第36話 私のご主人様 (2)
「にゃふふふーん。今日もいい天気ですねぇ」
雑巾を絞りながら、ミアは窓の外へと視線を向けた。
日はまだ昇ったばかりだが、小鳥のさえずりが朝の到来をミアに伝える。
時刻は6時過ぎ。主人はまだ寝入っている時間だろう。
そろそろ朝食の用意を始めなければと、ミアはバケツを持って立ち上がった。
「私もお腹空きましたねぇ」
ぴこぴこと尻尾を揺らしながら、ミアは二階の部屋へと足を進める。向こうの家のキッチンはとても便利で、ミアの最近のお気に入りはトースターだ。
「ヘンヤさんに買ってもらった薄いチーズで……じゅるり」
この間コンビニで偏也が購入していたスライスチーズ。初めは量の少なさに顔をしかめたミアも、トースターから出てきたとろけ具合を見て考えを改めた。
「とろーんとしてて、パンもパリっと。美味しかったですぅ」
そして簡単だ。五分もかからないのにあの美味しさは、正直反則だとミアは思う。
とまぁ、それだけ出すわけにもいかないので何かサラダでもとミアは冷蔵庫の中身を思い出すのだった。
◆ ◆ ◆
「あれ?」
鏡のゲートを通り、マンションの一室に足を踏み入れたミアは首を傾げた。
くんくんと鼻を鳴らし、不思議そうにミアは匂いの下へと歩いていった。
台所に顔を出したミアは、目の前の光景に思わず声を上げる。
「ヘンヤさん!? どうしたんですか!? こんな早くから」
「あ、ミアくん。おはよう」
偏也がこの時間に起きているのは珍しい。働き者の偏也だが、基本は夜中遅くまで仕事をしていて、朝は八時過ぎまでは寝ているのが通例だ。
なにやら食事の準備をしている様子の偏也を見て、ミアが慌てて駆け寄った。
「す、すみませんっ! 言ってくだされば早めに用意しましたのに!」
「ん? いや、大丈夫。お腹が空いて目が覚めてね。……ミアくんも食べるかい?」
言いながら偏也は炊飯器の蓋を開けた。早炊きだが、どうやら美味しく炊けたようだ。
ふんわりと漂ってくるご飯の香りに、ミアはきょとんと目を見開いた。
「えっと、これって」
「白米だよ。牛丼のときに食べただろう? パンもいいが、たまには白ご飯が食べたくなってね」
偏也の言葉を聞いて、ミアがしまったと顔を歪めた。白米に似た主食はミアの世界にもあるにはあるが、基本はパンが大勢を占める。
こちらのパンが美味しいということもあって、ミアはなんの疑問もなしにパンを毎回提供していたが、偏也の好みくらいは聞いておくべきだったと後悔した。
「すみません。気が利かず……」
「え? い、いや。大丈夫だよ。パンも美味しいよ」
しょんぼりと肩を落とすミアを見て、今度は偏也がぎょっとした。そんなつもりはなかったのに、責めた感じになってしまって偏也は困ったように頬を掻く。
「あっちでご飯を炊くのは大変だろう? 後で炊飯器の使い方は教えてあげるから」
「にゃうぅ、面目ないです。パンも最近は出来合いだというのに」
落ち込むミアだが、偏也からすればパンもご飯もイチから仕込むのはかなり大変だ。生地をこね、竈に火を起こすところから初めてなんぞいたら日が昇りきってしまう。
「いいんだよ。向こうにだってパン屋はあるだろ。大変になりすぎないように、手を抜けるところは抜いていいんだ」
なにもかも全部を自分でしようなどと思ったら壊れてしまう。人の世は助け合い。農家さんからスタートしても、色々な人の仕事が支え合って今の自分たちの生活があるのだ。それに対価を払って甘えることは、怠慢でもなんでもない。
「ふふ、ちょうどいい。ミアくん、今日の朝ご飯は僕が君の分も作ってあげよう」
「えっ? ヘンヤさんがですか!?」
驚くミアに、偏也がニヤリと笑う。
以前偏也にカップラーメンを食べさせてもらったことのあるミアだが、今の彼女はアレがお湯を注げば完成するインスタントだと知っている。
しかし、今日の偏也はなにやら自信がありげな表情で。
「美味いぞ」
