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浴室  作者: 出雲はつ
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─この世で一番、近くにいるものって何?

煎餅布団からずいと煙草に手を伸ばして透はいう。


─なにそれ?透って答えてほしい訳じゃないでしょ。

襖の鶴を眺めながら依子は薄く笑う。


─んー、物質的に「一緒にいるな」と思えるものっていうか。

唇の端を曲げて透は煙を吐き出す。夕焼けに部屋が赤く染まる。透の顔はりんかくだけぼんやりと浮かんでよく見えない。依子はむくりと起き上がり透に肩を並べる。布団から出した手がオレンジに染まる。


─物質的?え、「子どもの頃から一緒に寝てるぬいぐるみ」とかじゃなくて?

透は依子の手首を返して脈のあたりを撫でる。そうしてそこにくちづける。ぷわぁと白いものが手首から漂う。口内に貯めた煙を透は手首に吐きつけている。なまあたたかい人の息を依子は感じる。問いかける眉をする。


─おれは、水かな。

ようやく手首へのキスをやめた透は、空気はちょっと存在感ないしね、と続ける。風呂に入ると俺、ゆっくり沈むの。まずは足から。そして胴。じわじわと体を水が取り囲むんだ。ようやく肩まで浸かると、ぶくぶくと潜るの。で、息をとめて。ゆっくりと鼻に耳に侵食する水を感じるんだ。肺に空気がなくなって血がのぼりつめた時、名残惜しいながら俺はようやく顔を上げる。肺に息が戻るときのあの「生」の感じ。あの焦ったギリギリの生のかんじ。


煙草盆を引き寄せて透はぐりぐりと灰皿に煙草を押し付ける。簡単な圧力でぺしゃりと潰れ、脇から茶色い中身を見せる。





田崎医院の受付に座る前に、依子は備え付けの鏡の前で立ち止まる。落合工務店。ロゴの金字がだいぶ剥げた鏡を覗き込むと、ナース服からのぞく白い首筋に痣が見えて眉をしかめる。いつもはひとつ開けているボタンを上まで閉めて朝の光が差し込む事務机につく。レセプトコンピュータの電源を入れると、キャビネットの鍵を開けて診察券入れやもろもろ書類の束を取り出す。


死にそうに退屈な動作だ。判子セットを出しながら依子は思う。

仙台から出てきたころは、東京に来れば世界は変わるのだと思っていた。表参道でランチをして、買い物をして、格好いいボーイフレンドと湘南でデートして。全くそういった経験がないとは言わないが、短大に入ってできた友人はいわゆる依子と同じ上京組で、ブランドバッグを提げる華やかなグループは教室のはるか後ろで嬌声を上げていて特に関係することもなかった。


友人とは主に学校や駅近くの喫茶店でおしゃべりをし、たまにカラオケに行き、誘われて入った他大と一緒のテニスサークルではここぞと人脈を作る華やかグループの女子を尻目に、よくやるねぇと友人とベンチを温めていた。そんななかでも恐る恐る着いていった夏合宿では、冴えない男子に舌のまわらぬ告白をされ、遠まわしに断ろうとしたら急に唇が重なってきて人間の唇って柔らかいなとぼんやり思っていたらいきなり舌が入ってきてその生臭さにかれを突き飛ばした。


透だっていつでも性急だ、と依子は思う。荒々しくて無骨で。レセプトコンピュータの画面が立ち上がったのでパスワードを入れる。やさしく扱ってもらったことなんてない。それでも寂しそうな、どこか何かを拒絶しているような彼に同じ土俵で言葉をかけることなんて難しいから、かれが私を抱く波長に合わせることで少しは寄り添ったような気にはなる。性急だからこそ求められていると思える。きつく首筋を吸われたとき、痣になるだろうなとぼんやり頭の奥で考えてはいた。それでも首を振らなかったのは証のようなものが欲しかったからかもしれない。


医院の重いガラス戸を開けると、目の前にはコスモスの鉢をもった老女が微笑んでいた。おはようございます、これ飾ってねと皺だらけの顔で微笑む。蒸せるような土の香とともにずっしりとした重さが腕に移行する。慌ててガラス戸を抑えると、ありがとうねと言いながら老女は中に入り、テロテロした袋から持参のスリッパを丁寧に取り出す。依子は体でドアを押さえながら鉢の重心を左手に移し、器用に右手を伸ばして扉の札を診察中にかけかえる。


