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お先に失礼しますと田崎医院長と、5時から交代の中岡医師に声をかけるとちょっと待ってと呼び止められた。きみ、クラシックって聞きます?30半ばの、唇の赤さが正直気味の悪い中岡医師に、院長室横の階段でチケットを片手に良かったらご一緒にと微笑まれ依子はくらりとする。当然断る訳ないでしょう、とでも言いたげな自信満々な様子だ。女性からすれば人気商売の医師にあって、30半ばまである意味、売れ残っているのはこんなところが原因なんだろう。それでなくてもこんな地方の個人病院でバイトしかしていない医師なんて、正直その腕に疑問を持ってしまうのに。
実は、と依子は言葉をにごす。その日、兄が上京するんです。色々案内しないと。残念だなぁと赤い唇を歪める中岡に心の中で鉄槌を食らわしてトイレでナース服を脱ぐ。ピンクのこの服は誰の好みなんだろう。医療関係の仕事に就きたい。そう思い資格ばかりは取ってみた医療事務だけれど、この院へのパート採用が決まって渡されたのがこれだった。看護婦さんと患者に声をかけられる度、いえ私はナースではなくただの医療事務なんですと心の中で言い訳する。コスプレのようなピンクの制服は、何だかわたしの中途半端さに似ている。
外に出ると9月といえどまだ残る熱気がぐわんと押し寄せる。申し訳程度に配置してある駐車場に、脇から脇からぼうぼうと繁殖した雑草がみじめったらしい。自転車に鍵を入れながら、草むしりをしないとと思う。国道沿いを走る。今日はスーパーに行こう。自転車のハンドルに透がふざけて付けた生成りのレースリボンがハタハタなびく。少しだけ幸せな気分になる。
実は透との出会いは自転車だった。病院に行きそして帰る地味な私の日常に、自転車というものは結構重要なファクターで、だからオレンジ色の粋なやつを買ったのだけど、病院帰りにたまに寄るこぢんまりした喫茶店から出て自転車を押し始めたら違和感があった。見ると前輪が何かで傷つけられたのか、空気がぺしゃんこに抜けていた。
困りましたね、と声をかけたのが透だった。彼のことは喫茶店で何度か見たことがあった。陰のある長髪といつも提げているギターが何だかクリエイティブな雰囲気の人だなと思っていた。これは持ち上げながらじゃないとそもそも移動できないですよ。透は淡々と言う。どうしようと考えていると、ひとまず俺の家まで運びましょうか、すぐそこなのでと彼はいった。スミマセンと頭を下げるとかれは口の端を上げて微笑んだ。
ギターを背に提げながら、自転車の前輪を浮かして運ぶ彼の後ろを依子は申し訳ない気持ちで歩く。途中ギターが自転車にがこんと当たったので、それ持ちますと受け取ると、煙草の匂いが強く漂った。どんな音楽やってるんですか?透が答えた単語はよく分からなかった。そうなんですね、と返すとかれはまた口の端をちょっと上げたのだ。
今日は透の好きな煮物を作ろう。あといんげんと豚肉の芥子和え。スーパーでいんげんを手に取り依子は素早く3日先までのメニューを考える。あと、チョコレート。あの人は意外に可愛らしいものが好きだ。牛乳とペットボトルのおかげでずっしり重いビニール袋を自転車のカゴに入れ、依子は走り出す。帰ったらゲームでもやろう。
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お疲れさまー。
居酒屋のレジを閉めて従業員控え室に戻るとそこは煙が充満していて、男ばかり5人が煙草を手にぼそぼそ会話をしている。先の更衣室から出てきたバイトの女の子が眉をしかめて男たちの後ろを通過してくる。煙いね、と声をかけ外に通してドアを閉める。
透さんお疲れ様です。最近いい曲書いてますかぁ?ライターを探しごそごそしている俺に大学3年生の寺田が火を差し出す。んーぼちぼちだな。そう返すと寺田は、俺、そろそろ就職活動なんですよねと煙を吐く。色々考えるんですけど、でも周りで、バンドで生きてくとか言ってた奴が真剣にシュウカツ始めたりしてるんです。男ならやり切れよって思うんですけどそう考えるとやっぱ透さんてすごいんですね。とキラキラした眼を向ける。
まぁな、リスクをどう考えるかって話だけどねと俺は答える。大成できなきゃ意味ないわけだし。これで食ってける保障なんてどこにもないからそいつらの決断も全然意味あると思うよ。煙を吐くと寺田は不満そうな顔をする。確かにそうですけど、なんかつまんないですね。そう言って制服のネクタイをゆるめる。透は言う。でもここで可能性を潰すってリスクが俺は一番怖いなと思ってさ。だからこんな生活してんだ。
お前何になりたいんだ、と聞くと寺田はいやそれが何だかわかんなくて。と言うのでツッコミを入れながらも、そんなもんだよなと思う。人間、自分がほんとうは何がしたくて、何に向いてるかなんて分かっている奴は少ない。だからこそ心理テストや自己分析やらに誰もが飛びつくんだろう。
ウチで飲みませんか、と誘う寺田に今日はパスと断りバイクのエンジンをかける。9月の夜は涼やかだ。バイクで走るには一番いい季節だと思う。
モラトリアムと寺田を笑うがいい。俺がいちばんモラトリアムだ、寺田は思う。就職活動というタイミングで就職を選ばなかった。型にはまるのが怖い、と思った。ノーミュージックノーライフ、それだけは確実に分かっているのだからこれを仕事にすればいい。単純に納得があった。だけどそれから4年。まったく芽がでない俺はバイトとバンド練習、たまのライブハウスという一定航路で4年間を過ごしている。今後の保障はまったくない。
アパート下の、依子のオレンジの自転車横にバイクを止める。俺のつけた生成りのレースが強情に、まだ付いている。なんだか、ほっとする。いい加減くたびれてきた階段を上がる。しらじらしい安蛍光灯が、階段のサビをくっきり浮き上がらせている。