第04話 ねこ耳の少女と不思議な鏡 (1)
「お帰りなさいませっ!」
鍵が開く音に、ミアは慌てて玄関へと駆けていった。
挨拶をしながら駆けつけると、すでに偏也は靴を脱いでいるところだ。
「すまない、予定よりも遅くなった」
「いえいえ。お疲れさまです」
くたびれた様子でミアに声をかける偏也に、ミアは明るく笑みを返した。それを見て、偏也も少しだけ表情を和らげる。
偏也のコートを受け取りながら、ミアは得意げに主人をリビングに連れて行った。
「ほう……これはまた」
リビングに踏み入れた瞬間、偏也の顔が驚きに染まる。
「ミアくん、凄いじゃないか」
思わず、偏也はミアに向かって感嘆の声を出していた。ミアも、誉められたことが嬉しくて、その顔が一面に輝いていく。
「いや、本当に綺麗だな。僕の家じゃないみたいだ」
「にゃふふ。頑張りました」
偏也が嬉しそうに部屋を見渡すのを見ながら、ミアは胸を突きだした。
それもそのはずだ。足の踏み場もなかった床は、ぴかぴかに。ゴミで埋まっていたテーブルも、埃一つ落ちていない。
得意げな様子のミアに、偏也も嬉しそうに頷く。正直、そこまで期待していなかったが予想以上だ。
「あ、そうだ偏也さん。水筒とお皿、洗っておきました。後、よく分からないものはこちらに」
「……水筒?」
部屋を眺めている偏也に、ミアはそういえばと口を開いた。偏也を手招きし、キッチンのテーブルの上に指をさす。
首を傾げる偏也の視線の先に、綺麗に洗われたペットボトルとカップ麺の容器が飛び込んできた。
丁寧に並べられているプラスチック達に、偏也は目を見開く。
さすがの偏也も、思わず横を向いて小さく噴き出した。
「っく。くく、そうか……綺麗に洗っておいてくれたんだな」
「はいっ! 割らないように、丁寧に洗いましたっ!」
偏也の堪える笑いには気が付かずに、ミアは元気よく返事をした。
ありがとうと呟きながら、偏也は愉快そうに流し台を見つめる。
「おや?」
流し台まできちんと洗われていることに感動しつつ、偏也は流し台の一角に目を留めた。
除菌も出来る食器用洗剤の隣に、ちょこんと小さな石鹸が置かれている。置いた覚えはないと、偏也はミアの方を見つめた。
「あっ、石鹸がなかったので。私のを使わせて貰いました。い、いけなかったですかね?」
そう言いながら、ミアが偏也を見上げる。何か専用のものを使わなくてはいけなかったのだろうかと、ミアは不安そうに尻尾を垂らした。
それに大丈夫だと見下ろしながら、偏也は愉快そうに蛍光色の容器をミアの前で指さす。
「いけなくはないが。洗剤なら、ここにある」
偏也が洗剤の容器を掴み、その怪しげな緑色に光る入れ物に、ミアが信じられないと目を見開いた。
「そ、それっ! 石鹸の入れ物なんですかっ!?」
震える瞳で、ミアは洗剤の容器をまじまじと見つめる。ミアにとって、洗剤は風呂場の隅か流し台の隅に転がしておくものだ。定位置があれば上等で、それは何処の貴族の家も同じだった。
それに、何処に石鹸があるというのだろう。何やら油のようなものが入っている容器を、ミアは怪訝そうに見つめた。
ミアの疑いの視線に、偏也はきゅぽんと蓋を開ける。
「ほら、ぶくぶくー」
水瓶から水を掬い、偏也は手で洗剤を泡立てた。みるみる大きくなっていく白い泡に、ミアがこの日一番の驚きに目を丸くする。
口を開け、無言で顔を向けるミアに、偏也は楽しそうに笑顔を見せた。
「明日からは、これを使うといい」
「は、はいっ! 使いますっ! 使いたいですっ!」
瞳に光を輝かすミアを、偏也は愉快だと見つめるのだった。
◆ ◆ ◆
「ほう、美味いな」
口に運んだシチューの味に、偏也は小さく声を出した。その賛辞に、ミアが嬉しそうに口を開く。
「ほ、ほんとですかっ!?」
「ああ、ほんとだ。久しぶりに暖かい料理を食べた」
