校路にて
K電鉄のM駅は列車が着くたびに若者でプラットホームが埋まる。というのは、この駅から1キロメートル程離れたところに大学があるからである。
今また、列車がホームに滑り込みドアが開く。しかし30人ばかりが降りるだけである。彼らは午後から講義のある学生で、彼もこの中にいる。午前の講義をサボったのである。彼はプラットホームを出ると煙草をくわえる。これが彼の癖である。否、癖というよりも強迫観念に似た気持ちで火をつける。そうすることが自分の使命であるかのように思い。
吸いたくなくても、吸えば胸苦しくなることがわかっていても、彼は煙草に火をつける。ホームに降り立った学生の中で一番最後を彼は行く。先に行く連中を無気力な目で追いながら、煙草の煙が目にしみたのか、その目は潤んでいるようにも見える。これが青春の真っただ中にいる青年とはだれも思わないであろう。猫背気味な後姿には、打ち沈んでいて悲壮感さえも感じられる。彼の姿からは、青年の持つ希望に満ちた気力と自信が全く感じられない。
突然彼は、猫背になっている自分の姿に気づくと、母の言っていた「また、首をすくめて歩いている。嫌らしい子。お父さんにそっくりやわ」ということばを思い出しては一段と猫背になる。
この辺りは高級住宅街で大きな屋敷が立ち並んでいる。
彼は駅前通りのまっすぐな道を歩いて来て、道が二つに分かれるところまで来た。右は階段になっていて、曲がりくねった道を登っていくと校門に通じる本通りに出る。左に行くと、道の両側に木立の覆いかぶさった中をこれも本通りに通じている。
彼は、入学試験の日に歩いた木立の覆いかぶさっている道を行くことに決めた。そうすることが初心に返ったようで、何か良いことがありそうな気がした。
入学試験が終わって十箇月程度になる。彼は時々その日のことを思い出してみる。
あの日は、駅から大学まで受験生の列がまるで蟻の行列のように流れていた。どうしたことか、彼はいつもそうなのであるが、入学試験では決まって他の受験生が、自分よりも遥かに劣って見えるのである。中学も高校の時の入学試験もそうであった。すべての受験生がくだらない奴に見えてくる。
だから彼は入学試験が好きであった。あらゆる者が緊張感の中にいて、妙にかしこまっている。日頃は元気にはしゃいでいる奴も、自分一人が世の中のリーダーであるかのような顔をしている奴も、気弱な奴も、すべてがそわそわしている。こいうときこそ彼が優越感を味わえる唯一の時間であった。
試験に臨んでひきつった受験生の顔を観る。彼の数列前にいた学生は、ただ背ばかり丸めて一心に参考書を調べている。最後の力を集中しているのである。こういうのを見ると、彼は感心してしまう。最後まで、残りの一秒までがめつく調べるという態度は、彼にはできないからである。彼も当然、他の受験生と同じく試験が始まるまで本を開いてみている。それは、ただ見ているだけでそれ以上のものは何もない。
隣の受験生は、いやにひげが濃くて、頬から顎にかけて髭の剃った跡が真っ青になっている。髪の毛はその一本一本がバラバラな方向に向いていて、櫛という種類のものは生れてこの方彼の髪の中に、一度も分け入ることがなかったように見える。ただ、黒縁の眼鏡の奥で、大きく見開いた目が異様に光っている。
一瞬、こいつは落ちるぞと彼は思った。どうしてそう思ったのかは彼にもわからなかった。ただ、隣の受験生からは、この競争の激しい社会の中でいつも負かされてきた者だけが持ち得る雰囲気を感じ取れることができた。実際、彼は落ちていた。合格発表に彼の受験番号は載っていなかった。
ほかにもまだたくさんいたぞ。だが、それ以上思い出せなかった。いつの間にか忘れ去っていたのだ。
彼は煙草にむせ返り眩暈がした。吸いたくもない煙草をただ義務感にさいなまれて吸ったために。道路淵の溝のなかに、彼は吸い口の部分まで未練がましく保持していた煙草を捨てた。
先ほどの電車から降りたった連中からかなり遅れたのであろう、彼の前には、もう学生は一人もいなかった。ただ買い物帰りであろうと思われる親子連れが彼の前を歩いている。子供は、あの歩き始めた幼児特有の歩き方で、それは「ヨチヨチ」という歩行の擬態語そのままに道の左右に揺れ動いている。
