第32話 宝石王と万華の筒 (1)
「ヘンヤー! ヘンヤー!」
「いてててっ、ちょ、痛い痛い」
髪を引っ張られながら、偏也は勘弁してくれと涙を流した。
横でミアが慌てているが、主人を暴行する張本人が客人のためにどうすることもできない。
「ふふふ、シャルはすっかりヘンヤくんが気に入ったようだな」
「いや、止めてくださいよ。ちょ、抜ける抜けるっ」
男にとって頭皮は大切だ。先ほどからハラハラと抜け落ちている数本に心配しながら、偏也はなんとか肩に乗っかっている少女を引き剥がした。
「ヘンヤ、髪抜けた。ほら」
「ほらじゃないよ。あーあ、こんなに抜けちゃって」
悲しそうな偏也の顔に満足したのか、少女はにっこりと笑ってソファから降りた。とてとてと走り、心配そうに見守っていたミアの元へと駆け寄っていく。
「メイド、やる」
「えっ? あ、はい。ありがとう」
手のひらに数本の黒い髪の毛を受け取って、どうしましょうとミアは偏也を見やった。好きにしてくれと偏也が両手を上げ、困ったようにミアはそれをポケットに仕舞う。
「しかし、驚いた。本当に君がメイドを雇い、自立した生活を送っているとは」
凛とした声が応接室に響く。
溜め息を吐きながら、偏也は対面のソファーに座る客人を見つめた。
「だから言ったでしょう。マリーさんが心配しなくても大丈夫だって」
赤いドレス。大胆にスリットから出した足を組みながら、マリーと呼ばれた人物は愉快げに笑みをこぼす。
マリーの妖艶に過ぎるプロポーションに、ミアは「ほぇえ」と驚いて口を開けた。
いったい何歳なのだろうか。実年齢がどうあれ、随分と若く見える。
「そうもいかないさ。私は君の後援者なのだから、息子の一人暮らしを母が心配してなにが悪い」
にやりとマリーが微笑んだ。左目の下の泣きぼくろを眺めつつ、偏也はがしがしと髪を掻く。
普段の調子が出ない様子の偏也に、ミアはおずおずと手を挙げた。
「失礼ですが、ヘンヤさん。こちらのお方は?」
気になって仕方がない。事前に聞いた話では、仕事関係の友人としか聞いていないからだ。しかし、二人の雰囲気からただの友人でないことはミアにも想像できた。
ミアの質問を聞いて、偏也はゆっくりとソファの背もたれに体重を寄せる。誤魔化すものでもないと、偏也は眉を寄せてマリーを見つめた。
「マリーさんは、僕がこっちで事業をし始めた頃にパトロンになってくれた人だよ。初めのうちは色々と世話になったんだ」
「ヘンヤさんの?」
驚いたミアの耳が動く。しかし、偏也の事情を知るミアからすれば納得な部分もあった。
偏也がいかに優秀といえど、異世界人だ。右も左も分からぬ世界で事業を始めるためには、なるほど、手を貸すこちら側の人物が必要不可欠だろう。
「おや、私のことをメイドに言ってなかったのかい? ふふ、恥ずかしがり屋だな私の息子は」
「別に黙ってたわけじゃありませんけどね」
憮然と顎を上げる偏也を見て、けれどミアは確信した。
(恥ずかしかったんだろうなぁ、ヘンヤさん)
背中からでも照れているのが分かる。しきりにミアを気にしているのが気配で伝わってきた。
この様子だと世話になったというのは本当だろう。なんとなく自分やサラに詳しく説明しなかった理由も想像できて、ミアは内心でくすりと笑った。
「まったく、いきなり屋敷を見せろとか。家庭訪問の気分ですよこっちは」
「なに、思ったより人間らしい生活をしているようで安心した。私はてっきりゴミ溜めの中で暮らしているものとばかり」
マリーの言葉に、偏也の動きがぴたりと止まる。ミアも心の中で苦笑してしまった。
ある意味、マリーの心配は数ヶ月前までは現実のものだったわけだ。
二人の機微を見て取って、マリーは楽しそうに偏也を見通す。
「まぁ、今の様子なら大丈夫そうだな。メイドも二人雇って、ようやく一人前といったところかね。ただ母としては、婚姻の報告がないのが不安の種だが……恋人はいるのか?」
「目下探し中ですよ。大丈夫です、安心してください」
痛いところを突かれ偏也は辟易と声を出す。つい先日、恋人の申し出を後ろのメイドに断られたばかりだ。
左頬のひりひりとした痛みを思い出しつつ、偏也はエルフ耳の貴婦人を眺めた。
マリー・レオネルドゴールド。名前の響きに漏れず、豪奢過ぎる経歴の持ち主だ。
「それで、麗しの宝石王さまがこんな屋敷になんのご用で? まさか、本当に僕の暮らしぶりを見に来ただけなんてことはないでしょう」
都にまで名声を轟かす宝石商人。広大な鉱山の採掘権をいくつも持ち、裏の社会にも顔が利くと言われている怪物だ。
世話になったのも事実で、気に入られているのも事実だろうが、それだけで目の前の人物が来訪するはずがないのだ。
「ふふふ、そうだな。元気な息子の顔も見れたとするし、母親面はここまでにしようか」
そう言って、マリーは不敵な笑みを浮かべた。途端、ぞくりとミアの背中に悪寒が走る。
相変わらずこの人はと、偏也も気合いを入れ直してマリーへと相対した。
ビジネスの話となれば、食い殺されないように気をつけなければならない。
「っと、ちょっと待て。シャルはどうした?」
そんな緊張を、マリーがおやと切って落とす。
そういえばと偏也が応接室を見回すが、シャロの姿がどこにもなかった。
しまったとミアの顔から血の気が引き、慌てて背後の扉を見れば、いつの間に開いたのか、音もなく半開きになっている扉が顔を見せている。
「す、すみません! 探してきますぅッ!」
勢いよく駆けだしたミアを見送りながら、偏也も心配そうに目を細める。
それに「まぁ大丈夫だろう」と微笑んで、マリーは自慢の息子をじっと眺めた。
「なかなか可愛い子じゃあないか。もう手は出したのかな?」
「……ノーコメントですかね」
憮然と座る偏也を面白そうに見つめ、マリーは愉快だと笑うのだった。