コスモスの鉢植えを受付のピンク電話脇に配置すると医院長の田崎が姿をみせた。寝癖が立っている。前田さん、お見えです。声をかけると白衣を羽織ながら「体温測っておいてもらってね」という。分かりましたと答えながら、アタマ、と合図する。ああ、と苦笑いを浮かべて田崎は鏡を覗き込んだ。


鉢植え、電話のところに置かせて頂きました。そう言って体温計を渡すと、もう秋だからねぇと皺皺の顔をいっそう皺皺にして前田さんは笑う。秋ですねぇ。依子も返す。ようやく寝苦しさがとれてきましたね、と言うとそうなのよ、私クーラーが駄目だから、と前田さんは言って体温計を脇に挟み込んだ。終わったら声をかけて下さいねと言い事務室に戻る。ぽつぽつ他の患者さんも来るころだ。





昼すぎに透は目を覚ます。大学に行き始めたころはその優雅さに、一服しながらしみじみ、自由だ、なんて馬鹿なことを呟く余裕もあったが、今はただ気だるいだけだ。夏の盛りは過ぎたけれど日差しは十分にあたたかい。ぼさぼさの頭をかきながらまず煙草に火をつける。


食卓の椅子にどかっと腰を下ろすと、几帳面な依子の字で「バイト前に洗濯物取り込んでね」というメモが見える。ベランダを見ると依子のよく着ている生成りのシャツが黄色い日差しの中でふわふわ揺れている。冷蔵庫を開けるとラップをかけた焼き鮭がしっかり置いてあって、何故だか罪悪感を思う。煙草を灰皿に押し付けて洗面台に行く。相変わらず顔色が悪い。2つ並んだ歯ブラシの緑色を取って、歯磨き粉を出す。よれよれのTシャツにぼさぼさの長髪。鼻にはうすく脂が浮いている。


味噌汁に火を入れ透は白飯と鮭をレンジにかける。水道をひねり水を一杯飲む。生ぬるい。煙草を吸いながら味噌汁椀と海苔の佃煮を用意する。朝食なんて健全なもの、依子と暮らして初めて食べるようになった。はじめはくすぐったかったが、今では体が先に動く。チンとレンジが鳴り、呼応するように味噌汁が吹く。豆腐と若布入り。何だって味噌は家庭の匂いがするんだろう。


味噌汁をすする音だけが響く。往来から外れたこのアパートは、しんとしている。独身者用のアパートなのだから、無論皆勤めに出るか学校に行くかしているんだろう。そう考えると苛々するのでロック雑誌を開く。伝説のロックアーティスト特集。往年のバンド数組の歴史が語られている。


ノーミュージックノーライフ。何に秀でているでもなく、ちょっとギターが弾けただけなんですと、訥々とカリスマミュージシャンが言葉をつむぐ。音楽しかコミュニケーションの手段がなかったんです。これしか、俺と世界をつなぐものはなかったから。いかにもアーティスト然とした格好いい写真の横にそんな言葉が並ぶ。海苔の佃煮を山盛り、飯の上に乗せてかきこむ。それでも彼は、ギターっていう分野においてはトクベツになれたんだろ。透は思う。何に秀でているでもなく、とかれは語るけど、1つでも秀でているものがあればいいじゃないか。依子のこだわりでもある、3丁目の豆腐屋で買った木綿豆腐を咀嚼しながら、透は思う。


ギターに手をのばす。作りかけの曲に思考をめぐらせる。コードを押さえながらサビになりそうな部分をくちづさむ。そこばかり何度か繰り返す。その前のコードはどうしよう。この進行だとありきたりだし、もう少し複雑に音を構成したいのに。苛々と煙草に火をつけ透は作曲用のメモ帳に斜線をひく。これは、ナシだ。


気分転換をしよう。透はゲームの電源を入れる。最近発売された、高機能のサッカーゲーム。前回の試合の展開を思い出してわくわくしながらも、心の奥にぼんやり澱が淀む。

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