第22話 竜と猫 (1)
ミアがカップうどんに舌鼓を打っている頃、偏也は異世界の街を一人ぶらぶらと歩いていた。
日も暮れ、治安が良いともいえない道を前に進む。
「こっちは冷えるな」
最近、気温に鈍感になってきた気がする。冬と夏を連日行き来している影響だろうか、どちらにせよそんなものかという気になってきた。
白くなりだした吐息を見ながら偏也は路地を歩いていく。
別に、金はあるのだし歩く必要はない。こちらの世界にもケンタウロス族がやっている馬車があって、要はタクシーだ。事前の予約は必要だが、大通りの駅舎に行けば金を払えばすぐに乗れる。
がたがたと揺れる座席。あれは尻が痛くなるからなと偏也は地面を見下ろした。
土の地面だ。当たり前だと思うが、日本だと地面といえばアスファルトなのだから奇妙な話。
東京にいた頃など、土の地面を踏むなんて年に何度あっただろうか。
「こっちの方がいいやね」
呟く。自分たちの暮らす足下さえも埋め伏せて、いったいどこに向かうというのか。
「っと、くそっ」
そのときだ、足の裏がべしゃりと水を跳ねて音を鳴らした。見ると、店先の地面に小さな水たまりができている。
どうも店主がバケツの水を捨てたらしい。眉を寄せ、偏也は泥が跳ねてしまった革靴に目を細めた。
「……やはり土はだめだな」
早々に前言を撤回し、偏也はあーあとつま先を鳴らす。
身なりは靴からというが、散々なパーティになりそうだ。
「ん?」
そのとき、偏也の耳になにかが聞こえた。
苦い顔で靴を見下ろして、そしてどこからともなく聞こえてきた声に偏也は顔を上げる。
うっすらと聞こえる。これは、声だ。男と、女。
「っせーなッ! 違うって言ってんだろッ!」
女の声が大きくなった。はっきりと聞こえた怒声に、偏也は面倒そうに顔を向ける。
どうも向こう側の裏路地からだ。喧嘩だろうか。
触らぬ神になんとやら。偏也が早く立ち去ろうと足を早めたとき、女の声が焦りを帯びた。
「な、なんだよッ! 放せよッ! ち、違うって言ってんじゃんッ!」
その声に、偏也はハァと溜め息を吐いた。
面倒事は嫌いなんだがと思いつつ、偏也はつま先を路地裏へと向ける。
妙なことになりませんように。男は異世界の街で、とりあえずの安全を祈るのだった。
◆ ◆ ◆
「ちょ、痛っ。は、放せよぉッ」
分かりやすいと言えば分かりやすい光景だった。
太った男に派手な女の二人組。その男の方が、メイド服を着た女の子の腕を掴んでいた。
「この小娘! 警察に突きだしてやる!」
「ふざけんなッ、誤解だって言ってんだろぉッ」
女の子の声は今も強気だが、心なしか弱々しくなっている。
少女の手に革張りの財布が握られているのを見て、偏也はなんとなく事情を察した。
「あの、どうされました?」
息を小さく吐き、一拍。呟かれた偏也の問いかけに、場の動きがぴたりと止まる。
三人分の視線。それでも、男の身なりが上等なことに偏也は少し安心した。
「なんだあんた? 関係ないだろ」
「いえ、あちらの通りまで声が聞こえてましたので。女の子の悲鳴ですよ?」
偏也の言葉に、男は少々焦ったように財布を引ったくって腕を振りほどいた。解放された女の子が、ぎゅっと腕を胸に抱える。
弁明するように、男は少女に指を突きつけた。
「この小娘がワシの財布を摺ったんだ。ワシが気づいたら、慌てて『落としましたよ』なんて抜かしやがる」
「だから誤解だって言ってんじゃんッ! 摺ってなんかねーよッ!」
少女が声を上げ、男は鬱陶しそうに苛立ちを露わにした。
彼女の姿を一瞥し、偏也へと同意を求めるように親指を少女へ向ける。
「こんな不良娘の言うことなんか信じられるか。メイドっていうのも怪しいもんだ」
男の指さす方、少女をよくよく見てみれば、なるほど奇抜な出で立ちだった。
種族は、ドラゴンの亜人……ドラゴニュートと呼ばれている人々だろうか。竜の角に、額や首筋に見える小さな鱗。それに、メイド服の下からは太くて大きな尻尾が警戒するように伸びていた。
しかし、男の言っているのはそういう種族的なことではない。
少女の格好は、お世辞にも誠実とは言えないものだった。
竜の角は片方がなぜかピンクで、額の鱗は一枚ずつ、七色に染められている。耳を見れば、この世界では珍しくピアスも空けているようだった。
眉が薄いのは爬虫類寄りの種族の特徴だからいいとして、これは立派に不良娘と言えるだろう。
