横を追い抜いていった。驚いて叫ぶミアに、偏也は注意するように口を開く。
「い、今のは……?」
「自動車だ。君の世界にも馬車があるだろう? 気をつけたまえよ、轢かれたら死んでしまうのは馬車と同じだ」
偏也の言葉に、ミアの背がピンと伸びた。交通ルールは教えないといけない。ちょうど見えてきた信号機の前で、偏也は立ち止まった。
車の通りの少ない時間帯。いつもなら無視するところだが、異世界の少女の手前そうもいかない。
「あれが信号機。赤が止まれで、青が進んでよし。向こうのが車の信号機だ。安全のためにもキチンと覚えておきなさい」
「は、はいッ」
真剣に頷くミアに微笑んで、偏也は信号が青に変わるのを待つ。
案外と、放り出されれば順応するものだ。きょろきょろと辺りを警戒しているミアの瞳に、僅かながらの好奇心の余裕が生まれるのが見て取れた。
「まずは飯だな」
地球でも同じだ。異文化の民と心を通わすならば、飯を囲むのが手っ取り早い。
◆ ◆ ◆
「分からないと思うから僕と同じのにしたよ」
店員に食券を手渡し、そう言いながら席に座る偏也をミアはじっと見つめていた。
明るい店内には客は自分たちだけ。時間が時間だし、好都合なのはいいことだと偏也はグラスの水を飲む。
氷が入ったプラスチックのグラスを、ミアはゆっくりと持ち上げて口に付けた。
「……冷たい」
驚いたように目を見開くミアに、偏也が何の気なしに言ってやる。
「どうせ水はタダだ。好きなだけ飲むといい」
「えっ!?」
偏也の指さした先には、普通に氷水の詰まった容器が置かれている。
向こうの世界では氷は貴重品だ。夏場の頃は、貴族でもなかなか手に入れることが出来ない。
そこまで考えて、ミアは歩いてきた道が暑かったことを思い出した。
しかし、今現在感じる冷たい空気に、思い違いかと眉を寄せる。
「向こうとは季節が逆になっていてね。こちらは今は夏だ。外は暑かったろ?」
「あ、なるほど……って、えっ?」
いつの間にか偏也はコートを脱いでいる。捲り上げられた袖を見ながら、けれどミアは周りの冷気に首を傾げた。
違和感のある冷たさだ。冬の寒さとは違う、なにか人為的な。
「クーラーといって、部屋の温度を調節する機械だ。僕はちょっと苦手だけどね」
「は、はぁ」
偏也の言葉が全て、幻想のようにミアには感じられる。ぽかんと口を開けているミアを、偏也は愉快そうに眺めた。
平成の日本に生きる自分たちは、娯楽小説や漫画でやれファンタジーだやれ魔法だと胸を躍らせる。
しかし、なんてことはない。この平成の世の科学技術が、異世界の住人から見れば魔法でしかない。
「いいかげん、驚いたかね?」
偏也の問いに、ミアはこくこくと頷いた。
ミアとて、全く理解できないわけではない。王都では鉄道の建設が進んでいると聞くし、祖母の時代は手縫いだった裁縫も今ではミシンが主流だ。
技術が進んだ先。そんな世界から自分の主人はやってきたのだと、ミアはなんとなく理解した。
「もちろん、あの鏡はこの世界でも魔法のようなものだ。偶然手に入れてね。おそらく、向こうの世界と行き来しているのは僕だけだろう」
その言葉に、ミアは少しだけホッとする。なぜだかは分からないが、あの鏡は公にしてはいけない気がした。
偏也も、おそらくはそう考えているのだろう。絶対入るなとの言付けからも、それは確かなはずだ。
「ヘンヤさん、なんで私を……」
ならばなぜ、風呂程度の問題で自分をこの世界に招いたのか。
ミアの視線に、偏也はなにかを答えようと口を開きかける。
「はい、牛丼の並盛り二つですね~!」
しかしそれは、元気のよい店員の声にかき消された。
目の前にゴトゴトと丼を置かれ、偏也の意識が牛丼に移る。
ミアも、目の前に現れた丼に目を奪われた。
「……とりあえず食うか」
そう言って箸を取る偏也に、ミアもこくこくと頷くのだった。
◆ ◆ ◆
久しぶりに食べたが美味いものだと、偏也は牛丼を噛みしめた。
肉の塊ではない。薄切りとも呼べぬような肉だが、これはこれで美味い。
「美味しいです……」
目の前で驚いているミアに、偏也は頷いた。甘辛い味は苦手な外国人の人も多いから心配だったが、どうもお気に召したようだ。
箸ではなくスプーンで必死に牛丼を食べるミアを、偏也は微笑ましく見つめる。
さっきから店員が興味深げにミアをチラチラと見つめてきているが、特に問題はない。
ネコ耳をぴこぴこと、尻尾をぶんぶんと振りながら牛丼を食べているミアは愛らしいが、こうして日本で見てみるとかなりシュールだ。しかも、エプロンを脱いでいるとはいえ格好はメイド服。
店員が気になってしまうのも仕方がないとは言えるが、そこは店員も日本人。特に声を掛けてくることもなく、不思議そうにミアを眺めていた。
「へ、ヘンヤさん……美味しいですっ!」
「そうか。それはよかった」
口の周りに米粒をくっつけて、ミアが興奮した様子で口を開く。
案外と、最初は下手な高級店よりはこういう大手チェーンがいいものだ。
ぱくりと肉と飯を口に放り込み、咀嚼する。……普通に美味い。
ミアのように感動するとまではいかないが、本当に”普通”に美味しい。
日常の味だ。普通で、平凡な。
しかし、考え尽くされた大手の味だ。
コンビニ飯だってそうだが、大手の開発を舐めてはいけない。
値段にまで言及するならば、この味をこの値段で提供できる個人の店は皆無だろう。
「すごく美味しいですっ!」
「そうか、それはよかった」
久しぶりに、玉入りにしておけばよかったか。そうすれば、生卵でもうひとつびっくりさせられたのに。
そんなことを考えながら、偏也は自分のメイドをぼんやりと眺めた。
『なんで私を……』
ミアの消えた問いかけが、偏也の脳裏にぷかりと浮かぶ。
自宅の掃除。そんなものが理由にならないことくらいは、分かっている。
「なんでだろうね」
呟いて、偏也はグラスを持ち上げた。
このなんの変哲のないプラスチックも、向こうにいけばお宝だ。
「……冷たい、な」
なぜを頭の中で回しながら、偏也は氷水を口に含む。
ただ、今夜の牛丼は特に美味い気がした。