「ママ、ジョンお腹すかして待っている」
「そうよ、お腹すかしているから早く帰らないといけないのよ」
彼女は自分よりも五・六メートル遅れて歩いているわが子の遅さにもどかしがって言った。
この光景を見て、彼は何か清潔なものを感じた。それは、彼のような若さで、もううらぶれて、自分自身をも信頼できぬ・・・・・いくらかの嫌悪感をまじえて・・・・・逆境にいると自分では思いこんでいる者には、侵しがたい新鮮なものを見たように思った。自分にもこういう時があったのだ。あの何もかもが真っ白で新鮮な時期が。将来のことなど考える余地もなかった時代があったのだと思った。
そういえば、幼稚園の頃、先生に大きくなったら何になりたいと尋ねられたことがあった。あの時、彼はいささか当惑してしまった。そして、とっさに思いつきで「左官屋さんになりたい」と言った。
このことがあって後に、母が参観日から帰って、ほかの子供はヘリコプターの運転手とか、バスガイドさんになりたいと言っているのに、浩ちゃん一人だけが左官屋さんになりたがっているから変わっていると先生が言われましたよと言ったものだ。
母親にしてみれば、さぞかし自分の子が将来に夢の持てないことを言ったので残念であったろう。しかし、彼はあの時点において、将来のことはこれっぽっちも考えていなかったのだ。否、考えていなかったというよりも、考えようとすること自体がなかったのだ。彼が他の子供よりも良しにつけ悪しきにつけ、あの幼児独特の空白で新鮮な時が長かったにすぎない。そのため彼は、あの時の先生のとっさの質問に当惑して、何の意思もない思いつきで、知っているただ一つの職業「左官屋」と答えたのであった。
しかし、いつの頃からだろうか、彼が将来のことを考えるようになったのは。
彼の追憶は小学校時代へとさかのぼった。確か、小学校の三・四年生の時であったと思う。先生が休み時間に戯れで、生徒の手相を観て教室全体が和んでいた。ある女の子は、将来あなたは良いお嫁さんになれるわよと言われて喜び、またある男の子は、オリンピックの選手になれますと言われてははしゃいでいた。先生の周りには、次から次へと自分の手相を観てもらおうとする生徒で、教室の一点だけが人だかりでふくれあがっていた。
当然、彼もその中にいた。彼はクラスの人気者として、その群衆の中の最前列に陣を取り、進み出て言った。
「先生、僕の手相はどうですか」
彼の手はもう若くはない、全体に血の気のない節くれだった冷たい手で受けられた。先生は目を近づけたり、手のひらの肉付を観るためか、押さえてみたりして言った。
「神山君は、大きくなったら大金持ちになるわよ。大きなお家に住んで、きれいなお嫁さんをもらうわ」
彼はこの占いに、その時自分がどのような態度をとったか忘れてしまっている。それはその時、心に受けた感激が彼にはあまりにも大きかったために、その時の感情だけが強く記憶に留まったためであろう。しかし、あの時、クラスの人気者だった彼としては、この占いに対して冗談の二つ三つも言って、クラスの笑いを誘ったのであろう。
考えてみれば、あの女先生は、小学校の教師としては実に賢明で妥当な占いをしていた。小学生の心情をよく察して、占われたものであった。生徒の学校での特技と特長をよくとらえて、運動のよくできる生徒にはスポーツの選手に、成績の良い生徒には学者に、比較的可愛い女の子にはきれいなお嫁さんになると占った。
それと同様に、クラスの人気者でいつもおどけてみせている彼に、大金持ちになると言ったことも妥当な線であった。
何の意味もないままに言った言葉が往々にして、人に思わぬ結果を生じさせることがある。その時点においては、占いの本質を知るよしもない彼としては、心に残った波紋は大きかった。これを境にして、彼は自分の運命、人生、将来を考えるようになった。それは子供じみた夢にあったにせよ、彼自身にとっては真剣な問題であった。