ミアは期待半分、心配半分な眼差しでご主人様を見つめるのだった。
◆ ◆ ◆
ほかほかのご飯が茶碗に盛られていた。
「……あの、これは」
白いご飯だ。ミアも牛丼を食べたことがあるし、向こうの世界にも似たような食材がある。
けれど、あるはずのおかずが見あたらず、ミアは不安げな表情で偏也を見つめた。
まさか主食を盛って終わりではあるまい。ミアの訴えに、当然だと偏也は頷く。
ことりと、偏也はミアの前に銀色の物体をひとつ置いた。
「こ、これは!?」
ミアの目が見開かれる。
両手で持ち上げて、その硬質さにミアは顔をしかめた。
「なんです、これ?」
丸い物体。食べ物なのだろうが、どう見ても金属だ。要は中身を食べるのだろうが、ミアには開け方がわからなかった。
「これは缶詰って言ってね、こっちの世界の保存食だ。数年は腐らずに持ったりする。勿論、開けなければだけどね」
「す、数年ですか……相変わらず凄いですね」
偏也の説明にミアが驚くが、それでも今まで見てきたものに比べれば随分と常識の範疇だ。
しっかりと金属で蓋をされた入れ物はいかにも丈夫そうだし、中身が数年持つと言われても変な気はしない。
「私たちの世界にも一応ビン詰めの保存食はありますが、なんだかんだでうっかり落として割っちゃいますね」
「真空保存の技術だな。いかにも、こちらの世界も最初はビンでやってたんだが、いかんせん割れる。そこで金属製の缶詰が出来たわけだ」
「はぁ、なんとも力業な」
ただまぁ、単純だが明確な解決法だ。割れるのが問題ならば、割れない素材に入れればいい。ミアからすれば、ペットボトルのほうがよっぽど奇妙だ。
身近な雰囲気の缶詰を見つめながら、ミアは蓋に付けられたプルタブに気が付いた。
「なんか付いてますぅ」
「そこから開けるんだ。ほら、こんな風に」
ぷしゅりと、偏也の缶詰が音を立てる。メリメリとプルタブから開いていく缶詰に、ミアは感心したように手を叩いた。
「ここ、縁で手を切らないように気をつけて」
「分かりましたぁ」
偏也の見よう見まねでミアが缶詰を開けていく。偏也の言うとおり蓋の縁が鋭いので手を切らないように気をつけながら。
剥がれた蓋を右手に持って、ミアは簡単なものだと笑みをこぼした。
「開けるの大変かなって思いましたけど、凄いですね」
「昔は缶切りっていう刃物で開けてたんだけどね。最近はこういうプルタブ式が多いね」
ミアの感想に、偏也はギコギコと缶切りで蓋を開ける真似をする。ミアも大体の想像は付いたのか、納得したように頷いた。
中身のシーチキンを見下ろしながら、偏也はスプーンをミアに渡す。自分は箸を構えて、偏也はシーチキンを軽く混ぜた。
「面白いのは、缶詰の発明から缶切りの発明まで60年ほどの月日が掛かっているってことだ」
「えっ!? じゃあどうやって開けてたんですかっ!?」
シーチキンを興味深そうに眺めていたミアも、偏也の話に思わず顔を上げた。
それに愉快そうに微笑みつつ、偏也はシーチキンに醤油を注いでいく。
「なんでも、ハンマーや斧でかち割っていたそうだよ」
「うにゃあ。そんなことしたらぐちゃぐちゃですぅ」
ミアの指摘に偏也も笑う。簡単そうに思えて、それだけ物事の開発というのは難しいということだ。
「私、こっちの世界の人はもっと賢いと思ってました」
「ははは、これは手厳しいね」
びっくりした様子のミアの顔を見て、偏也は面白そうに口を開く。
思わぬ歴史の話に華が咲いたが、ひとまずは朝食である。
醤油を加えたシーチキンに更にマヨネーズを追加して、偏也はそれを白ご飯にぶっかけた。
ごくりと喉を鳴らせば、腹の奥が早く寄越せと言ってくる。
「いただきます」
ひとこと感謝を口にして、偏也はシーチキンを口に運んだ。
「んー、たまらんな。美味すぎて泣きそうだ」
わざと大げさに言ってみるが、実際感覚としては間違っていない。なぜ一食300円もかかっていないであろう飯が、これほどまでに美味いのか。
