偏狂的ロマンス
恋の種類は多種多様。
私は、彼の全てを愛しているわけではなかった。
そんなことは彼もきっと、解っていると思う。
私が愛しているのは、たった一部。彼の、手首から指先までのその部分で、彼と過ごす時間の中で、私はその大半を彼の其処だけを見つめていた。
そもそも、私は彼にてんで興味がなく、最初に熱を上げていたのは、彼の風貌や仕草や雰囲気や話し方、それらを溺愛していた友人の方だった。
彼を初めて目にしたのは、恵比寿にあるライブハウスが併設された小さなカフェで、彼に心酔しているその友人と共に、彼のピアノを聴きに行った時のことだった。
私は友人のように彼に心奪われてなどは勿論いなかったのだが、彼のピアノを耳にしたことはあって、彼の紡ぐ音色――繊細で儚げなのに、やたら力強い、それでいて物憂げな、その音色は、陶酔するほどで無くとも、友人同様好んでいて、初めて耳にする彼の生演奏を心待ちしていたのをよく覚えている。
ライブ当日、会場に入ると同時に私と友人は客席の前衛を陣取り、少しでも彼を近くで見ようとしていた。
私たちは彼がピアノの前にスタンバイするまで、妙な緊張感を漂わせつつ、彼の演奏を待ち焦がれていた。
友人の膝の上には真紅の薔薇のブーケ。友人はそれを演奏終了後、彼に渡すつもりでいて、その頬はまさに薔薇色に色づき、友人の高揚した気持ちを示唆していた。
やがて彼が現れ、客席から拍手が起こる。固唾を呑むようにこの時を待っていた私たちは、その音にハッと我に返り、周りに合わせるように遅れて盛大な拍手を送った。
その時、友人が用意していたブーケが、慌てた拍子に置いていた膝から床に落ちた。友人はかがみ込んでそれを丁寧に自分の膝に戻す。しかし、置いたと思ったらまた膝から転がってしまい、それを何度も繰り返していた友人は、その置き場を考え倦ねるようにして、それでも同じように慎重に膝の上から落とさないように工夫を凝らしていた。
友人の、その仕草がとても愛らしく、微笑ましい気持ちで何となく視線をステージに戻す。
すると一瞬、彼と目が合った。
気のせいかも知れない。ひょっとすると、モゾモゾと動いている友人を見ていたのかもしれない。彼と目が合った。偶然の瞬間である、その時に。刹那的に時間を共有しただけ。ただ、それだけだ。それだけ、なのに、何となく、彼の目が、網膜の裏の一部分にこびりついたようで、離れない。
一体これは何なのか。私は、それが思い過ごしなのか、よく解らないまま、始まってしまった彼の演奏に気も漫ろに耳を傾けた。
彼が奏でる曲は頗る多彩で、自作のものもあれば、ジャズやクラシックなど、誰もが楽しめるような構成で、音楽には疎い私も無論、とても愉しんでいた。
演奏も終盤に差し掛かると、私の好きなサティのジムノペティ第一番が彼の叩く鍵盤から囁くように奏でられた。
それを聴いている間、どうして、私はその演奏を目を閉じたまま、聴き入ることをしなかったのだろうかと、今は少し後悔している。
何とうっかりしたことか、私は見てしまったのだ。彼の、あの手の動きを。手首から指先までの、彼が私を最も惹きつける、あの部位を。
「なんだか、ピアニストっぽくない手ね」
私が思わず囁く。
「彼の手は、ロシア人のピアニストみたいな手をしてるの。素敵よね」
友人は、私がつい洩らした言葉にうっとりした声で返答し、ますます彼の織りなす音色に酔っているようだった
ロシア人のピアニストがどんな手をしているのか、私には皆目見当も付かなかったが、彼の長くとも丸く太い指や、無骨そうできっとそうでない大きな掌はそれをぼんやり連想させた。
彼の不器用そうな指が、何とも器用に鍵盤の上を走る。軽やかに、そして優雅に。
私は、その面妖さに、彼の手の動きにますます釘付けになり、彼がその手を止める間際までじっと彼の指を目で追っていた。
もしかしたら、彼は私のしつこいくらいの視線に気が付いていたのかもしれない。
そう思ったのは、彼が演奏を終え、客席に向かって深々と挨拶したその後、誰にも解らないように、明らかに私を彼の視界一杯に入れていたのを察知したからだった。
それも先程同様、一瞬の、私と彼のみが共有する時間だった。互いに、視線を外そうとはしなかった。そうすれば、それこそとても不自然に思えたからだ。例えほんの数秒でも、そう感じていたのだ。