偏也にまで睨みつけるような視線を送ってくる少女を、偏也はふむと見下ろした。
「な、なんだよ。言っておくけど本当に……」
「財布を摺ったというのは本当かい?」
少女の声を、偏也の質問が遮った。先ほどから少女は答えを叫んでいるが、それは男に向けた言葉だ。
じっと見つめる偏也の視線に、しかし少女は力強い眼差しで口を開いた。
「だから、何度も言ってんだろ。落とした財布拾ってやったら、盗人扱いされてんだよ。こんな成りしてっけどな、人様のもん盗って遊ぶほど腐っちゃいねーよ」
唸るような声。睨みつけてくる少女の声と瞳に、偏也はよしと頷いた。
「こう言ってますが?」
腕を組み、あっけらかんと偏也は男に言い放つ。
あまりに自然と偏也が聞いたので、男も少女も驚いたように目を見開いた。
「こう言ってるって、あんた。そいつの言うこと信じるのかい?」
信じられないと男は少女を指さした。少女も、こうなればこうなったで驚いたように偏也を見上げる。
「信じますよ。拾ったって言ってるんです。僕を立てて、ここは退いてくれませんかね?」
そう言う偏也に、男は納得がいかない様になにかを言い掛けた。しかしそれを、男の隣の女が腕を回して止める。
「ねー、もういいじゃん。財布戻ってきたんだしさー。それより早く行こうよー。さむいー」
「あ、ああ。そうだな」
どうやら、納得よりも女を優先したようだ。元々女の前だから腹を立てていたのもあったのか、男は少女を睨みながらも路地裏の方へと女と共に消えていった。
君の連れも大概だけどねと、偏也は男と女を見送って、さてととコートを羽織り直す。
余計なことで時間を食った。急がなければパーティーに遅刻してしまう。
「ちょ、ちょっとあんたッ! ま、待ってよッ!?」
「ん? なにかな」
踵を返した偏也に、少女は慌てて声をかけた。それに、なんの用だろうと偏也が目を向ける。
真っ直ぐな偏也の視線を見て、少女はぐっと唇を結んだ。そして、絞るように声を出す。
「な、なんで助けて。……てか、その……な、なんもしてかなくていいのかよ?」
少女の言葉に、偏也ははてと首を傾げた。分かっていない偏也に、少女はぐっと拳を握る。
「そ、その……あの、なんていうか、アタシにして欲しいこととか」
ごにょごにょと呟く少女の声を聞いて、偏也はようやく理解した。
どうも、下心があったと勘違いされたらしい。
「なんだ、情婦だったのか」
「ち、違げぇーよッ! なんもする気はねぇよ馬鹿ッ!」
かぁと、少女の顔が真っ赤に染まる。要は彼女は本当にメイドで、けれど自分を下心満載の助平男と勘違いしたようだ。
「心外だな。僕は君を信じたというのに」
「なッ!?」
偏也の不満に少女は口を開けた。けれど、偏也の言うことも最もだと少女は黙って下を向く。
「……本当に、その、拾ったんだ。落ちましたよって、声かけるとこだったんだ」
誰に弁明しているかも分からずに、少女はメイド服の裾を握りしめた。
「だろうね」
偏也の短い返答を聞いた少女の顔が上がる。
そんなに何度も言わなくとも、こちらはあのときに信じている。
なんでと口を開く前、偏也ははっきり少女へ告げた。
「嘘は言ってないと思った。僕が思ったのだから、それで君に騙されたなら僕が悪い」
仕事と同じだ。これでも人を見る目には些か自信がある。
仕事と違うのは見返りがなにもないことだが、それはまぁ公共の福祉の役に立つのは当然の義務だとでも言っておけばいい。
「なんにせよ、ファッションを楽しみたいなら場所と時間には気を付けたまえ」
もうすっかり日は落ちている。街灯はあるとはいえ、ここは日本の渋谷ではないのだ。女の子が一人で出歩いていい時間ではない。
踵を返し去っていく偏也を、少女は呆然と見送った。
染めた角と鱗には、特別なにも言わなかったことを思いだし、少女はそっと自慢のピンクの角を触る。
視線を足下に落とし、少女はふと顔を上げた。
「……あれ?」
そこには、眉を寄せこちらを睨んでいる偏也の姿。
とっくに立ち去っているはずなのにと不思議に思い、少女は困惑の表情を偏也へ送る。
そんな少女に、偏也は時間を気にしつつ急かすように声をかけた。
「なにをしている、早くしてくれ。こっちは予定に遅れそうなんだ」
それが、大通りまで送ろうと言っているのだと理解して、少女は慌てて偏也の元へと駆けだした。




