第05話 ねこ耳の少女と不思議な鏡 (2)
「えっ? 入っていいんですか?」
連れてこられた扉の前で、ミアは偏也の顔をまじまじと見上げた。
「まぁ、構わないだろう。隠し通せるものでもないし、君には話しておいたほうがいい」
二階、偏也の寝室の隣。絶対に入るなと言付けされていた、あの部屋だ。
部屋の鍵を偏也が開け、扉がギィと開いていく。
その先に広がる光景に、ミアは小さく声を上げた。
「……えっ?」
いったい、なにがあるのかと思っていた部屋。
その手の部屋は、いってしまえばお決まりのパターンがある。
あまり人に言えない趣味であったり、非合法のものであったり、それこそ隠し子であったり。
しかし、目の前の広がった部屋はミアの想像とは違っていた。
姿見。
大きな鏡が、それだけが部屋の奥の壁に掛けられている。
それ以外はなにもない。ゴミどころではない。本当になにもない。
窓すら付いていない部屋を眺めて、ミアは不思議そうに偏也を見上げた。
「あの、ヘンヤさん。ここは……」
もっともなミアに質問に、偏也は無言で鍵を掛ける。
内側から掛けられた鍵に少しだけどきどきしつつ、ミアは偏也の返事を待っていた。
「この姿見は、特殊な鏡でね。異世界と繋がるゲートになっている」
「……はい?」
ようやく呟かれた偏也の言葉に、ミアは思わず声を出す。言っている意味がまるで理解できない。
なにか聞き間違えただろうかとネコ耳を動かすミアを、偏也は愉快そうに見下ろした。
「百聞は一見にしかず。まぁ見ていたまえ」
そう言いながら、偏也は鏡へと右手を翳す。すると、偏也の指先が鏡に触れた瞬間、鏡に波紋が広がった。
ミアの目が見開き、そのまま偏也の右手が鏡の中に飲まれていく。
ゆっくりと右手を引き戻して、偏也は何事もない自分の腕をミアに見せつけた。
「今、僕の右手は鏡の向こうの世界に行っていた」
「ふぇっ!?」
偏也の説明を聞いて、ミアがあんぐりと口を開ける。目の前で見せられても、俄には信じられない。
おとぎ話に聞く、魔法の鏡。泉に飛び込めば、そこは別の世界だった。そんな絵本も子供の頃に読んだことがある。
しかし、それが現実に存在すると言われれば話は別だ。
疑いの眼差しを向けるミアに、偏也はにやりと笑う。
「まぁ、実際行ってみるのが手っ取り早い。ほら」
「えっ? うにゃっ!?」
右手を握られ、ミアの顔が赤く染まった。そのまま手を引かれ、ミアの身体が一歩前に進む。
「一応手を離さないでくれよ」
「にゃっ! わっ!?」
瞬間、ミアは我が目を疑った。目の前で偏也の身体が鏡の中に消えていき、引かれた左腕が鏡へと飲み込まれる。
たまらずミアは目を瞑り、引かれるままに数歩の距離を駆け抜けた。
数秒後、どうやら止まった偏也の歩みに、ミアは恐る恐る目を開ける。
ゆっくりと開いていく瞼。
そうして見えた光景に、ミアは驚愕して息を呑む。
「ようこそ地球へ」
偏也の声をどこか遠くに聞きながら、ミアは思わず自分の足下を確かめるのだった。
◆ ◆ ◆
(き、汚い……)
ミアの抱いた感想は、そんな感じだった。
「驚いたかね? だが、これは現実なのだよ」
隣で偏也がなにやら真剣な声を出しているが、正直それどころではない。
脱ぎ散らかされた衣服。テーブルに詰み上がった皿やコップ。
床は足の踏み場はなく、かろうじてゴミはゴミ箱に入っているのが救いか。それでさえ、入れすぎて今にもゴミ箱から溢れそうだ。
本や書類。用途のよく分からない小物に、使った後と思われるタオルや靴下。それらが床の上に散乱している。
着る予定の服やコートだけが、なんとか椅子の背に無造作に掛けられていた。
異世界だかなんだか知らないが、とりあえずこの惨状をなんとかしなければ。
あきれ果てた眼差しでミアに見上げられ、偏也は不思議そうに首を傾げる。
「……驚かないのかね?」
「驚きましたよ。まさか、お屋敷よりも汚いとは」
ミアの発言に、偏也はうーんと眉を寄せた。
まぁ確かに、部屋の中だけでは異世界だの言われてもピンとこないだろう。
「いや、一見散らかってるように見えるがな。実は考え尽くされたレイアウトなのだよ」
「片づけれない人は皆そう言います」
ミアに淡々と返されて、偏也は参ったねと頬を掻いた。
自分でも、片づけが出来ないタイプなのは分かっている。だからこそメイドを雇ったわけだが。
「ま、ここも君に掃除してもらうとして。今日の目的は風呂だ。来なさい」
「えっ? あっ、待ってくださいっ」
廊下へと歩き出す偏也の背中を、ミアが追う。
地球の品々が散らばるリビングを、ミアは尻尾を振りながらついて行くのだった。
◆ ◆ ◆
「十分ほどで沸き上がるから、自由に使ってくれていい。タオルはここにある」
風呂場を案内されたミアの目がまん丸に見開いた。
そういえばと、辺りを見上げる。
連れてこられたときは、確実に夜だった。それは部屋の窓から見えた夜空からも確かなはずで、しかしながら部屋の中は煌々と昼のように明かりが灯っている。
天井の蛍光灯を、ミアは唖然とした表情で見上げた。
「ん? ああ、電灯か。向こうの屋敷では蝋燭だからな。ほら、このスイッチでオンオフ出来る」
「ふにゃっ!?」
偏也の指先がスイッチを捉え、浴室の電気が点いては消える。
指先に従い点滅する明かりを目にして、ミアはいよいよ固まった。
(ま、魔法使いだ……!)