気が付くと、私の隣にいた友人が、薔薇のブーケをそれは丁寧に彼に渡すところだった。
私は、暫くの間、彼に束縛されていたような気分になって、居心地が悪くなる。縛られるのは得意ではない。私はいつだって、自由な心でいたかったのだから。
なのに、やはり、目が離せない。彼の、あの手から。友人から、また他の客から受け取った沢山の花束を抱えた、不器用そうな、彼の手から。
彼の手は私を狂わせる。私を固執させる。特段美しくもない筈の彼の手が、私は欲しくて堪らなくなる。
貪欲な欲求は底知れず私の際奥から溢れ出て、留まることを知らない。私はそれに堪えられなくなり、思わず席を立って、化粧室へと逃げるように駆け込んだ。
「ここは、スタッフ専用ですよ」
洗面所で無駄に水を流しながら、その叩きつけられる水の行く先を見つめていると、彼が迷惑そうでも、申し訳なさそうでも、何でもない風な声で私に話しかけてきた。
驚いて、水から目を離し顔を上げると、鏡越しに彼と視線が絡む。
凡庸としているクセに、何て惹きつける目を、この人はしているのだろう。
彼の視線は、彼の手同様、私に執着という言葉を思い起こさせた。
私はやはり、この時どうかしていたらしい。鏡越しに見つめ続ける彼に、突然切なくなって、急に涙が込み上げてきてしまったのだ。
俯いた私の視界には、流れ続ける水がぼんやりとあり、その水音が私の体中に流れ込んできて、私の感情全てを掻き乱し、持ち去ってしまうような気がした。恐くなった私は水の流れを止めようと、蛇口に手を伸ばす。と、同時に、彼の右手が、私の右手に重なり、私は蛇口を、彼は私の手を、しっかりと握る。
数メートル離れていた彼が、いつの間にか息が掛かるほどの背後で、私の手を握り続ける。 そして、私の手ごと蛇口を捻り、水の流れる音を遮断したのだった。
「貴女は、ずっと僕を見ていませんでしたか?」
水の流れる音が消えた化粧室には、水を打ったような静けさが訪れていた。
そこに響く彼の低音で柔らかな声は、私の鼓膜を伝って、私の内部で反響して、また私から排出され、私の全てを揺らした。
「手、だけです」
やっと絞り出した、私のか細い声に、彼もやはり小さな声で、え、とひとこと洩らした。
「手が、貴方の動きが、とても、なんというか、その、」
上手く言葉が出ない私は、いつまでも自分の右手に重ねられた、彼の大きな右手をただ、ひたすら見つめ直すことで、今胸に渦巻く厄介な感情を伝えようとした。
「僕は、貴女を翻弄することが出来たのだろうか」
馬鹿にするでも、嘲笑うでもなく、安堵して囁くように呟いた台詞が、耳に掛かった。
心地よい温度と湿気が、すうっと、私の躰を伝い、官能と言う名の終着点で、それは留まった。
欲情と理性が競り合って、前者があっさりと勝利したその時、私は下敷きにされた右手をするりと彼から逃れさせ、躰を反転させてから、乱暴に彼の左手首を掴み、そこに唇を寄せた。
「此処にする口づけの意味を、貴方はご存知ですか?」
彼の手首に強く吸い付いた痕が、小さく紅く残る。そして、僅かに唇を離した私はそう呟いてから、今度は甘く其処を噛んでみた。
この時、私は本当に、どうかしていた。
彼を、その手をみた瞬間から、私は調子が狂ってしまったようだった。
私は彼の全てを愛してなどいない。それは今も猶、変わらない。
私は彼の、とても狭い範囲の部位に、猛烈に欲情しているだけなのだ。
「君の想う対象が、いつか僕自身になることはないのだろうか」
化粧室での一方的な手首への口づけから、彼は私によくそう訊ねる。でも私は答えることはしない。だって、私自身、その答えを見出すことが出来ないのだから。
あの時、私の問いに、彼は即座に答えた。
彼は私の偏狂的な愛情を瞬時に理解したようだった。
「欲情」と呼ばれる、低俗で、それでいて実に率直な感情に振り回される私を見透かすように、彼はあの時、静寂の中で私に耳打ちしたのだ。
彼の囁きが、彼の弾いたジムノペティのように鮮やかさを保ったまま、今も耳に残る。
勿論、と囁いた彼の、私の欲望を駆り立てる、あの声が。
その時浮かべた彼の口の端の小さな笑みは、何より私を燃え上がらせたことを、彼は未だ知らないだろう。
だから私はその小さな秘密を、独りでこっそり愉しむ。
恥辱ともいえる、とてもとても、小さな秘密を。
それこそが、彼をそれなりに愛していると認識出来る、唯一のことであるかのように思えたのだった。