第35話 私のご主人様 (1)
「ミアくん、久しぶりに出かけないか?」
マリーの来訪から既に三日、食器を洗っていたミアが偏也の声に振り返る。
マンションの窓からひとつの月を見れば、時刻はもうどっぷりと日が暮れていた。夕食も食べ終わり、今は後片づけと休息の時間だ。
「いいですけど、今ですか?」
「ああ」
偏也の返事に、ミアは手を洗って泡を落とした。皿洗いは終わっていないが、主人が今だと言っているのだから仕方がない。
どうしたんだろうと思って、ミアは手を拭きながら偏也へと近づいた。
「どうしたんです? こんな時間に」
きょとんと首を傾げるミアに、偏也はただただ微笑んだ。
◆ ◆ ◆
「こっちもちょっと涼しくなってきましたね」
夜風を受けながら、ミアはアスファルトの歩道の上で月を見上げた。
肌寒いとは言えないが、心地よい涼けさが二人を包み込む。
「珍しいです。ヘンヤさんの方からお散歩なんて」
ぴょこぴょこと尻尾を揺らして、ミアは後ろを付いてきている偏也へ振り返った。相変わらずな表情だが、どことなしに楽しそうにミアには見える。
「なに、少しミアくんと歩きたくなっただけだよ」
「にゃ? 私とですか?」
後ろ向きに歩きながら、ミアは不思議そうに首を傾げた。普段の偏也は目的をはっきり言う性格なので、今日の偏也はどこか奇妙だ。
偏也の横に歩みを合わせて、ミアは自分の主人の顔をじぃと見つめた。
「……ミアくんは、僕に出会ってなにか変わったかね?」
ふと、ミアの顔を見るでもなく偏也が呟く。
その問いかけに、ミアはうーんと考え込んだ。
「そうですねぇ。美味しいものとか食べたり、珍しいもの見たり……変わったと言えば変わりましたけど」
「けど?」
ミアの言い回しに、今度は偏也が聞き返す。しかし、それに笑うとミアは楽しそうに声をあげた。
「にゃはは、やっぱりヘンヤさんが一番びっくりしましたかね。こんな人いるんだーって。異世界とかより、そっちのほうが驚きました」
ミアの笑顔を見やって、偏也は気恥ずかしくなって頬を掻いた。面と向かってそう言われると、そんなに変なのだろうかと心配になってしまう。
偏也の複雑そうな表情を見上げて、ミアは愉快そうに目を細めた。
「心配しなくても、変わりましたよ。当たり前ですよ。初めての、私だけのご主人様です」
思い起こせば始まりが懐かしい。今では、屋敷の家事に加えて庭の整備も進んでいる。
「まぁ、ちょっとお仕事大変ですから、もう一人くらい人手が欲しいところですけど」
スーパーで見つけた野菜の種で、家庭菜園なんかも考えている。色々とやりたいこともやるべきことも山積みで、こう見えてメイドさんは大忙しだ。
「手の掛かるご主人様と暮らしてますから、そりゃあ生活も変わりますよ」
ニシシとミアは偏也へ笑う。なにを不安がっているのかは知らないが、自分はなんの不満もないと心配性の主人に告げた。
「そうか……それはよかった」
「にゃふふ、変なヘンヤさん」
くすくすと微笑むミアの横を、偏也は黙々と歩くのだった。
◆ ◆ ◆
「わぁ明るいですねっ!?」
目の前に現れた建物に、ミアの目が驚きで見開いた。
640ルクス。文明の極地とも呼べる光を放つ24時間営業の販売所を見つめて、ミアは胸を膨らます。
「ヘンヤさんここはっ!?」
「コンビニだよ。24時間、一日中営業しているお店だ」
「一日中っ!?」
あんぐりと口を開けるミアを見て、偏也も思わず苦笑した。
正直、現代人から見ても24時間営業はちょっと異常だ。便利と言えば便利だが、そんなに無理しなくてもと思ってしまう。
「まぁ、割となんでも置いてあるよ。ちょっと僕は銀行からお金卸してるから、ミア君は好きに見てるといい」
「あ、はい。……え、銀行? ヘンヤさん銀行行っちゃうんですか?」
当然の疑問に、ミアが不安そうに偏也を見上げた。明るいが、夜の知らない店だ。行かないでと表情を変えるミアを見下ろして、偏也がくすりと笑みを浮かべる。
「無人の銀行支店が中にあってね。買い物のついでにお金も卸せるんだよ」
「……はい?」
わけがわからないと眉を寄せるミアに、偏也は愉快そうに頬を掻いた。考えれば考えるほど、今の世の中はやりすぎだ。
頭の上に疑問符を浮かべつつ、ミアはコンビニの中へと足を踏み入れていくのだった。
◆ ◆ ◆
店内を見回して、ミアは呆然と立ち尽くした。
「ふわぁ……すごい」
棚に並んだお菓子を見て、ふむふむとミアは頷く。
スーパーは見慣れたミアだが、コンビニの衝撃はスーパーとは別物だった。
小さい店舗なのに、偏也の言ったように色んなものが置いてある。ノートやペン等の文房具の棚の反対側にカップ麺が並んでいるのはミアにとってはカルチャーショックだった。
「全部このお店が仕入れてるんでしょうか?」
スーパーは、言ってしまえば商店街を大きな建物に押し込んだものと認識していたミアである。これだけ小さな店でこんなに色々な物を売っているというのは、ミアの常識からは想像できない。