「にゃっ! わ、私もっ!」
目を細めて感激している偏也を見ていたミアが、慌てたようにスプーンを握った。
醤油とマヨネーズを慎重に缶詰に流し込み、それをご飯の茶碗にかけていく。
軽くご飯となじませてから、ミアはどきどきとしながら匙を口に招き入れた。
「~~ッううう!?」
途端、ミアの身体がびくりと跳ねる。
シーチキン自体と、旨味の溶けだしたオイル。そしてそこに醤油とマヨネーズ。
最強だった。思わずミアは腰が砕けそうになってしまう。
「お、おいひいですぅぅ」
「美味いよな? いやぁ、気に入ってくれてよかった」
ガツガツと偏也もツナ飯を食らっていく。白いご飯が食べたいなと思ったとき、頭に思い浮かんだのは焼き肉でもカレーでもなくこのツナ缶だった。
ご馳走とは言わないのだろうが、それでもツナ缶には魔力がある。
オイルも全部ご飯にかける。健康なんて知らない。これだけ美味いのだから、残さず腹に入れたほうがいいに決まってる。
「ご飯も何倍でもいけそうだな。うん、久々に食ったが最高だ」
「ふにゃあ、美味しいですぅ」
ミアは感激のあまり涙を流していた。ハンバーグ以来の衝撃といった感じだが、猫らしいといえば猫らしい。
「ははは、ミアくんは可愛いなっ!」
「ぶにょへッ!?」
思わず出てきた偏也の素直な感想に、ミアの口からツナとご飯が飛び出した。
慌ててミアが布巾に手を伸ばすが、その様子も楽しそうに偏也は笑う。
「うむ、今日も飯が美味いっ」
相変わらずな顔でツナ飯を食べる偏也を見つめながら、ミアは恥ずかしそうに口元を隠すのだった。
◆ ◆ ◆
「えっと、缶詰缶詰……ありました!」
数日後、スーパー買い出しに来ていたミアの目が目的のものを見つけた。
手にとって、金属製の缶詰にミアは頷く。
「きちんとプルタブも付いてますし、よしっ」
色んな種類があるが、パッケージの写真からしてこの間のツナ缶に間違いはないようだ。ちょっと絵柄は違うが、問題はないだろうとミアは缶詰をカゴに入れていく。
「ほんと、美味しかったですねぇ」
ハンバーグと甲乙付けがたい美味しさだったが、こちらはなんといっても簡単だ。偏也に出すのはともかく、自分のご褒美用にはこれ以上はないとミアは追加で数個購入する。
「今日のおやつに食べましょうかねぇ」
炊飯器の使い方も偏也に学んだし、これからはご飯のレパートリーも増やさなければならない。
とりあえず白いご飯に慣れなければと、ミアは尻尾を揺らしてレジへと歩みを進めるのだった。
◆ ◆ ◆
「なんだ、いいもの食べてるじゃないか」
「あ、ヘンヤさん。おかえりなさいです」
用事から帰宅した偏也は、台所で休憩しているメイドを見つけた。
見れば、自分が教えたツナ飯を食べているようで、見てしまった偏也の腹もつい鳴ってしまう。
「ひとくちくれないか?」
「いいですよ、どうぞ。ご飯の炊き具合もみてください」
ミアに言われ、よしきたと偏也はスプーンを口に咥える。
ご飯の炊き具合は完璧だ。いい感じだと頷きながら、しかし偏也は首を傾げた。
「炊き具合はいいんだが……なんかこのツナ缶、あっさりしてるね」
「そうですか? 美味しいですけど」
もぐもぐと、それはもう幸せそうに目を細めるミア。偏也は不思議そうに眉を寄せて舌の感覚に集中する。
美味しいことは美味しいのだが、なにか妙だ。醤油とマヨネーズで誤魔化されているが、ツナの味がかなり薄いような……。
「ミアくん、この缶詰って……」
机の上に置かれていた空っぽの缶詰を手にとって、くるりと回す。
目に入った缶詰の側面に、偏也はなるほどと苦笑した。
「あの、ミアくん。次からでいいんだが」
「なんですか?」
スプーンを口に運びながら、きょとんとミアが返事をする。
どう説明したものか。
パッケージの猫と視線を合わせながら、偏也は困ったように愛想笑いを浮かべるのだった。