今までピンと来ていなかったが、ここまでくればミアにも理解できる。
火の光を自在に操る。そんなことは魔法使いでもなければ不可能だろう。
きらきらと輝くミアの瞳に、なんだかなぁと偏也は頬を掻いた。
そうこうしている内に湯が半分ほど溜まる。ひとまずシャンプーとボディソープだけでもと、偏也はミアに見せつけた。
「こっちの水色が身体を洗う石鹸で、赤いのが髪を洗う石鹸だ。好きに使いなさい」
「は、はいっ。ありがとうございますっ」
予め持ってこさせられた着替えを抱き抱えながら、ミアはぺこりと頭を下げた。そのまま、偏也は「それじゃあ」とリビングに戻っていく。
「えと、ヘンヤさんは?」
「僕は入った。……なんだい、一緒に入りたいのかい?」
思わずかけてしまった声の返事に、ミアの顔が真っ赤に染まった。ピンと固まるミアの尻尾に、偏也は愉快に笑みを浮かべる。
偏屈そうに笑いながら、偏也は光の部屋に消えていった。
「……にゃぅぅ」
やってしまったと、ミアは赤くなった顔で着替えを抱きしめるのだった。
◆ ◆ ◆
「にゃふっ!? すごいっ!?」
お風呂場で泡だらけになりながら、ミアは全身を洗っていく。
なにやら石鹸からいい香りがしてきて、ふんわりと夢見心地だ。
「お湯も……こんなにいっぱい」
浴槽の湯を見つめて、ミアは唖然と手を入れた。温かい。
これほどの湯量、薪で用意しようとなると大変だ。それを僅か十分足らずで。
ミアは確信した。噂は本当だったのだ。
偏也は正真正銘の魔法使い。それならば、一代にして財を築けた理由としても納得がいく。
「と、とんでもない人に雇われちゃったんじゃ……」
ただのお金持ちではない。どこか不安と期待が入り交じる気持ちの中、ミアはとりあえずと尻尾にシャンプーを垂らすのだった。
◆ ◆ ◆
「おっ、出たか。いい湯だったかい?」
「は、はいっ! 気持ちよかったですっ!」
ミアがリビングに戻ると、偏也はソファーにもたれ掛かってテレビを見ていた。
なにやら人が映っている箱に、びくりとミアが身体を強ばらせる。
恐る恐るミアがテレビを見やると、箱の中では小さな人が数人入って笑い合っていた。
「にゃっ? えっ?」
お決まりのように狼狽えるミアを眺めて、偏也がくすりと笑みを浮かべる。さしもの偏也も、このミアに笑わずにいろというのは厳しい。
からかってやるかと、偏也は何でもない風にミアに告げた。
「あれは魔法の研究の為に小さくなってもらっている人たちだ。集めるのに少々苦労したけどね」
「にゃえっ!?」
びくーんとミアの毛が逆立った。尻尾を立てて警戒しているミアに、再び偏也はくすりと笑う。
「はは、面白いな君は。嘘だよ。……ほら、ただの映像だ」
「ふえっ!?」
偏也がテレビのリモコンを押すと、ぷつりと画面が黒くなる。しかし、ミアからすれば逆に恐怖が増した感じだ。
先ほどの人たちはいったいどこにと震えるミアを見やりながら、偏也はおもむろに時計を見つめる。
時刻は夜の10時過ぎ。だいぶ遅くなってしまった。
「説明してもいいが、小腹が減ったな」
偏也の呟きを聞いて、ミアは警戒しながらも小首を傾げる。
今の状態のミアに夜食を頼むのも無理があるだろう。それに、百聞は一見にしかず。見てもらったほうが早い。
「ミアくん、食べに行くぞ。付いてきたまえ」
時間が時間だ。手頃なところで済ませよう。そう思い立ち上がった偏也の後を、ミアが慌ててついて行く。
玄関まで行き、偏也はドアノブに手をかけた。
一瞬だけミアに振り返り、彼女の耳と尻尾を確認する。
「……エプロンだけ外してくれないか」
どちらかというと、こっちの方が問題だ。指示に従うミアを眺めつつ、偏也は今夜の夜食に思いを馳せる。
「牛丼とか、好きかね?」
そんな偏也の質問に、ミアは当然のように小首を傾げるのだった。