どうやって経営しているのだろうという疑問は尽きないが、この世界のことなど考えたところで分かるはずもないので、ミアは深く考えずに店内を物色することにした。
「ふんふん、ペットボトルも売ってますねぇ。見たことないのがあったら買いましょうか」
壁際まで歩いていくと、ガラス戸の向こうに清涼飲料水の群が並んでいた。目を細めてミアが品揃えをチェックするが、残念ながら新人の顔は見つからない。
「へぇー、本も売ってるんですか。……って、にゃうッ!?」
うろうろしていると、ミアはとんでもないものを発見した。
思わず声が出たそれに近づき、ミアはどきどきと目を開ける。
「うわぁ、すごいです」
裸の女の人の絵が描かれた本だった。相変わらず実物のような出来映えだが、それにしても破廉恥だ。
なにやら局部や乳首は文字で隠れているようだが、これは明らかに狙っている。
「……ちょっとだけ」
こそこそと辺りを確認し、ミアは本に手を伸ばした。ミアにもある程度予想が付くというもの。要はそういう用途の男性向けの本だろう。
どこの世界も男ってもんはと呆れながら、ミアは本を手に持った。
「ぐっ……あ、開かない」
ページが開かず、ミアは何事だと手元を見やる。どうもページの端が止まっていて買わないと見れないようになっているようだ。
「むぅ、小癪な。……あ、でも隙間からちょっと見えるかも」
本を丸めると、ほのかに中身が確認できた。文字だけではなく、挿し絵が中心の本らしい。
艶めかしい身体を晒す女性の写真に、ミアはやったぜと尻尾を振った。
「ほほぅ……なるほどぉ」
万華鏡のように筒状にした本を覗き込みながら、ミアはどきどきと鼓動を速くする。こいつぁシャルちゃんには見せられないぜと、ミアはにんまり笑みを浮かべた。
「なにをしてるんだね君は」
「にゃっふううううううッ!!?」
背後から声をかけられて、心臓が口から飛び出すかと思うほどにミアは悲鳴を上げた。
バクバクと鼓動を鳴らして振り向けば、偏也が呆れ果てたような表情でミアを見つめている。
「えっと、これはですね……」
手元に視線を向けられて、ミアはあははと笑って誤魔化した。手遅れだとは思うが、とりあえず誤魔化さねばと少女は悟る。
「欲しいのかい?」
「い、いえ、大丈夫です」
恥ずかしすぎると赤面しながら本を戻すミアを見て、偏也はやれやれと肩を竦めるのだった。
◆ ◆ ◆
「冷たいですぅッ!!」
帰り道、アイスを舐めたミアが嬉しそうに尻尾を揺らす。
結局コンビニではミアが欲しがった2Lのペットボトルのコーラと、偏也が食べたかったアイスの二つを購入することになった。
コーラの入ったビニール袋を腕にかけながら、それでもミアは幸せそうにアイスを舐める。
「ヘンヤさん、これはすごいですっ! 感動ですっ!」
「気に入ってくれたならよかったが……君、パフェのときアイス食べてなかったかい?」
ぶんぶんと尻尾を振り乱しているミアを横目に、偏也もソーダ味のアイスバーを口に咥える。シンプルで懐かしい味だ。
「あれもあれで美味しかったですけど、こっちはなんかすっきりしてます」
「ああ、なるほど」
要はアイスクリームとシャーベット系列の違いだ。偏也も好みとしてはシャーベット派なのでミアの言うことが理解できた。
「暑い日はこっちのほうがいいよな。まぁ、結構涼しくなってきたけど」
「これくらいで食べるのが美味しいですぅ」
べろべろとソーダバーを舐めているミアの言葉に、偏也もなるほどと頷く。
冷たいものは暑い場所で食べるのが美味しいとか勝手に思いこんでいたが、よくよく考えればそんなはずはない。
適度に空調の利いた部屋で、暑い外を見ながら冷たいものを食べる。そこら辺がベストな解答だろう。
「以前、友人と有名なかき氷屋……まぁこんな感じの料理を出す店に行ってな」
「ふい?」
突然話し出した偏也に、ミアはアイスを食べながら耳を傾ける。偏也もただの世間話なので特になんでもないと話を続けた。
「そこはかき氷を美味しく召し上がっていただくためとか言って、クーラーもなにも付けていない、灼熱のような店内でかき氷を食う店だったんだ。今思い出せば、君の言うとおり暑すぎてかき氷どころではなかった」
「うへぇ。もったいないですよぉ、せっかく冷たいもの食べるのにぃ」
確かに、もはや出された水のほうが美味かった気さえする。要は程度の問題だが、クーラーの利いた部屋でアイスというのは中々に良さそうだった。
「君のせいで部屋でも食べたくなったな。どうしてくれる」
「にゃへっ!? そ、それはすみませんですよっ!」
申し訳なさそうに、ミアが偏也に謝った。すっかり舐めきってしまったアイスの棒を更に舐っているミアを見て、偏也も思わず笑ってしまう。
「仕方ない、もう一軒寄って帰るか」
「ふぉおおおッ! ヘンヤさん素敵ですッ!」
思わぬお散歩続行に、ミアが嬉しそうに両手を握る。
夜は更けてきたが、それでも道はどこまでも明るい。
「ついでにプリンも買って帰ろう」
「賛成ですぅうッ!」
文明の灯火に感謝をしつつ、二人はアスファルトの道を歩いていくのだった。