その夢はこうであった。彼にはなにか特別の人生が備わっているように思えた。その辺にうずまく人間の運命が幾万、幾億の束になったとしても、自分の運命には到底かなわないものであった。さらに、この少年の夢に輪をかけるようにこの特別の運命は、何の努力もしないで得られるものと彼は確信した。それ故、彼はそれ以後、努力することを嫌ったし、ましてや他人が努力していること、物事に一生懸命になっている姿を軽蔑するようになった。
ただじっと、彼は何もしないで時の過ぎるままにすごした。そのため、日々に彼の生活は他人から見れば怠惰に思えるようになった。しかし彼は、そういう他人から見れば怠惰に見える生活の中で時折、自分の特別の運命を夢想してほくそ笑んだ。
だが所詮、夢は夢でしかなかった。年が経つにつれ、夢で覆われた妄想は、メッキが外界の空気にさらされてはげ落ちていくように、現実に直面して衰徴していった。
ここまで思い出したとき、彼は校門に通じる本通りに入っていた。道の両側には、歩道に沿って桜が植わっている。この季節に見る桜は、春になると淡い桃色の花を咲かすのが不思議なくらい、彼はその木が枯れているとしか思えなかった。枯れて、ただ立っているだけに見えるこの桜の木も、春になればきれいな花を咲かす。しかし、彼の衰徴した夢は一生実ることがないだろう。それはあたりまえのことなのかもしれない。元々は、現実からかけ離れた夢でしかないのだから。彼の創りだした妄想にすぎないのだから。太古の昔から、夢自体がそういうものなのだ。
そういうことはわかっていても、彼が特別の運命を妄想して過ごした日々は、彼を社会とは疎遠な人間に変えていた。彼は身にしみて、自分が特別の運命を夢想して過ごした怠惰な日々の代償の大きさを感じていた。それにはいくらかの反省と後悔もまじっていたかもしれない。
「神山!」
突然、彼を呼ぶ声がした。
「神山!」
気付かない彼をもう一度呼ぶ声がした。声がするほうを見ると、ゼミ仲間である石原が帰ってくるところであった。彼の顔を見るのは久しぶりだった。
「昨日のゼミ、サボったやろ。先生が心配してたで。午前中の自分の専門科目の講義には出席していたのに、午後のゼミにはなぜ出ていないのやろ言うて」
昨日、彼は午後のゼミをすっぽかして早引きしていた。午前の講義を終え、昼食をとるまでは確かにサボる気などなかったのである。ゼミは午後の二時限目にあり、それまでに一講義分の時間があった。その空き時間をどのようにつぶすか考えた。図書館に行って本でも読むか、喫茶店にでも入って時間をつぶすか。冬の寒い季節は、芝生の上で昼寝をするわけにもいかない。良い方法は見つからなかった。どれも一人で時間をつぶすのには空虚で耐えられなかった。
急に淋しくなった。周囲の学生が疎ましく、その反対側に位置する自分が孤独であった。彼はここにいる自分がいたたまれなくなり、逃げるように校舎を後にした。
彼の逃げ場所はほかにもあった。講義を受ける前に彼は食堂に行くことにしている。彼の行く食堂は、いつも人気の少ない業食(業者が入っている食堂なので学生はこのように呼んでいた)に決まっている。業食の建物は二階建ての古ぼけた木造建築で、一階が食堂で業者三者が入り、二階は体育会系の部室になっている。瀟洒な建物の多い学内にあって、ここは浮いた存在であった。しかしその分、彼には最も近づきやすい場所で、安心して落ち着ける場所であった。
業食では、いつも東端の店を利用する。三五〇円のBランチを注文し、一番落ち着ける場所を探して座る。なぜか隅に近いテーブルに座ることが多い。特にお腹が空いていなくとても、ここにきて食べることがよくある。彼にとって、この場所は単に空腹を満たす場所ではなく、周囲のことを気にせず、孤独を感じさせることのない逃げ場所であった。
とうとう彼は校門の前まで来た。校門の前は三叉路になっている。つきあたりが大学であり、左右に道路が分かれている。彼はその三叉路の信号で止まった。校門の内側には、彼とは完全に異質な学生が友人との会話を楽しみながら歩いていたり、数人のグループが立ち止ってにぎやかに話していたりしている。その向こうには校舎が並び、中央の芝生広場の奥には図書館の時計台が見える。彼は一瞬ひるんだ。そして勇気をふりしぼるために心の中で大きく叫んだ。校門に突入していく前に。
「昭和三十一年八月十五日生まれ、神山浩二、二十才」と