偏也の感想を聞いて、ミアは首を傾けた。誉められるのは嬉しいが、偏也の昨日の料理も十二分に温かかったはずだ。
ミアの疑問に気が付いて、偏也は小さく苦笑する。
「あたたかさにも、色々ある」
偏也の呟きに、ミアはますます首を傾げていった。
そんなミアを見やって、偏也はからんとスプーンを置く。ミアが見れば、シチューは既に空だった。
「君を雇ってよかったということだよ」
偏也の言葉に、ミアの顔がぱあっと華やぐ。
料理は上手い方だと思っていたが、こんな風に褒められるのは初めてだ。
明日からも頑張ろうと、ミアは拳を握りしめるのだった。
◆ ◆ ◆
「にゃふふふー。今日も楽しかったなぁ」
窓の外の月を眺めながら、ミアはベッドの端に腰掛けていた。夕食の席を思い出し、勝手に頬がにやけてしまう。
褒められたこともそうだが、それよりも一緒に夕食を食べるということそれ自体が嬉しかった。
使用人と同じ食卓を囲む旦那様など聞いたことがない。まぁ、自分一人だからかもしれないが、それにしてもやはり変わっているとミアは思う。
それに、この前の麺料理。どう思い返しても、湯を沸かすので精一杯くらいの時間しかなかった。あんな上等な料理、以前の屋敷でも食べたことがない。
料理人でもあるのだろうか。なにせ魔法使いだ。なにが出来ても不思議ではない。
本当に、魔法のようだった。
偏也が魔法使いと呼ばれている理由が、ミアには何だか分かった気がする。
「明日も頑張って働こう」
こんなにも素敵な時間の代金である。手は抜けない。そう思い、ミアはよしと気合いを入れた。
早く寝なければと、ミアはおもむろに服を脱ぐ。
ベッドの脇に置いた桶の湯に、ミアは布巾を浸した。ぎゅっとしぼり、それで身体を拭いていく。
水ではなく、お湯で身体を拭けるのだ。ありがたい話だと、ミアは脇をよいしょとあげた。
「ミアくん。明日の夕食なんだが……」
「ふにゃああああああっ!?」
まさに脇を拭こうとした瞬間、ミアの部屋の扉が開かれる。ひょっこり出てきた偏也の顔に、ミアはつい叫び声を上げてしまった。
「むっ、すまない。……ところでミアくん。何をやっているのかね?」
慌てて身体を布巾で隠すミアに、偏也は謝りながらも首を傾げる。偏也に見つめられながら、ミアは頭に疑問符を浮かべた。
「な、何って。身体拭きですけど」
マジマジと半裸を見つめられ、ミアが恥ずかしそうに身を捩る。そんなミアの手元の布巾を見やって、偏也は両手をぽんと付けた。
「そうか。確かに、この屋敷には風呂がないな。すまない、失念していたよ」
申し訳なさそうに謝る偏也に、ミアの目がぱちくりと見開く。
お風呂というと、浴場のことだろうか。この街にもいくつかあるが、個人の屋敷にあるところなど聞いたことがない。そう思いながら、ミアは両手をぶんぶんと振った。
偏也が謝っている理由が分からず、ミアは困惑したように口を開く。
「い、いえ。お風呂なんてっ。構いませんのでっ」
「そうもいかない。君も女の子なんだから」
ミアの言葉に、偏也は思案するように口元に指を置く。そう思うならひとまず出て行ってくれと生娘のミアは思うが、雇い主な手前強く言えない。
しかしながら、これは浴場に連れて行って貰えるのだろうかと、ミアは少し心を踊らせた。
けれど、偏也の口から出た言葉に、ミアは首をますます傾けさせることになる。
「よし。僕の家で風呂に入るといい」
致し方ないと口を開く偏也を、ミアは思わず見つめてしまう。
「こ、このお屋敷って、お風呂があるんですか?」
その一言に、偏也はきょとんとミアを見やった。
ミアの言葉をやんわりと否定し、けれど偏也は言葉を続ける。
「風呂があるのは、僕の自宅だ」
当然のように口にする偏也に、ミアはわけが分からないと、ただただ口を開けるのだった。